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夏休みの自由研究を忘れていたこと

 学校の帰り道、僕は大層悩んでいた。今日は夏休みが終わって二学期の初日、通常登校日として学校へ行った日、久しぶりに学校の友達に会った日(勿論その中には気になるあの女の子も含まれている)、授業はなかったから半日で帰ってよい日、そしてここが肝心なところなんだけど、夏休みの宿題を提出する日だったんだ。

 僕は自信満々でいろいろな課題を提出した。確かに、その中には難しくて分からなくて、仕方がないから昨日の夜お兄ちゃんに泣きついて遅くまでかかって仕上げた課題もあった。遅くまでかかって仕上げたと言っても、要するにみんなお兄ちゃんに教えてもらったんだ。でも解答にお兄ちゃんの字で書いてもらったりしたらばれてしまうから、自分で書かなきゃならない。つまり僕だって相応に努力したんだ。結果僕は自信満々で課題を提出した。ところが最後に思わぬ事態が起こってしまった。なんと、自由研究の課題を持って来なかったんだ。持って来なかったと言っても、それを家に忘れてきたとかいうんじゃない。課題の存在自体をすっかり忘れてしまっていたのだ。こんな間の抜けたことをしたのはクラスで僕一人だけ、皆から大いに笑われてしまった。あの女の子も大きな口を開けてけらけらと笑っていて、でもあんた随分と大物ね、と背中を叩かれた。背中を叩かれたのはうれしいけど、それにしても恥をかいてしまったのに変わりはない。

 先生は、本来なら明日持ってこいというところだが、そりゃあんまり酷と言うものだ、次の週の初めを期限にしてやるから土日で頑張れ、と言われた。寛大な御沙汰だ、大岡裁きだ、と僕は感謝し胸を撫でおろした。けれど先生は続けて、それだけ猶予をやるんだから当然力作を期待しているからな、と仰る。ただでは終わらせないというところだろう、これぞ学校教育だ。当たり前のように、クラスの皆からやんやの喝采を受けてしまった。

 というわけで、僕は大層悩んでいた。はてさて、どうしたものだろう。僕一人ではとても無理だ、これは分かっている。誰かの助力が必要だ、これもまた明白なこと。では誰の?実はこれもやっぱり明らかなことで、と言うよりも一つしかない、と言った方が良いだろう。

 お兄ちゃんだ、お兄ちゃんしかいない。

 昨日の夜あんなに迷惑をかけてしまったんだけど、申し訳ないけどもう一回、結局深夜、零時を回ってしまって今日の朝、眠そうな顔をしながら『今日から新学期か、ご苦労さん』と声をかけてくれたお兄ちゃんには誠に申し訳ないんだけれど、やはりもう一回お願いするしかないだろう。こんなことをお願いできるのはお兄ちゃんしかいないから。そもそも自由研究作成の手伝いをお願いできるのは自分の家族だけだし、じゃあその家族はと言うと、お母ちゃんだったら『ほんなもん、忘れてましたごめんなさい、で許してもらえばいいじゃん』だろうし、お姉ちゃんだったらきっと助言はもらえるだろうけどそれだけだろうし、お父ちゃんだったら多分手伝ってくれるだろうけど、ぱぱっと適当にお茶を濁して『こんなもんでいいだろう』と済ませてしまうクチだし、となると一人しかいない。

 お兄ちゃんだ。

 お兄ちゃんは常日頃はおちゃらけている。けれど、困ったときなどお姉ちゃんや僕には実に親身になってくれる。お姉ちゃんはさすがに高校生になったからそういう機会はあまりないけれど、僕はまだまだ子供だからしょっちゅうお世話になっている。お願い事をすると、あのトマス・ミュラーみたいな顔でにかっとしながらうんうんと聞いてくれる。そうして本当に一生懸命世話を焼いてくれる。人格者ではないかもしれないけれど、確かに人間が出来ているよ、感心々々。ただ、この一生懸命というのがちょこっと問題で、少々やり過ぎなところがある。以前にもこんなことがあった。


      *    *    *    *    *    *    *    *


 あれは去年の夏休みだった。地域の子ども会で登山をすることになったんだ。登山と言ってもそんな大仰なものではない。行き先は猿投山、まあトレッキングに近いものかもしれない。けれどそれでも小学生にとってはなかなかの冒険だ。僕は少し心配だった。並みの体力はあるとは思うけど、途中でへばってしまったらどうしよう、何しろ初めての登山なんだから。それで僕は家族にそのことを話した。『猿投山?高尾山みたいなもんだろう、軽い軽い、大丈夫だよ。それに、お姉ちゃんも随分前にその登山に行ったんじゃなかったか?なあ、ちょろいもんだったろ?』とお父ちゃん。『ええ、行きました。けどあんた、本当に山登りなんて行くの?あたしが小学生の時の子ども会の登山、あたし当日体調が悪いって嘘ついて、山登りなんてしなかったわよ。だから皆が山に行ってる間下でのんびりしてて、帰りの猿投温泉だけ入って来たの、今回も帰りは猿投温泉でしょ?』確かにそう、登山の後は猿投温泉、でもさすがにお姉ちゃん、ちゃっかりしてるよ。『なんだん、あんた、あのとき登山せんかったのかん、ほいで温泉だけ浸かってくるって、調子こいとるわ』とお母ちゃん、続けて『ほだけどが、あんたはちゃんと登りんよ、男の子なんだで。確かお兄ちゃんもその登山に行ったわ、山頂にあったんだってお土産にあの子がまぁるい綺麗な石をくれたで、お兄ちゃんはきっと頂上まで登ったんだわ。その石まだ持っとるに。』

 結局、お母ちゃんがその場にいなかったお兄ちゃんに頼んで、登山の練習をしてもらうことになった。お兄ちゃんは勿論快諾し、次の土曜日その練習が実施されることになった。

 当日の朝、快晴、今日も暑くなりそうな日、僕はお兄ちゃんに連れられて池下駅へと向かった。途中行き先を尋ねると、平和公園とのこと。健康づくりのための一万歩コースがあるらしい。でもそんな散歩コースみたいなもので登山の練習になるんだろうか、と少しばかり怪訝な表情になったんだろう僕に対してお兄ちゃんは、『そう馬鹿にしたもんでもないわ。あそこは昔から手つかずの丘陵地帯でな、随分長いことほったらかしになっとった。けどがいつ頃のことか、当時段々手狭になってきとった墓地をどうしようかと往生しとった名古屋中のお寺さんのために、でかい分譲墓地を作ることになったんだと。ほいであそこの山を削ってその斜面にでかい規模の墓地をでかしたわけだて。更にその後、名古屋オリンピックのための会場だか施設だかをどうこうとか、ちょこっと手を入れたんだかなあ、けどが結局オリンピックも出来せんかって、最終的にでかい公園として一応整備して――帳尻を合わせて――今に至っとるということだわ。ほんな風だでなあ、ちゃんとその、帳尻だけ合わせとる程度だで、昔からの状態がかなり残っとるんだ。上り下りも沢山ある、森の中の山道もある。十分登山の練習になるで、安心しやぁ。』

 それから僕らは地下鉄に乗って東を目指した。覚王山、本山と来て次の東山公園で降りるのかと思ったらそうじゃない、そのまま星ヶ丘までも通過して一社まで来ると漸く降りることとなった。何で一社なのかと聞くと、お兄ちゃんは『折角登山の練習するんだで、雰囲気のあるとこから入った方がええだろ』とのこと。よく分からんけど取り敢えずお兄ちゃんについて行くしかない。それからお兄ちゃんは、これを被っとけよ、と言って全周にひさしの付いた麦藁帽子を僕の頭に載っけてくれた。

 長い階段を上って外に出ると広小路通り、そこを西の方へと緩やかな坂道を歩いて行く。雲一つない青空だ。沢山の高いビルに囲まれ、背の高い街路樹の並ぶ広い歩道を日の光にじりじりと焼かれながら進んで行く。やがて打越の交差点、その横断歩道を西に渡ってすぐ北上、マンションや事務所やお店が両側に並んでいる。暫く行くと今度は左に鋭角的に折れた道に入った。また緩やかな上り道なんだけど、これまでよりも随分と細い道で周りはどう見ても住宅地だ。本当に登山の練習が出来るようなところに行けるんだろうか。けれどそんな心配も杞憂だった。『今度はここを右だったかしゃん?』と言いながら兄ちゃんが再び北方向へと曲がる。その後ろについて行った僕の目の前に突然、立派な高級そうな家々に囲まれた一本の急勾配の長い坂道が現れたんだ。

 これを上って行くようなところなら、成程山登りの練習になるだろう。僕は張り切って上り始めた。そんな僕を見て、お兄ちゃんもにやにやしながら上り始める。二人してえっちらおっちらと上って行った。けれどやっぱりなかなかの勾配で、速度は次第に遅くなった。これはまあ仕方のないことだろう。早くも汗が流れる。ただこれは暑さも関係しているに違いない。ともあれ今日も暑くなりそうだ。少し息を切らし始めながら左右に建ち並ぶ大きな立派な住宅の前を歩いて行く。ここに住んでいる人達は毎日こんな坂を上り下りしているんだろうか。いやいや、どこの家の前の駐車場にも止めてある高級車を見てみなさい、そんな心配もまた杞憂と言うものだ―――そんなことを考えていたら坂道のてっぺんに着いた。ぼくもお兄ちゃんも既に汗びっしょりだった。

 そこから今度は階段だ。さっき出てきた一社駅の出口の階段くらいは優にある。コンクリ製の階段を今度は二人ともふうふう言いながら上る。で、漸くたどり着いた本当のてっぺんの先は―――森だった。いきなり山中の深い森の中に入り込んだようだった。こんな変な行き方をお兄ちゃんが選んだのはこのためだったのか。なかなか粋な演出だ。僕は深呼吸をしてみたりきょろきょろしたりしながらこの薄暗い森の中を歩いた。ちょっと下りがあって、それから細い山道が少し曲がりくねって延びている。右手は少し窪地になっているようだ。周囲は沢山の広葉樹、左右の地表にはシダ類が生い茂っていて地表とは言え地面は見えない。勿論今歩いている山道は地面だ。土の道を歩くなんて久しぶりのような気がする。思わずこの山道を踏みしめながら歩いてみる。そうやって歩いた道は、けれどほんの一二分の道程だった。森は直ぐに開け、半分の青い空とアスファルトの道が現れた。

 半分の、と言ったのは、森から出て一万歩コースに入ったんだけれど、周囲にはそれでも沢山の高い樹々があったから。ともあれここからが本番だ。『ほいじゃ行こか。全周七千メートル半くらいだったかしゃん。まあまあええ距離だて』とお兄ちゃん。汗まみれの顔でにかっとした。

 

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