#第31.5話 ラスト・トースト
#第31.5話 ラスト・トースト
――扉を押すと、鈍い鈴の音と、かすれたジャズのトランペットが重なった。
暖色のライトが、木目のカウンターや古びたソファを柔らかく包む。
洋酒の甘い香りと、磨かれた木の匂いがほんのり混ざっていた。
派手な色はひとつもない。
だからこそ、ほっとする。
「……お、今日は空いてんな。」
カウンターの奥で、彼女がグラスを拭いていた。
派手すぎないしっとり美人。
露出控えめのドレスは落ち着いた色合いで、肌よりも声のほうがよく響く。
「あら、黒崎さん。お久しぶりですね。いつものでいいですか?」
「ああ。強めで頼む。」
氷がグラスに落ち、琥珀色の液体が波打つ。
ふわりと香りが立ち、臣は一口含んだ。
「最近どうだ。変な客に絡まれてねぇか。」
「いえ、皆さん紳士ですよ。」
「……そりゃ建前だろ。」
「ふふ。じゃあ……たまに、ですね。」
「だろうな。」
彼女は、客や街の小さな出来事をぽつりぽつりと話す。
臣は聞き役に徹し、ときおり軽口を挟む。
相手の話を遮らない――それが、この店での彼の癖だ。
「そういえば、先月はお見かけしませんでしたよね。」
「……俺がいねぇと寂しかったか?」
「どうでしょう。別の方と楽しく飲んでました。」
「そりゃ結構だ。……で、そいつは俺より金使ったか?」
「ふふ、秘密です。」
笑い合って、乾杯。
グラス越しに指先がかすかに触れた。
そのとき、臣がふと彼女の耳元を覗き込む。
「……恵美。ピアス、変えたか?」
「あら、気づきました?ちょっと小さいから分からないかなって。」
「似合ってる。派手じゃないほうが、お前はいい。」
「……ありがとうございます。」
それきり距離は詰まらない。
――痩せたか?
声が、少し掠れてるな。
手元も、わずかに震えてる。
「……寝不足か?」と聞きかけて、やめる。
代わりに、氷をひとつ口に放り込んだ。
「……まあ、夜の商売なんてそんなもんだ。」
「そうですね。でも、やっぱり黒崎さんとお話しできるのは、気分転換になります。」
「そりゃよかった。」
別れ際、軽く肩を叩く。
「じゃあ、また来るわ。」
「……はい。また。」
その笑顔は、あまりに“いつも通り”で――妙に引っかかった。
ほんの少しだけ、笑うより先に息を整えた気がした。
一瞬、グラスを持つ指先が止まっていたのを、見逃さなかった。
臣はそれ以上考えず、扉を押して夜の空気へと足を運ぶ。
これが最後になるとは、思いもしなかった。
振り返ることもなく、煙草に火を点ける。
白い煙が夜気に溶けていく。
それを見送るように、息を吐いた。
後悔しないように――そう生きてきたはずだった。
……後悔、ばっかだ。




