プロローグI 朝永美波との出会い
その日のことはよく覚えてる。厳しい寒さ体に応える2月の下旬だった。
大学受験のために私は東海道新幹線に乗っていた。朝早く起きたせいで、あくびをずっと噛み締めていた。
「ふぁ〜あ、うーん」
相変わらず頭が冴えない。まずいなぁ。このままだと受験に全然集中できなくなっちゃう。私は頬を叩いて参考書を開いた。
「相変わらず、三角関数がちんぷんかんぷんなんだよなぁ」
3年間のテストで数学がいい点だったことはない。意味がわからなさすぎて、毎回萎えてる。これは遺伝なんだ。絶対そうだ。
座席のテーブルを出して、赤本を置いた。そのまま数学の問題に取り掛かる。
問題を解きながら、チラッと隣を見る。多分、私と同じだ。大学受験のために上京してきたのだろう。紺のブレザーを着ている女子が黙々と新聞を読んでいる。ただ、サングラスをつけているため顔はよくわからなかった。変な人だ。
「しっかし、全くわかんない……」
計算してみるが、全く答えがあってる気がしない。解を求めろ?こりゃあ、駄目かもしんない。
「X=0,3/π」
「えっ?」
隣から声がしたので横を向くと,サングラス越しに相手と目が合った。な,なんだこの人は。
「な,なんですか急に」
「悪い。その問題が間違ってんのが気になってな」
低めのアルトボイスで話しかけてきた。私はこの得体の知れない人間を警戒した。
「そ,そうですか…,ありがとうございます」
「どういたしまして。…,英明大学受けるのか?」
一瞬,なんで?って思ったけど,私が持っている英明大学の赤本を見れば一目瞭然だ。
「えぇ,まぁそうですけど」
「大丈夫なのか?間違えてたけど」
この人めっちゃ失礼だ!いきなり初対面の相手にこんなこと言うなんて。
「大丈夫です!数学でとれない分は現代文でとれるから」
「そうか,まぁ頑張れ」
そう言うと,相手は持っていた新聞紙に目を落とした。私は少しムッとした。なんか、このまま引き下がりたくない。
「そう言うあなたは,どこを受験するんですか?」
私が受ける英明大学は国内最難関だ。受かったわけではないけど,学歴マウントをとっていこう。
「同じだ」
「えっ?」
「国立英明大学だよ」
相手はサングラスを外してじっと見つめてくる。その顔を見て思わずドキッとしてしまった。
サングラスつけてる時から美人だと思っていたけど,これは…。思わず言葉を失ってしまう。
二重の大きな瞳に,形のいい鼻梁,柔らかそうな桜色の唇。顔のパーツの一つ一つが端正で,茶髪の綺麗な髪がそれをいっそう際立たせている。今まで見た人の中で一番美人だと思う。めちゃくちゃ悔しいけど。
「そういえば,自己紹介がまだだったな」
美人は胸ポケットに手を突っ込むと,学生証を見せてきた。
「朝永美波,2001年6月29日生まれ。私立京水学園高等学校生徒…,頭良いんですね」
「良くはないけど,悪くもないな」
「嘘だ〜!京水って日本でも五本の指に入る名門校じゃん!」
京都府にあるその高校は全国的に有名な進学校だ。そこの生徒で頭が悪いは完全に煽りだ。
「そういうお前はどこの高校なんだ?」
美波が訊いてきた。お前呼びに少しムカッとしたが,落ち着いて学生証を見せた。
「大河内雅火…,なんか明治時代の作家みたいな名前だな」
「うっ…,そこ突っ込まないで…」
私の名前は可愛いとはだいぶかけ離れている。親に文句を言うのは失礼だけど,ネーミングセンスが無さすぎだと思う。だって、読み方ミスったらガビになるからね!お父さん,お母さん。
「愛知県立名古屋東高等学校。普通に雅火も頭良いだろ」
美波は外国人なのかもしれない。初対面の相手を下の名前で呼ぶなんて。この人は絶対外国人だ!
「それ,朝永さんが言ったら煽りにしか聞こえないよ」
「まぁな。多少は煽ったつもりだったから」
「そりゃ,どーも」
これは罠だ。私を落とすための巧妙なトラップだ。ライバルを1人でも減らすための。もうすでに大学受験は始まってるんだ。
少し賑やかになり過ぎてしまったようで,私の右隣の男性を起こしてしまった。
「すまんけど,もうちょっと声量下げてもらっていい?」
隣の男性がイライラした様子で注意してきた。2人とも,すぐにすみませんと謝る。
「最近のガキは公共のマナーがなってないな」
最後に舌打ちをして,男性はイヤホンをつけて再び眠りについた。見た感じ,20代前半の男性が最近のガキって言うのに疑問を持ったものの,悪いのはこちらなので黙っておいた。
「朝永さんのせいだよ,間違いなく」
私は恨み120%の眼光を美波に向けたが,美波は我関せずと言わんばかりに新聞を読んでいる。めっちゃ,腹たつ。この人。
「ごめんね,嫌な気分にさせてしまって」
前の席から声が聞こえたと思うと,サイドテールの女性がこちらを振り返っていた。もしかして,隣の男性の知り合いなのかな?
「いえいえ,騒がしくしていたのは私たちですし」
正確には美波オンリーだ。
「いやぁ,でもさっきの言い方はJKには良くない」
今度はスキンヘッドの男性とマッシュの男性が顔を覗かせた。喋ったのはマッシュの方。この人たちも多分知り合いだ。
「えぇと、お三方はこちらの男性とどんなご関係なんですか?」
「大学の先輩。私たち4人、SFサークルなの」
「SFサークル?」
「未確認生物とかを調べるサークル。と言っても、ほとんど旅行してるだけだけどね」
SFサークルと聞いた瞬間に、ペンライトで宇宙人と交信してる想像をした私はなんて愚かなんだろう。恥ずかしくなった。
「それで、君たち英明大学受験するんだってね?」
マッシュの男性が訊いてくる。私たちの会話は筒抜けだったんだ。
「はい。そのために今新幹線に乗ってます」
「すごいな。英明って頭よくてもなかなか入れないよ」
「いやいやいやいやいや、まだ受かったどころか受験会場にすら辿り着いていませんから!あと、それは盛大なフラグ立っちゃってます」
私の渾身のツッコミ!…はどうやらウケたらしい。お三方は笑い声を漏らしていた。
その後、全然会話する気がない美波に変わって、私が大学生たちとトークをしていた。
サイドテールの女性が田嶋杏、スキンヘッドの男性が山下憬介、マッシュの男性が本田基季という名前らしい。ちなみに隣の男性は水沢裕真というらしく、サークルの代表なのだそう。
主に話の内容は大学の話や3人の高校生のときの話だった。例えば、大学の講義の内容やサークルの種類、学食など、どれもキャンパスライフが待ち遠しくなるものばかりだった。ただ、途中でうんこって言いながらトイレに行った本田さんにはひいたけど。
「大学ってズル休みしてる人多いんですか?」
私のこんな調子乗った質問にも、ちゃんと答えてくれた。
「多いよ。というか、4年間で1度もやらない人なんていないと思うね。田嶋さんも1週間ぐらい休んでる時あったし」
「そうなんですか?」
意外だ。田嶋さんしっかりしてそうに見えるのに。
「ちょっと、本田君。私その時38℃超えの高熱で休んでたって言ったよね?」
「またまた、嘘ついちゃって。別に誰も怒んないだから」
「そういう本田も、1週間ぐらい無断でハワイでサボってただろ」
「あ、覚えてた?」
案外、大学生ってこういう人多いのかも。私も1回やってみようと。
「ところで雅火ちゃん、合格の自信はあるの?」
問題を解いていると、トイレから戻ってきた田嶋さんがハンカチを手に問いかけてきた。もちろん、答えはーー
「あるようなないような…、本当に数学次第です…」
会話で忘れようとしたけど、これから受験だ。人生のターニングポイントに来てるんだ。
「自信は持っといたほうがいいよ。持っておいて損することはないから」
「本田の言う通りだ、大河内さん。自信がなかったり自己評価が低い奴は失敗が多くなる」
「うっわ、わかるなぁ、それ。私去年の今頃、不安はたくさんあるし自己評価低くなりまくってて、プレゼン失敗したんだよなぁ」
「そういうことだ。だから、自信を持って受験をした方がいい」
人生の先輩である3人が言うのなら、そうなのかも。私は自信を持とうと気合を入れた。でも、まだちょっぴり不安だ。
「自信なんか持っても、どうせ落ちるだろ」
この雰囲気をぶち壊す発言をしたのが誰かは分かってる。おそらく…、というかほぼ確実で隣の水沢さんだ。この人が話を聞いていたことに私は驚いた。
「自分の実力もよく知らずに、イキってるだけだろ。本当は東京に行きたいのが目に見えて分かるぜ」
「ちょっと、水沢さん!」
田嶋さんが声を荒げたが、水沢さんは構わず続ける。
「お前らだって同じだろ?第一志望の大学受かんなくて、この大学に仕方なく来たんだろ?綺麗事ばっか言ってないで、汚い現実をちゃんとガキには教えておくべきだ」
本田さんが何か言おうとして、山下さんがそれを制した。その様子を見た水沢さんは、ふっと馬鹿にしたように笑うとバッグを持って席を立ち上がった。
「お前らみたいなゴミ人間の話聞いてるだけで、気持ち悪くなった。俺が吐いてトイレが汚れたらお前らの責任だからな」
余計な一言を残して、彼はトイレへと向かった。
気まずい空気が流れる中、誰も喋らなかったが、我慢できなくなったのか本田さんがくそっと吐き捨てた。
「何なんだよ、あの態度!俺たちが何をしたっていうんだ!」
「落ち着け、本田。いつものことだ」
山下さんがなだめるが、本田さんは止まらない。次々と暴言を発していく。
「だいたい、あの人のほうがゴミ人間だろ。気の弱い後輩を徹底的にいじめたり、女遊びしまくって女性を怒らせたり、飲酒運転したり。人のこと言えないだろ!」
「分かったから、冷静になれ本田。そんなに喋ったら疲れるだろ」
山下さんがペットボトルの水を差し出して、ようやく本田さんは静かになった。やっぱり疲れてたんだ。
「大河内さん、すまんな。せっかくの受験日に。リーダーはあぁいう人なんだ」
何で山下さんが謝るのだろう。謝るのだとしたら、水沢さんが謝るべきなのに。
「いえ、まぁ調子乗ってたのも事実だと思うんで…、でもイキってましたかね?」
「大丈夫だ。本田の方が100倍もイキってる」
「ほんとほんと。って、違うだろぉがぁ!」
私と山下さんのファインプレーでなんとか、雰囲気が少しよくなった。私はほっと一息ついた。危ない危ない。
「山下さん。こんなこと言うのもなんですけど、水沢さんのダメエピソードってなんかあります?」
もちろんだけど、私も内心水沢さんに対してピッキーンときてた。水沢さんが一生懸命汚物を出している今しか、こんなこときけない。最低だけどナイスだ、悪魔の私。
「そんなのたっくさんあるよ。うーん、どうしようかな。ケチケチエピソードでも聞く?」
「ケチケチエピソード?」
私が反応すると、水沢さんは目を輝かしてそのエピソードを話した。
「水沢さんはあぁ見えてめちゃくちゃケチなんだよ。金を払わないとかそう言うレベルじゃないくて。例えば、後輩の家に遊びに行ったときに後輩が作った料理をパックに入れて持ち帰ったり。あとは、公園とかにある水道の水をペットボトルに入れて持ち帰ったり。とにかくドケチなんだよ」
ドケチというよりはホームレスの一歩手前みたいだ。ホームレスの方々には申し訳ないないけど、そう思ってしまった。
「そこまでいくと、なんか尊敬の念すら感じますね」
「うん。俺、あの人出世すると思う」
とてもじゃないけど、水沢さんが上司の会社に入りたいとは思えなかった。
出すもの出してイライラが収まったのか、水沢さんは嫌な笑みを浮かべながら席へと戻ってきた。多分、かなりビッグな代物が出来上がったんだ。
私は水沢さんの癪に触らないように気をつけながら、田嶋さんと女子トークを始めた。これが一番無難かつ、一番楽しいはず。本当はもう1人女子がいるのだけれども、その人はさっきから新聞しか読んでないので誘いません!
「本田、お前ドーナツさっき買ってたよな?1つ分けてくれ」
「いいですけど、メープルしかないですよ」
「メープルでもなんでもいいから、さっさと寄越せ」
本田さんは眉を少しピクっとしながらも、水沢さんにドーナツを手渡した。やっぱり私この人苦手かもしれない。どう考えても態度が大きいと思う。
水沢さんはそう思われてることなどつゆ知らず、ドーナツを一口食べた。そして、バッグの中から取り出したペットボトルの水を飲んだ。その瞬間ーー
「ぐあぁ、うっ…うぅ」
突然うめき声をあげたかと思うと、水沢さんは喉を手で押さえながら倒れ込んだ。少しバタバタ動いていたが、やがて完全に動きが止まった。
「水沢さん…?」
田嶋さんが心配そうに水沢さんの顔を覗き込んだが、すぐさま後ろに倒れ込んだ。
水沢裕真は息を引き取っていた。