第16.5話 贖罪
#第16.5話 贖罪
薄暗い医務室。
外から差す光が、ブラインド越しに床を淡く照らしていた。
ルカはベッドの上で、ゆっくりとまばたきをする。
少しだけ汗ばんだ額に、手を当てて息を吐いた。
(……また、あの夢だ……)
視界の端、机に向かう背中があった。
ナオが、なにやら資料を読んでいる。
その指が時おり、メモを取るペンと共に動いていた。
「……起きたのか。」
ナオがこちらを見ずに声をかける。
「……あぁ、悪い。寝ちまってた。」
「気にすんな。今は寝て、早く回復しろ。」
また、ペン先が紙を走る。
ルカは、少しだけ目を伏せた。
そして――ふと呟く。
「……夢、見てた。」
その声に、ナオの手が止まる。
だが、振り返りはしない。ただ、静かに待っている。
「昔のことだ。15の時だから、もう10年も前か……」
ぽつり、ぽつりと言葉が落ちていく。
「近所にさ……すげぇ優しくて、明るいお姉さんがいたんだよ。」
ルカの声は、どこか遠くを見ていた。
「いつも道で会うと声かけてくれてさ。
……綺麗な人だった。笑うと、目がくしゃってなるタイプで。
俺……たぶん、ちょっと、惚れてた。」
不意に、息がこぼれる。
苦笑だったのか、分からない。
「ある日、その人が言ったんだ。“結婚するんだ”って。
俺、何も言えなかったけど、嬉しそうにしてる顔見て、
ああ……良かったなって思った。
ちょっと、チクッとしたのも、覚えてる。」
ナオはまだ何も言わない。
ただ、その気配が、ルカの語りを受け止めていた。
「……でも、そっから、
……ぱったり見なくなったんだ。」
ルカは天井を仰いだまま、ぽつりと続ける。
「最初は気にしてなかった。結婚準備で忙しいんだろうなって……
でもさ、気になってて――」
ふと、ルカの喉が詰まるように震えた。
言葉を絞り出すように、続ける。
「……ある日、別の用事で路地裏を通ったんだ。
普段は絶対通らないような、汚れてて、空気も重い、そんな道。」
ナオの手元から、書類の紙が微かに揺れる音がした。
けれど、やはり言葉は挟まない。
ルカはゆっくりと、過去をさらっていく。
「……すっげぇ小さく…呻き声が聞こえた。
最初は動物かと思ったけど、違った。……人だった。」
ルカの声が、かすかに震える。
「見なければ済むって、思った。
でも……足が勝手に動いてた。」
視線を落とし、拳を握る。
「ゴミにまみれて…居たんだよ、そこに。
痩せて、服もボロボロで、髪もぐちゃぐちゃで――
でも、顔だけは……分かった。」
息が詰まりそうになる沈黙の中、絞るように言う。
「……あのお姉さんだった。」
ルカの声はかすれていた。
喉の奥に何かがつかえて、それでも語ることをやめない。
「もうほとんど意識もなくて、頬はこけて、目は焦点合ってなくて…。
でも……呼ばれたんだよ。俺の名前。」
まぶたを閉じる。
思い出したくもない光景が、焼き付いたまま離れない。
「“ルカちゃん”って。……あの声でさ。」
ナオはわずかに顔を伏せ、ルカの言葉を待ち続ける。
「……よくある話だよ。
その婚約者がただのクズで、薬に手ぇ出して……」
小さく、嘲るような笑いが漏れる。
「“大人の世界”で潰されたってだけの、どこにでもある話。」
拳をぎゅっと握る。
「……でも、俺にとっては、たった一人だったんだよ。
あのとき、呼ばれた声に……俺は、なにも返せなかった。」
言い終えた瞬間、ルカの喉が震えた。
「逃げた。あの手から。あの声から。 走って、振り返らなかった。
――……怖かったんだよ、俺。」
握った拳に、指が食い込む。
「声を返してたら何かが変わったなんて、思ってない。
でも……返事くらい、してやれたんじゃねぇかって、ずっと思ってる。」
一度も、ナオは口を挟まなかった。
ただその背中は、ずっとルカの言葉を支えるようにそこにあった。
――ナオが、そっと資料を伏せた。
ルカが顔を向けると、何も言わずに、深く、小さく頷く。
それだけで――全てを、汲んでいた。
(……そうか。――分かってたんだ、こいつ。)
思い返す。
「薬物だけは別腹で嫌い」
「気が重い」
いつもより拒絶の色が強かった自分に、ナオはきっと、気づいていた。
だからこそ、何も聞かずに、ただ隣にいてくれた――
そのことが、たまらなく、ありがたかった。
沈黙のあと。
「……今やれること、やればいいだろ。」
ナオがそう言って、ゆっくりと立ち上がる。
その目は、すでに前を見据えていた。
「……ぶっ潰しに行くぞ。あのクソ野郎。」
その一言に、ルカはふっと笑みをこぼす。
拳を握る手に、少しずつ力が戻っていくのを感じた。
「――…ああ、もう逃げねぇよ。
お前がいれば、次は逃げねぇ。」
ルカはもう一度、拳を握る。
震えていた手に、ようやく温度が戻っていた。
あの日、返せなかった声がある。
でも今なら――応えられる気がした。
静かに、陽が射し込む。
もうすぐ夜が明ける。




