第2.5話 またつまらぬものを、殴ってしまった
# 第2.5話 またつまらぬものを、殴ってしまった
──十日前の夜。
ルクシオンの事務所は、まるで深海のように静まり返っていた。
照明はひとつだけ。
外から差す夕暮れの光は、遮光カーテンにさえぎられ、
室内に広がるのは、やけに冷えた薄闇だけ。
ソファに浅く腰を掛け、片肘をつく女がひとり。
――蘭子。
「……ったく、また……つまんない奴を、殴ったわね……」
缶ビールを唇に当てたまま、誰に言うでもなくぼやいた。
炭酸が喉をくすぐり、胃の奥でぬるく弾ける音がする。
その沈黙を割るように、スピーカーからやわらかな声が届いた。
『カッコいいね、蘭子ちゃん。』
「……せっちゃん、聞いてたのねぇ。」
口角を上げながら、缶をトンと机に置く。
「ま、いいわ。退屈だったのよ、ちょうど。」
脚を組み直し、ハイヒールの先で床のゴミを蹴る。
乾いたカツンという音が、妙に響いた。
「聞いてくれる? また“掃除”よ、掃除。
チンピラが妙なルートで薬ばら撒いてるって話でね。
こんな夜に、あたしが路地裏で手ぇ汚す意味、ある?」
『……でも、蘭子ちゃんの得意分野でしょ? そういうの。』
ビールの泡が喉を滑っていく感覚にも、もう何の喜びもなかった。
それでも、喉を濡らすものがないと、やってられない夜がある。
「否定はしないわよ。
でもさぁ……潰しても潰しても、湧いてくるのよ。
どいつもこいつも、頭の悪いガキばっかり。
センスもねぇくせに、気取っちゃって。」
もう一度缶を手に取って、ぐい、と飲み干す。
喉を鳴らしたあと、思い出したように続ける。
「今夜のもひどかった。見るからに雑魚。
目が泳いで、声は軽い、足元ぐっちゃぐちゃ。
聞いたって話す気ゼロよ。舐めきってる。」
拳を見つめ、指先でコツコツと手首を鳴らす。
「“調子に乗ってんじゃねぇぞ、ガキィィィ!!”って。
顎、ちょっとだけ、砕いてあげた。ふふっ……泣き喚いてたけど、それがまた……可愛かったりして?」
『蘭子ちゃん、こわ……優雅で怖い……。』
「ふふ、褒め言葉として受け取っておくわ。」
声は軽くても、その目はどこか虚ろだった。
空き缶を弄ぶ指先から、乾いた金属音が響く。
「……昔はさ、もっと違う未来を夢見てたのよ。
あたし、峰不二子に憧れてたの。
華やかで賢くて、欲しいものだけを盗んで、男は手玉に取って、自由気ままに――ね。」
天井を仰ぐ。
焦点の合わない視線の先で、蛍光灯がチカチカと瞬いている。
「でも気づけば、夜の底でゴミ拾いよ。
……つまらないものを殴るたびに、どこまでも、薄汚れてくような気がするの。」
しんと静まり返る部屋。
冷えた空気。
誰も来ない、誰も見ていない巣の中。
そのとき、小さく、優しく、スピーカーが囁いた。
『……蘭子ちゃん。今日ね、私もここにいるよ。』
「……せっちゃん?」
『一人にしたくないの。今日の蘭子ちゃん、ちょっとだけ、寂しそうだから。』
蘭子の肩が、ふっと落ちる。
「……バレてるのね。」
背もたれに身を預けると、やわらかく笑って、
そのまま目を閉じた。
「……じゃあ、覚悟して。今夜は寝かせてあげない。
あたしの愚痴、朝まで全部聞くのよ?」
『うん。ずっと聞いてる。』
「……ほんと、可愛いわね、あんた。
兄貴分に似なくて、何よりだわ。」
吐息のような声が、闇に溶けていく。
夜は静かに、深く、沈んでいった。
そしてまた明日。
この街には――
“泥まみれの夜”がやってくる。
変わらない、世界。
変わらない、女。
蘭子ちゃんのワンパンKO回でした。
峰不二子みたいな色仕掛けじゃなくても、彼女が大好きです。
次回、物語は大きく動き出します。
クラウン編、突入。




