トイレと天狗
ぼくんちのトイレの壁には天狗がいる。
そこから出られないくせに、いつもものすごく威張っている。
ある日突然僕の前に現れて、そして僕の時しか出てこない。
あの日、僕が朝なかなか起きなくて、お母さんが何度も何度もお越しに来てくれたそんな日、ぼーっとトイレに入っていたら、正面の壁のシミがなんとなく天狗に見えるなぁって思った。
まだ目がちゃんと覚めてないからだと思っていたら、本当に天狗の姿になって、いきなり「馬鹿者!」と怒鳴られた。
僕は驚いて、まだ途中だったのにトイレから飛び出した。
僕の声に驚いたお兄ちゃんが急いで来てくれたけど、漏らしちゃうし、パジャマ濡れちゃっているし。
だからお兄ちゃんは僕を心配するよりも、先に惨めな、そんな姿のぼくを笑った。
そして、いくら天狗が出たんだと話しても、笑うばかりで全く信じてくれなかった。
朝から散々だった。
そして僕は学校に行き、その日1日普通に勉強して家に帰ってきた。
帰宅後、僕より先についていたお兄ちゃんにお願いして、トイレを覗いてもらった。
だけど何もなかった。
僕は学校から帰ってくると、だいたいすぐトイレに入る。
でも、今朝の恐怖がよみがえってしまっていた。
お兄ちゃんに、何もいないことを確認してもらったので、僕は安心して入ることにした。
ズボンをおろし、用を足そうとした時、恐怖の大王はやってきた。
僕は、もう怖くて怖くてたまらなくなっていた。
そんな僕の様子をみて、お兄ちゃんは今度は本当に心配してきてくれた。
「僕ん時は何もないんだけどなぁ」
僕の怯えようから、とても嘘とは思えないと、お兄ちゃんはそこから信じて、味方になってくれた。
トイレに入れないと大変だからと、どう攻略するか、お兄ちゃんが一緒に考えようと言ってくれた。なかなか答えは出なくて、僕達はめちゃくちゃ考えた。
それで出た答えが、結局荒療治だった。
それは怖いけどトイレに入る。を何度か繰り返して、慣れていこうということだった。
怖かったけど、実際それを実行して行った。
やってくればだんだんとなれてもくる。
そんなことをやっていたら、次第に天狗の方も気を遣う様になった。
流石に会うたびに怯えられるのはまいったようで、天狗も出現してきてしまった分、引っ込みも効かずとなれば、そうするしかないとなったのだろう。
そんなこんなで、僕もいつのまにかトイレに行くのは平気になった。
そして全然平気になった今でも、もちろんトイレに行くたびに出現してくるのだが、慣れたら慣れたで、出てくるたびに調子こいている。
気を遣ってきた期間を取り戻す様に、今度は説教も兼ねて威張りつくしている。
それはもー偉そうに。
しかも、僕は、最近それがなんかとても面倒くさい。
「おいお前!俺は天狗様だぞ!お前より遥かに偉い。だめなお前は、俺のいうことを聞いていればいいんだ」
僕の生活風景も見ていないくせに勝手なこと言うし、まして時代遅れな天狗の言うことなんて、僕は全く聞く耳を持たなかったし、もちたくもなかった。
「今日、お前朝から今まで、すれ違う人に挨拶したか?全くしてないんじゃ無いのか?ん?挨拶は全ての基本だ。わかっているのか!」
帰ってくるなりこれだ。
トイレに入るのもストレスだ。
「なんで?!別に知らない奴に挨拶とか必要無いだろ!関係ないよ!」
僕は天狗にそう返した。
僕も言われっぱなしでは頭に来る。
だが、これは絶対に言い返してはいけなかった。
「お前はなかなか最低なやつだな。呆れてものが言えん」
天狗はそういうと、静かに消えていった。
そのままで終わると思って、たかを括っていた。
僕は甘かった。
その日僕は、夜9時に就寝した。
天狗は夢の中にやってきて、僕はそこでひたすら説教されることになる。
「お前の人でなしさは流石に目に余るものがある。ワシに反抗していうにしても、その判断さへもまともに出来ていない。たとえ冗談でも、言って良いことと、悪いことの判断もついていない。それは頭がいいとか悪いとかの問題でもない。お前の想像力が無さすぎて人間性に欠陥が多すぎる。優しさは人との繋がりを作る。そしてそれはいつか必要な時に必ず救いになる。
お前は他人事だと思っているのだろうが、すべてお前の行動はお前事なのだ。」
夢の中でズーーーっとこんな調子だ。
もちろん、朝起きれば「頭重い」。
寝起きは最悪だった。
僕の脳内のキャパを遥かに超えていた。
そんな僕の調子を見ていた母が、
「天狗さんが出たの?」となにかを察知した。
母にも天狗の姿は見えないけれど、母さんは僕の天狗話を、最初から何の疑いもなく信じてくれている人だ。
さすが母親とも言うべきか。
実際いつも僕の嘘は母には絶対見抜かれてしまう。
嘘発見器の様な母なのだ。
たまにはつきたい嘘もある。
それがつけないのは苦しいが、母の前で絶対に嘘はつけない。
「天狗出てきたよ。また色々言ってきたから、昨日言い返したら夢に出てきて…夢の中でずっと説教だよ」
僕は昨日のトイレの中、夢の中、天狗とのやりとりを全て母に話した。
「そうだったの。でもそれは、りょうちゃんが悪いわ。さすが天狗様ね。ごもっとも。りょうちゃんも、惨めな大人になりたくなければ早く理解することね。ふぁいと!」
りょうちゃんとは僕の名前だ。
母さんは、そう言うと、台所仕事をまた始めた。
実は、お母さんは前から羨ましがっている。
天狗に会いたい会いたいと言っている。
一度どんなふうに出てくるか、母さんに教えたことがあった。
「ここにこんな感じで出てくる」
と、トイレの壁に指で書いていたら、
「わしはこんなにブサイクではないわ!」
と、頭の中に聞こえてきた。
それをお母さんに言うと、お母さんが謝っていた。
でも、それによって本当にいるってわかってからは、トイレは物凄く天狗仕様の立派なトイレにかわった。
そして、母さんが最初トイレの中につくろうとしていたお供え棚も、それを見ていたお父さんが待ったをかけて、天井に近いドアの外側上に作られた。
お供えするようになって、天狗はとても喜んでいた。
それを母さんにつたえると、母さんもとても喜んだ。
ある時学校から帰ってきた兄ちゃんが、お供え棚に置いてあったどら焼きを、あまりにお腹が空いていた為に食べてしまった。
その夜、案の定兄ちゃんは夢でうなされていた。
それで兄もようやく、夢の中だったが、天狗の存在を信じるようになった。
最後は父だ。
父は最初、僕の言うことを信じてくれなかった。
それはいつも、僕が父に対する対応が適当だったし、約束も守ってなかったりと、信じられる要素がなかったからだ。
僕は父がきらいというか苦手だった。
天狗同様大して家にいないのに、顔を見ればうるさいことばかり言うからだ。
だけど日が経つに連れ、家族に起こっている異変に父も気づいてきた。
その異変が現れてることに、父もまた目を背けられなくなったようだ。
流石に母の神棚や兄ちゃんの夢騒ぎまで行ったら、父さんも信じてくれるようになった。
今では家族全員で天狗を信じている。
夢での経験者の兄はいるが、姿を現すのは基本僕にだけだ。
「みんなにも見えるといいのに。」
僕は常にそう思っていた。
日曜日。
朝から天気が良くて夏の日差しが暑いほどに照っていた。
僕はあまりに外が暑いので、家から出ないでリビングで漫画を読んでいた。
そんな日、昼頃になって母さんがドタバタ始めた。
悲しいことは突然起こる。
ぼくんちの隣に、おじいさんが住んでいる。
とても優しいおじいさんで、小さい時からよく遊んでくれたり、お菓子をくれたりした。
親に怒られた時なんかも、僕はよく逃げ込んだりしたけれど、その度に優しく包んでくれた。
「わしの所に来たからね。泣き止んで落ち着いたら、お宅につれていきますよ」
そう連絡してくれて、父や母もとても安心できる存在だった。
僕の頭をやさしく撫でてくれる隣のお爺さんの事は、僕は本当のおじいちゃんのようで大好きだった。
それが突然、庭先で倒れているところを発見されて、運ばれた先の病院で死んでしまった。
お爺さんは庭の手入れが大好きで、よく庭に出ていた人だった。
お庭は草ひとつなく、いつも綺麗な庭だった。
花や木の事もとても詳しくて、よく教えてくれた。僕はお爺さんから植物のことはいろいろ教わった。
お爺さんがよく言っていた言葉がある。
「私たちは自然に守られている。その感謝を決して忘れてはいけないよ」
おじいさんは庭を一緒に歩くたびに、僕にそう言っていた。
僕はもう、会えないのかと思うととても寂しくて、いろいろ思い出していた。そんな時、僕はハッと思った。
天狗はもしかして、おじいさんちに出るはずで、間違えてぼくんちに出て来てしまったんじゃないだろうか。
「お隣だし、家も和風で天狗に似合う」
なんかそう考えたら、そうなような気がした。
僕は急にトイレに行きたくなって、トイレに駆け込んだ。
僕はズボンとパンツを下ろして、すぐトイレに座った。
「天狗!天狗!僕、気付いちゃった!隣のおじいちゃんちとぼくんちのトイレ間違えたでしょ。」
僕は自信たっぷりに壁に向かって話した。
いつもは呼ばなくても出てくるのに、なかなか出てこない。
「えっ、なんで?!今日はでてこないの?!
あっ!もしかして、本当に間違えたのがぼくにバレちゃって恥ずかしいとか?」
僕は、やっとぼくんちに出る意味がわかった気がしていたのに、天狗が出てこなくてがっかりだった。
「違うのかなぁ」なんて、僕はそのままトイレで考えてしまっていた。
すると、玄関の扉が開いて、母が帰ってきたことに気づいた。
「りょうちゃん身なりを整えて、早くトイレから出なさい」
母はぼくにそういった。
僕はズボンをあげて、トイレからでた。
そしてバタバタしながら母さんはいった。
「ねぇ!隣のお爺さんちに来て、一緒に片付け手伝って欲しいんだけど」
僕は、すぐに
「いいよ」と言うと、そのまま母さんについていった。
お爺さんの奥さんは、もう随分前に死んじゃっていない。
そして子供もいないから、今お爺さんの側には近所の偉い人がついている。
母さんは、お爺さんの家を、近所の人に頼まれて片付けている。
僕は、お爺さんの家はよく来ているから知っているけれど、それはいつも決まっているお部屋だけで、全部は知らない。
「りょうちゃん、納戸に箒と掃除機あるみたいだからとって来てくれる?」
僕は言われた通り取りに行った。
この、縁側が見える居間を抜けると、玄関の前を通る廊下があって、その先を左に曲がると納戸がある。
玄関までは明るいけど、その先は少し薄暗くなる。薄暗くなったその奥だから、より暗くて納戸に行くのは少し怖い。
ところが、ぼくが納戸の方まで行かないうちに、右手側に部屋がある。
その部屋の扉が少し開いていた。
僕は気になって、ものすごく気になったので、少し覗いてみた。
僕は驚いた。
その部屋は天狗でいっぱいだった。
絵とか、でっかいお面とかタオルとか人形とか、とにかく色々な天狗がそこにはあった。
覗いて終わりにしようと思ったけれど、僕はドアノブに手が伸びて部屋の中にしっかり入った。
ゆっくり周りを見渡しながら、部屋の真ん中までくると、その迫力に声も出なかった。
すると
「見つかっちまったか」
とどこからか声が聞こえた。
「こっちだこっち」
あちらこちらから声がして来ているようで、もうどっちに向いたらいいのかわからない。
でも、声の主はだれだかわかっていたから
もう少し耳をすませてみることにした。
「トイレの天狗でしょ!どこ?」
と僕は耳をすましながらいった。
「わしもだいぶお前に舐められたもんだ。だが正解だ。わしだ。」
ここは天狗いっぱいの部屋だが、人さまのお家でもあり、そんなちょっとした怖さの中で、馴染みある声を聞ける事に、少しほっとしている自分がいた。
「わしはな、もともと爺さんが、婆さんの病の治癒祈願のためにと集められてきたものだ。婆さんもわしのことが好きで、わしをみると元気になっていたもんだからなぁ。」
「天狗は神様なの?」
僕は天狗に聞いてみた。
「妖怪というものもおるし、神の使いというものもおる。実際は、人の思いそれぞれが、わしらを形作っておる。知っているものは少ないとおもうが、人の思いというものにはとても強い力がある。願いを叶えるということは、本来、全て自分の行いの上で叶うものだ。巡り巡った善行が、いつか自分に返ってくるまで、優しさを繰り返す。良いものは見えないものだ。心で見るからな。目に見えぬものしか信じないものたちには到底分かるまい。そんな命の法則があるのじゃ」
僕が理解するには、少し難しかった。
でも、生きてく上で良い事をしていくことが大切なことはわかった。
「お前のことを爺さんはとても大切にしていた。1人の孤独を、お前がほぐしてくれていたんだ。よくこの部屋に来て話していたよ。どのくらいお前を大切にしていたかは、わしがお前についていたんだ、わかるだろう」
すると、天狗はその部屋にある小さな天狗の人形にのりうった。
そうして僕をしたから覗き込んで立っていた。
その姿は、普段の姿とは全く違くて、こっちの方がいいし、しかも人形が可愛い。
「ぼくんちのトイレにでて来てくれたのも、お爺さんの思い?」
天狗はキリッとした顔になって
「お前らしくなく賢いな。そういうことだ。」
と言った。
あれ?おじいさんが死んでしまった今、このお家も、この天狗の部屋もどうなってしまうのか、僕は不意に頭をよぎった。
僕の不安になった顔を覗き込むように、天狗は言った。
「心配するな。ここのわしたちは、爺さんと婆さんの思い出だ。2人がいなくなってしまった今、あの2人のところに行くだけだ。」
「えっ、トイレにはもう出てこないの?僕を見守るんじゃなかったの?」
「うーん。残念だが、お別れだな」
僕は悲しくなった。
ガミガミうるさくて、何かにつけて面倒くさいし、あんなに嫌だと思ってたのに…。
胸の中がとても重くなって、締め付けられる感じがした。
「わしが言ったこと全部忘れるなよ。わしが言っていたのは、うるさいかもしれんが、お前さんが生きていくのに大切なことばかりだ。爺さんもきっとみているぞ!忘れるなよ、わかったな」
僕は小さくゆっくり頷いた。
いきなりの別れに、僕の頭の中は整理できていなかった。
ぼくをじっとみていた可愛い天狗の人形は、その場にパタっと倒れた。
(あー。いなくなったんだな。)と体で感じた僕は、母さんに言われた掃除機と箒を取りに行くのに部屋を出た。
掃除機と箒を持って、僕は母さんの元へ行った。僕は間を開けて、
「母さん、持ってきた」といった。
「はぁ、ありが…やだっ、どうしたの?!そんなに泣いて」
と、母は僕を見た途端驚いた。
掃除機と箒を置いたとき、僕の目に入ったのは、おじいさんとの大切な時を過ごした中庭だった。
もう僕は、その優しい思いに触れられないことに、涙が止まらなくなっていた。
しばらくその場で泣き崩れた。
その後、しばらくしてお爺さんのお葬式が行われた。 みんな泣いていた。
優しくてみんなに愛されていたお爺さん。
僕は手を合わせ、ずっとずっとお爺さんにありがとうを言っていた。ちょっと嫌だった時もあったけど、天狗を僕のためによこしてくれたことも。
それから月日は流れ、いつの間にか隣の家もすっかりなくなってしまった。
残っているものもある。
僕の中の思い出はしっかり残っている。
天狗はもう、あの時から出て来ない。
「天狗!お爺さん見てて。僕は2人の思いを背負って、これから大人になるための険しい山に登って、少しでもいい大人になるからね」
「お爺さん。天狗。ありがとう。あの時、うるさい天狗って言ってごめんね」