第2話 聖アガペー学園
卯月が不思議な指輪を手に入れてから三年の月日が経った。
中学一年生となった卯月は、春の陽気でぽかぽかと暖かいこの日、聖アガペー学園の校門の前に立っていた。
「はぁ……。今日から学生寮で暮らすのかぁ。気が重いなぁ~。こんなはずじゃなかったのに……」
卯月の母は、日本全国に展開している人気ファッション専門店の従業員で、卯月が生まれてすぐに支店の店長に出世した。
店長はずっと同じ店にいられるわけではなく、会社の経営方針で毎年のように転勤があって、卯月の家族は北海道、新潟県、岐阜県、三重県、京都府、高知県……などといったように引っ越しを繰り返していたのである。そのせいで、卯月は小学校でほとんど友だちをつくることができなかったのだ。
しかし、去年の夏に母が東京の本店の店長になり、数年ぶりに生まれ故郷に戻った卯月は安心していた。本店を任されるまで出世したら、もう転勤なんてないだろうと考えたからである。
(でも、その考えが甘かったんだわ)
今年の年明け早々、会社の社長が卯月の母に、
「この春、フランスのパリに新店舗を出すことになった。海外で店を出すのは初めてだ。この大きな仕事を君に任せたい。新店舗の店長として三年ほどパリに行ってはくれないか」
そう言ってきたのだ。
こうして、卯月の母は海外へ転勤することになった。
母は仕事は完璧だが、料理をやらせると、人が気絶するようなオムライスやハンバーグを作る。洗濯機を使うと、家を水浸しにしてしまう。
そんな人だったので、お世話をする人間が必要だった。だから、小説家の父もついていくことになった。父は大学生時代にレストランでバイトをしていたので、料理はけっこううまいのだ。
「卯月は今年から中学生で勉強が大変になるだろう。お前は日本に残りなさい。東京の全寮制の学校に入学できるようにしてあげるから」
そう言って、父は東京にある全寮制の聖アガペー学園への入学手続きをしたのである。
全寮制の学校は、学生たちが全員、寮に入って共同生活をしなければいけない。小学生の間、まともに人間の友だちをつくることができなかった卯月は、学生寮での生活が不安で仕方がなかった。
一緒の部屋で寝起きすることになるルームメイトとうまくやっていけるだろうか。ケンカになったりはしないだろうか……など、今からあれこれと考えて憂鬱なのだ。
「人間じゃない友だちなら、すぐにつくれるのになぁ」
卯月はそうぶつぶつ言いながら、学園の校門をくぐった。これから三年間すごすことになる女子寮へ向かおうとしているのだ。
しかし、学園内はとても広く、数年前に建てられた新しい校舎や体育館、図書館、今は使われなくなった旧校舎など、たくさんの建物が建っていて、方向音痴の卯月はすぐに道に迷ってしまった。
「ここはどこかしら? この建物は……教会か。カトリック系の学校だから、こんなにも立派な教会が建っているのね」
卯月はしばらくの間、美しい教会に見とれていたが、迷子になっている真っ最中なのにこんなことをしている場合ではないとすぐに思い直した。
そして、周囲にだれもいないことを確認すると、教会のそばに立っていた桜の老木を見上げてニコリとほほ笑んだのである。
「キレイな花を咲かせてくれている桜の木のおじいさん。こんにちは」
――おや? 嬢ちゃんはワシと話ができるのかい?
驚いた桜の老木が枝をさわさわと揺らした。
「うん。この指輪のおかげでね。動物ともお話ができるのよ」
卯月は左手をかざし、人差し指の指輪を桜の木に自慢げに見せた。
――ほう。それはすごいのぉ。嬢ちゃんのような不思議な子どもは今まで見かけなかったが、もしかして、新入生なのかい?
「そうなの。でも、迷子になってしまって、困っていたのよ。女子寮へはここからどうやって行けばいいか教えてくれる?」
――いいじゃろう。背の高いワシならば、あの緑色の屋根が見えるのだが、嬢ちゃんの小さな身長では見えまい。教会からまっすぐに南へ進むと、先生たちの教員寮がある。その教員寮の東側の建物が男子生徒の男子寮、そして、さらに東へ行くと緑色の屋根の建物があるはずじゃ。そこが女子寮じゃよ。
「ありがとう、おじさん。私、桜卯月っていうんだ。これから三年間よろしくね」
――ああ、よろしく。たまにここへ来て年寄りの愚痴を聞いておくれ。学園内にはたくさんの桜の木があるが、ワシだけ教会の近くにポツリと立っているものだから、話し相手がいなくて寂しかったんじゃ。
「うん、分かった。私たち、友だちになりましょう」
笑顔でそう答えた時、背後から「だれと友だちになるんだ?」という若い男性の声がした。卯月は、心臓が口から飛び出してしまいそうになるほどビックリした。
(や、やっちゃった……!)
動物や植物と話せるようになった最初の頃は、卯月は人前で堂々とイヌやネコ、道ばたの花に話しかけていた。しかし、その光景は他人にはとても奇妙に映り、「頭のおかしな子だ」とクラスメイトから避けられるようになってしまったのである。
反省した卯月は、次に転校した先の小学校では自分の能力を他人に気づかれないように努力していたのだが……。
まさか中学生活の初日から木と話しているところをだれかに見られてしまうなんて!
「あの、その、これは……」
卯月は、何と言って誤魔化そうと悩みながら、後ろを振り向いた。
卯月の後ろにいたのは、背広を着た若い男の人だった。おそらく、この学園の教師だろう。卯月に声をかけたその先生は、クスクスと笑い、卯月を見ている。
(わ、笑われている……。木とおしゃべりなんかして、変な子だってバカにしているんだ)
そう思った卯月は、恥ずかしさよりも悔しさの感情のほうが勝って、
「お、おかしいですか? 木とお話していたら……」
と、顔を真っ赤にしながらおどおどと言った。卯月が怒っていると察した教師は慌ててこう答えた。
「おかしくなんてないさ。君を馬鹿にするつもりで笑ったわけじゃないんだ。でも、気に障ったのなら謝るよ」
「馬鹿にするつもりじゃなかったのなら、なんで笑ったんですか?」
「僕はただ、赤毛のアンみたいで可愛いなと思っただけなんだよ」
「可愛い」と急に言われてビックリした卯月は、うつむいていた顔を上げて先生の顔を見た。
短めの黒髪がさわやかで、気弱そうだが優しい顔つきをしている人だった。
(写真で見た、お父さんの若い頃に似ているかも……)
と、卯月は思った。
「あ、赤毛のアンも木とおしゃべりができるんですか?」
有名な海外小説だから名前ぐらいは知っているが、まだ読んだことがない卯月がそう言うと、教師は「うん」とうなずいた。
「もっとも、彼女の場合、木や花、美しいものに名前をつけたりして妄想の中の友だちをつくっているのだけれどね。そんなアンもダイアナという少女と出会って、永遠の友情を誓う『腹心の友』を見つけるんだ。だから、君もこれから始まる学園生活の中できっと素晴らしい人間の『腹心の友』と出会えるはずだよ」
彼はそう言うと、卯月の頭を撫でてくれた。
(妄想なんかじゃないんだけれどなぁ……)
卯月は心の中でそう文句を言いながらも、学園に優しそうな先生がいてくれて良かったと、この教師に好感を抱くのであった。