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窓外を眺める麗華は、緊張のあまり両手が震えだすのをなんとか押さえ込んでいた。口の中がカラカラに乾き、テーブルに用意されているハーブティーを飲みたかったが、静かにティーカップを持ち上げるなどとうてい無理だろうと諦める。
たいていの知事公館と同様に、麗華の住む北海道知事公館も擬洋風建築のため、一階にあるこの部屋は大きなフランス窓が庭に面している。外には木々の濃い緑色が鮮やかに広がるのだが、実のところそれらは何一つ麗華の目に入ってはいない。
それでも傍目にはソファーでくつろいでいるように装えるのは、幼少期からの訓練の賜物だ。華族の次期当主、それも次期北海道知事たるもの、常に凛とした態度を保たなくてはならない。落ち着きなく室内を右往左往する姿を使用人たちに晒すなどもってのほか。気持ち的には走り回りたいほどであっても。
ドアがノックされて麗華が「どうぞ」と答えると、侍女が姿を見せた。
「水瀬さまがご到着です」
侍女に案内されて、友人の綾子が室内に入ってきた。麗華はすぐに立ち上がろうとしたが、綾子の「そのままになさって」との言葉に甘えた。妊娠5ヶ月に入ってからは悪阻も収まり安定期になった代わりに、腹部のふくらみが目立ち始め、だんだんと立ち座りに手間がかかるようになってきていた。
「ごきげんよう、麗華さん」
「いらっしゃいませ、綾子さん。よく来てくださいました」
「あら、そのマタニティドレス……」
「ええ、お二人から贈っていただいた品です。着心地がよくて、とても気に入っていますの」
「それは良かったわ」
そのサックスブルーのワンピースは実際に麗華のお気に入りであり、親友二人からのプレゼントとあって、今日着て行くのはこれにしようと決めていた。
麗華に促されて、向かいの一人がけソファに綾子が座る。
優雅に微笑み合う二人の側で、侍女の一人がお茶の用意を始めた。麗華も綾子もそれとなく侍女の様子をうかがいながら、差し障りのない世間話を続ける。麗華の私室であり、招いたのも親しい友人であるからと言い含め、来客応対はかなり簡略化させたものの、紅茶の蒸らし時間ばかりは短縮できない。
「準備はまもなく整うそうですから、もう少しお待ちになってね。そうそう、今回は高峰さんを貸していただけて、とても助かりました」
「麗華さんのためですもの。奏絵も進んで協力したいと申しておりましたわ。あら、噂をすれば、ね」
パンツスーツの人影が一つ、ガラス窓の向こうからこちらへと近づいてくる。すらりと背の高いその女性は、やがてテラスにたどり着くと、明け放れたままのフランス窓の脇に立つ。生真面目な表情で会釈をした。
「正臣さまと和臣さまが最終確認をしていらっしゃいます。あと十分ほどとのことです」
「そう、わかったわ」
麗華は背後に控える侍女へと振り向く。
「少し三人だけでお話ししたいわ」
「かしこまりました」
侍女たちはそろって部屋を後にした。そっとドアに近寄ってしっかり閉まったのを確認した綾子が、フランス窓側の奏絵に小さくうなずく。即座に奏絵は靴を脱いで室内に入り込み、盗聴防止の結界魔法を自分たちの周辺に巡らした。
「よし、いいわよ」
途端に麗華は表情をへにゃんと崩し、心持ち猫背になる。綾子と奏絵はさっと距離を詰め、麗華を挟んで両隣に座った。
「ど、どうしよう、綾ちゃん、奏ちゃん。やっぱり怖い。こんなこと言い出すんじゃなかったわ。わたしなんかが考えた方法で、うまくいきっこないのよ」
「こら、またそんなこと言って」
「だいじょうぶよ。正臣兄さまと和くんが何度も検証してるんでしょ?」
「そうよ、実際にわたしも二回、向こう側と行き来してみたもの。なにも問題なかった。初回はたったの二泊三日よ。その間、麗ちゃんと赤ちゃんはわたしが守る!」
「奏ちゃ~ん」
「よしよし」
「ほら、これ飲んで」
「綾ちゃ~ん」
涙目の麗華を二人はなだめる。奏絵が抱きかかえて頭をなで、綾子はティーカップを口元に寄せる。この構図は、三人が東京都内の修学院初等教育校入学時に同じクラスになって以降、あまり変わっていない。
それが三人にとって心地よかった。
呼びに行かせた侍従と共に、麗華と綾子がやってきた。数歩後ろに奏絵が続く。
正臣はそちらに歩み寄ると、麗華の顔をじっと見下ろした。
「正臣さん、よろしくお願いいたします。わたしはいつでも……」
「顔色が悪い」
「緊張しているだけです」
「そうか。念のために診てみよう。座れ……いや、椅子がないな。うむ……」
どうしたものかと周囲に視線を巡らした正臣は、綾子に睨らまれているのに気付いた。
「妊婦が来るとわかっていたのに、用意が悪いですわね」
「来ていたのか」
「当たり前ではないですか」
「和臣ならばあちらだぞ」
「和くんなんてどうでもいいから! 麗ちゃ……麗華さんの親友として立ち会うために参りましたの」
「えぇ、ひどいじゃないか。婚約者なのにどうでもいいなんてぇ」
片付けを終えたのか、魔方陣の向こう側にいたはずの和臣が、いつのまにやら綾子に背後から抱きついている。
崩れかけた言葉遣いをなんとか持ち直した綾子の苦労を、まったくもって台無しにする弟の行状はさておく。元よりこの場にいるのは本條家と関家の内情を知る者ばかりだ。
正臣は麗華の手を引いて、その開けた場所の片隅へと連れて行った。そこには和庭園だったときの名残りの岩が、いくつも放置されて苔むしている。
「あの、わたしなら大丈夫ですから。今朝も診ていただいたではないですか」
「念のためだと言っただろう」
正臣は高さが手頃な岩を見繕い、まずは自分が腰掛けた。
「座れ」
「えっ?」
首をかしげる麗華に、正臣は自分の膝をポンポンと軽く叩いて、膝にのるように示す。麗華は素直に従った。
「ええぇ、兄上、羨ましい。綾は絶対にしてくれないんだよね」
「なに言ってるの、和くん、やめなさい」
外野の言い分には内心で、日頃からさせておいて良かったと思いつつ、正臣は診察を始めた。両手で麗華の顔を挟みじっと目を覗き込む。指先から魔法を放出して麗華に纏わせていき、文字通り頭の天辺から足の爪先まで自分の魔法で包み込む。
大丈夫、何も異常はない。正臣の心の中では、ほっとする気持ちとがっかりする気持ちがないまぜになった。どちらも本心だ。妻が健康体であると安堵するのに反し、なんともなければこれから向こう側に転移する彼女を見送らなければならないと気落ちする。
「正臣さん、どうでしたか?」
「いや、君はなんともない。今度は子供を診よう」
不安げな表情を浮かべる麗華をあやすように、頭を撫でる。正臣にとっては自身を宥めるためでもあったのだが、こうすると麗華がいつもにこりと自分に微笑むのでいつの間にか習慣になっていた。
ふと公館へと続く道筋から数人が近づく物音が聞こえた。何重にも守られたこの奥庭に来られる人間は限られているものの、皆が即座に警戒する。正臣も掌に魔法力を集め、足元に攻撃用の魔方陣をいくつか展開した。
姿を見せたのは麗華の義母、柊子だった。現本條家当主、すなわち現北海道知事として常に耳目を集めるのを当然とする、泰然と構えた中年女性だ。決して美人ではないのだが、自信に満ちた常にキリッとした表情が、彼女を魅力的に見せる。
複数の攻撃魔法と防御魔法が一斉に解除されるときの、特有の気配が瞬間的に漂う。
「皆、そのままで」
立ち上がろうとした正臣と麗華を、柊子が手で制した。
「わたくしも立ち会いたかったのだけれど、時間的にどうしても無理だったわ」
「急なことでしたから。気になさらないで、お母さま」
「麗華、心配ないわ。ほんのちょっと旅行に行くようなもの。向こう側でのんびりなさい」
「はい」
麗華の返事が心許ないのを、居合わせた全員が感じ取った。柊子は気の弱い義娘に力強く微笑みかける。
「大丈夫よ。なにがあっても正臣さんがなんとかしてくれるわ。そうでしょ?」
「はい、もちろんです」
問いかけられて、正臣はなんでもないことのように頷いた。問題など起こらないに越したことはないが、もちろん数十パターンの考えつく限りの事態を想定して今日に望んだ。
「さ、行ってらっしゃい」
「はい、行ってきます。……お母さまこそ、今から稚内まで行かれるのでしょう? 行ってらっしゃいませ」
「ええ。転移門で売っているチーズタルト、麗華は好きだったわね。お土産に買ってくるわ」
そう言い残して、柊子は去って行った。
正臣は、義母の後ろ姿を見送る麗華が両手を握りしめたままでいるのに気付いた。教え込んだ通りに展開された、麗華自身に対する防御魔法が解除されていない。正臣は彼女の手に自分の片手をそっと重ねた。
「あ、わたしったら」
両手の中の魔法が霧散する。
「適切に非常時対応できたな」
正臣が小さくつぶやくと、麗華は恥ずかしそうに笑顔を見せた。
「立つぞ」
正臣は、麗華を抱え上げつつ立ち上がった。背後で「お姫さま抱っこだぁ」と意味もなく囃し立てる弟は無視して、麗華の体を支えながら地面に立たせる。
「そろそろ転移しよう。……時間があれば、もっと良い方法を検討できたかもしれないが、すまないな」
「いいえ。そもそもわたしが自分で言い出したことですから」
「心配するな。後はわたしに任せておけばいい」
「はい」
正臣が振り向いて「頼む」と声をかけると、奏絵が進み出た。
「失礼いたします」
奏絵が麗華の手を取る。二人はそのまま、奥庭の地面に展開された魔方陣に歩いて入った。中央で立ち止まり、そろってこちらに向き直った。
一息おいてから、正臣が静かに宣言する。
「発動」
正臣は他の魔法士と共に転移魔法を発動させた。魔方陣を取り囲む手から魔法力が流れ込み、淡い光が沸き立つ。
麗華と奏絵の姿が光に包まれて、やがて消えた。
とりあえず、初投稿。
異世界恋愛ファンタジーに和洋折衷やら魔法などなど、好きなものを詰め込みました。