寝取られ令息と面食い令嬢の婚約とその顛末
アドリアン様――クレムソン侯爵子息以外のエスコートでパーティー会場に行くだなんて何年ぶりかしら。私は指折り数えてみた。婚約したのが七歳のころだから、もう十年も経つ。十年もの間、あの人に付き合わされていたのだと思うとため息が出た。
「大丈夫?シャロン」
「問題ないわ、シャルル」
今日のエスコートは兄のシャルルだ。クレムソン様みたいに気遣わなくていいので気が楽でいい。あの人は自分の機嫌を自分でとれない人種だ。私に不機嫌をぶつけて思い通りに動かすのが好きなのだ。
「挨拶をしたら帰りましょう」
「まあ、とっとと帰った方がいいね。あの男と顔を合わせるのはシャロンも嫌だろう」
こくりと頷く。お父さまも私に無理をしないようにとおっしゃってくださったし、しばらくはのんびり過ごそうかしら。
主にシャルルの友人の方々と挨拶を交わしていると、ふと見慣れない殿方がいることに気がついた。年の頃は私たちより少し上だろうか。二十代前半に見えた。
「あの方はどなたかしら?」
「ええと、どの人?」
「あの、背の高い赤い髪の方――」
「――デルリオ・カルフイ!」
言いかけた瞬間に降ってきた声に私は口を噤んだ。声を発したのは、豪華なドレスを身にまとった派手な女性だ。傍らに線の細い青年が控えている。
この国の王女、ユーレカ姫だった。あと一月後に結婚するのだと聞いている。お相手は侯爵家――そう、カルフイ侯爵家の方だったはずだ。
ユーレカ姫の言葉に振り向いたのは私がまさに視線を向けていた赤髪の青年だった。横顔におおっと思う。かなり整ったお顔をしてらっしゃるお方だ。
あの方がデルリオ・カルフイ様、ユーレカ姫の婚約者か。でも今のユーレカ姫の声のトーンはあまりよろしいものではなかった。そう、まるで怒鳴るような。
「あなたのような男との婚約は破棄するわ!」
そして続けて発された言葉にこの場のだれしもが驚いて振り向いた。
ユーレカ姫は一か月後にご結婚されるはずだ。それを、今、この衆人環視の場で破棄するとは。いったいどのようなおつもりなのだろう。
「……ユーレカ姫?何をおっしゃっているのです」
カルフイ様は淡々と言葉を返した。お顔だけでなく、素敵なお声をお持ちだなとぼんやりと思った。
「どうもこうも、わたくしには真に愛する人ができたのよ。あなたとは結婚なんかしていられないわ。ねえ、フィンドレイ?」
「はい、ユーレカ様」
フィンドレイと呼ばれた男性は頷いたばかりか、腕に抱きついてしな垂れかかるユーレカ姫をそのままにさせていた。婚約者のいる女性相手にふさわしい態度とは思えない。
カルフイ様はその様子を無表情に眺めていたが、「ユーレカ!」と別の声が上がったことでそちらに視線を向けた。
「一体何をしているんだ!」
「お兄様!」
登場したのはマリオン殿下で、婚約者のクインシー様も一緒にいらっしゃる。マリオン殿下の難しい表情と反対に、ユーレカ姫はぱあっと顔を輝かせた。
「こんなところで婚約破棄など、お前は自分の立場が分かっていないのか!」
「いやですわ、お兄様。私だってお兄様と一緒よ?」
「何?」
「『真実の愛』を見つけたのだもの。偽物の婚約者なんて切り捨てるに決まっているじゃない?」
マリオン殿下は目を丸くして、それから額に手を当ててため息をついた。『真実の愛』、か。私はついシャルルと顔を見合わせていた。
というのも、この言葉は最近の流行りであり、発端はマリオン殿下とクインシー様の婚約なのである。
クインシー様はもともとは男爵家の生まれで、妾腹のため平民として暮らしていた時期が長いお方だ。その方がどうしてマリオン殿下の婚約者になったかというと、非常に強力な聖属性魔術の使い手だったからである。
このような聖属性魔術の使い手を、女性の場合は聖女という。聖女は神殿に入るのが習わしだが、王家側として神殿の勢力を強めたくないという意図があったようだ。いろいろあって彼女はクインシー公爵家の養女となりマリオン殿下と婚約された。
その神殿に入らなかった理由はマリオン殿下とクインシー様が『真実の愛』で結ばれているからだと、王家は世間一般人に喧伝した。二人のなれそめをモデルにした分かりやすい劇も上演されているはずだ。
それで収まればよかったのだけれど、最も高貴なお方が恋愛結婚をしたということがあり、今の若い貴族の子女の中では『真実の愛』を追い求めることに対する憧れが強まっている。何を隠そう、私もそれが原因で婚約が破談になったのだ。
元婚約者のクレムソン侯爵子息殿は、こともあろうかクインシー様に懸想していたらしい。だからお前とは結婚できない、と急に言われたときは頭の病気かしらと疑ったが、なんだかんだで慰謝料をむしり取って無事破棄できたからよかった。よく考えたらクレムソン様みたいな方のご機嫌伺いをしながら一生を過ごすのはぞっとしない。
閑話休題。マリオン殿下はこの風潮を真に受けて結婚間近のユーレカ姫が婚約破棄などと言い出すのに苦虫を噛み潰したようなお顔をされていた。
しかし、カルフイ様は違ったようだ。
「畏まりました。王命と思い、承ります」
「ふん、引き際がいいのは褒めてあげるわ」
つまり撤回されても絶対に頷かないというカルフイ様の言葉に、ユーレカ姫は妙に上から目線で満足そうに頷いた。そしてカルフイ様は踵を返してさっさと退出される――と思ったのだけど。
何故かこっちに近づいてきている。目が合った。ばっちり合ったその瞳は黄金色に輝いていた。
シャルルが警戒するように私を抱き寄せるが、カルフイ様は全く気にせずスッと私の前に跪いた。間近で見ると顔がとても整っていらっしゃるというのがよくわかる。睫毛が長い。毛穴がない。羨ましい。上から見下ろしているせいで見える鎖骨がちらちらと見えて色っぽい。
カルフイ様は私を見上げると、それはもう美しい笑顔を浮かべた。
「シャロン・メリディアン嬢。私と結婚してくださいませんか?」
……。
「はい、喜んで」
「シャロン!?」
ほぼ即答した私にシャルルが慌てたように叫び、周りもどよめいた。それもそうだ、こんな婚約破棄からスピードプロポーズなんてあり得るものか。そんなものに頷く令嬢なんて普通存在しないだろう。
でも私はイエスと言った。だってカルフイ様のお顔があまりに綺麗だったんですもの。
その後会場は蜂の巣をつついたような有様で、私はカルフイ様に連れられて別室に避難してきていた。ちなみにユーレカ姫とそのお相手も退場させられていたが私たちとは別のお部屋だ。シャルルは動転しながら「父上に知らせてくる!動くなよ!」と言い捨ててどこかに行ってしまい、部屋には私とカルフイ様、そしてどこか諦めたような顔のマリオン殿下とおろおろしているクインシー様が残されていた。
「まったく……ユーレカのやつは何を考えているのだ……」
「何も考えていないのだろう」
「その通りだが!ああもう、頭が痛い!」
カルフイ様とマリオン殿下は親しい仲なのだろうか、とても気安い口調で喋っている。ぼんやり眺めているとマリオン殿下が眉を下げて話しかけてきた。
「すまぬ、シャロン嬢。このようなことに巻き込んでしまい……」
「何を言う。是と言ったのはこいつ自身だろう」
「急にあの場で結婚を申し込む奴があるか!」
「そうでなければなあなあにされる可能性が高かった。私はあのバカ姫と付き合う気はもうさらさらないからな」
あれだけの仕打ちを受ければそう思うのも仕方のないことだろう。しかしなぜ私を選んだのだろう?首を傾げると、カルフイ様はどこか冷たく微笑んで私を見下ろした。
「シャロン・メリディアン。いいか、俺は頭の悪い女は嫌いだ」
「さようでございますか」
「せっかく俺が拾ってやったのだ。せいぜい頭を働かせて俺に尽くすがいい」
「デルリオ!」
カルフイ様の言葉をとがめるようにマリオン殿下が声を荒げるが、私としては別に構わなかった。
カルフイ様の言う通り、私は拾われた身である。クレムソン様との婚約が破棄になった今、新たな婚約者を見繕うというのは難しい。少なくともクレムソン様は次期侯爵家当主という点で非常に有望だったけれど、そのレベルを求めるのは実質不可能だ。
なのでもっと条件を下げるか、『真実の愛』とやらに縋って様々な社交場に顔を出して出会いを求めるかの二択だったのだけれど、カルフイ様が求婚してきたことで状況が変わった。彼は王女殿下の婚約者だったのだ。婚約破棄の非がユーレカ姫にしかないのなら優良物件に決まっている。
あとお顔立ちがとっても好みだった。愛されることがなくても眺めていて楽しい顔のほうが絶対にいい。
「かしこまりました。精いっぱい務めさせていただきます」
「いい心がけだ。あのアホ女に目に物見せてやる」
あとはまあ、共感だった。私は『真実の愛』とやらにこだわって結婚できない相手のために婚約破棄をした元婚約者を軽蔑しているし、カルフイ様もユーレカ姫に対して同様に考えているのは伝わる。ユーレカ姫に目に物見せてやるのに異論はない。
「というわけでマリオン、慰謝料については遠慮なくぶんどっていくからな。恨むならあの尻軽を恨め」
「ご令嬢方の前だ、もう少し上品な言葉遣いをしてくれデルリオ」
マリオン殿下が肩を落とす。知らなかったけれど、殿下は案外苦労性なのかもしれない。
私とカルフイ様の婚約はあっという間に社交界中に広まった。お父さまは卒倒しそうな勢いだったけれど、最終的には婚約を認めてくれた。お母さまは「もしかしてシャロンちゃんに一目ぼれしたのかもしれないわ!」と喜んでいた。そんなことは絶対にないのだけれど、お母さまが楽しそうだったので曖昧に微笑んでおいた。
ちなみにユーレカ姫と彼女の恋人――レヴンワース男爵家のご子息の結婚も承認されたらしい。一か月後に結婚式を挙げるために近隣諸国からも人を呼んでいるのだから今更取りやめますなんてできなかったようだ。カルフイ様の代わりをレヴンワース様が務められるようだ。
「あの女がどうなるかは目に見えている」
カルフイ様は婚約の打診に来た日から三日と開けず我がメリディアン伯爵邸に通ってきてくださっている。けれど今日はカルフイ侯爵家のお屋敷にお招きされていた。
ご自宅にいらっしゃるせいか素の口調に戻っている。まあ、ユーレカ姫のことを話すときはいつも不機嫌そうなのだけれど。
「お前は我が家に嫁ぐために勉学に励んでいればいい」
そう、意外なことに「ユーレカ姫を見返す」と言ったにもかかわらず私に求められているのは単純にカルフイ侯爵家に嫁入りするための勉強だけだった。
というのも、カルフイ侯爵家は我が国の中でも立場が少し特殊で、外交を担っている一家なのだ。なのでそこに嫁ぐということは近隣諸国の言語や文化に堪能であることが求められる。これまでもクレムソン侯爵家に嫁ぐための教育は受けさせられてきたけれど、カルフイ侯爵家のほうが専門的な内容だ。
幸い、私は近隣諸国の言葉の初歩はマスターしていた。歴史書を読むのが好きなので文化についてもある程度の知識はある。クレムソン様にはこういったことを勉強しているのを嫌がられたので、カルフイ様に求められるのは意外だった。
「かしこまりました」
「……お前は、私に何か要求はないのか?」
「はい?」
いつも通り頷くと、なんだか変な問いかけをされた。思わず聞き返してしまう。
「金のかかる趣味でも度を越さなければ許容してやる。それと装飾品が少なくないか?そのネックレスは前も身に着けていただろう」
よく見ていらっしゃることだ。素直に感心してしまう。
カルフイ様はすでに外交官として活躍されているため、国内の社交界に顔を出すことは少ない。だから私もお顔を存じ上げなかったのだけれど――つまるところ、外交官としての目をすでに身に着けていらっしゃる。
なので私が同じアクセサリーやドレスを着けているのが気になったのだろう。私は曖昧に微笑んだ。
「あまり持っておりませんので。それに、大半は元婚約者からの贈り物ですから」
クレムソン様は結構頻繁にアクセサリーやドレスを送ってくる方だったので、そのドレスがクローゼットを圧迫していた。ドレスを新しく仕立てる余裕はないのでもらったものに袖を通しているけれど、贈り物のアクセサリーはカルフイ様の前では身に着けていなかった。元婚約者の贈り物を身に着けていたら気を悪くされるかもしれないので。
「なるほど、だから微妙に似合わないドレスを着ていたのか」
「……似合っておりませんか?」
「センスがいまいちだ。お前の趣味なら口は出すまいと思っていたが、アドリアンの馬鹿のセンスなら問題ない」
カルフイ様はクレムソン様ともお知り合いらしい。ではなく。
「お前は俺の婚約者なのだから、それなりの恰好をしてもらわねばな。後日仕立て屋を呼ぶからまた来るように。母上にも助力を乞うのでそのつもりでいろ」
「かしこまりました」
「心配するな、母上はお前のことを嫌ってはいない。あとはお前の努力次第だ」
難しいことを簡単におっしゃるが、泣き言をいうつもりはないので黙ってうなずいた。カルフイ侯爵家に嫁ぐなら義理の母となる方との良好な関係を築く努力が必要だ。
そういえば、と思い出す。クレムソン侯爵夫人は私のことをあまり好きではないようだった。女は出しゃばるな大人しく従えといったようなことを散々言い聞かされた記憶がある。クレムソン様の性格がああなったのも納得だ。
「ユーレカ姫は隣国の挨拶くらいしかできなかったからな。比較対象が底辺でよかったな」
「まあ、そうだったのですね。外交官の妻となると決まっておられましたのに」
「好きなことしかしないタイプだ、アレは。楽器なんかは世辞抜きに上手かったが、勉学はからきしだったな」
私がクレムソン様のことを思い出していたように、カルフイ様もユーレカ姫のことを思い出していたらしい。比較対象があるというのはいいのだか悪いのだか。
そして約束の仕立ての日、私はカルフイ侯爵夫人のみならず、カルフイ様のお姉さまであるクラーラ様にも囲まれていた。
「いいわあ、わたくし妹が欲しかったのよね。うんと可愛い妹が!」
カルフイ様はクラーラ様とのふたり姉弟だったはずだ。本来義妹となるはずだったユーレカ姫のことは触れずに私は微笑んでおいた。
「クラーラ、あまりはしゃぐなよ。腹の子に障る」
カルフイ様が赤ん坊を抱き上げながら言うのはちょっと意外だった。クラーラ様はつい最近お子さまがお腹にいることがわかったらしい。あまり体調がよろしくないという話だったが、今日はお元気そうで安心した。
カルフイ様が抱っこしているのは甥っ子のメルクリオ様だ。カルフイ様もクラーラ様も、カルフイ侯爵様も髪は真っ赤で瞳が黄金なのでそういった家系なのだと思っていたけれど、メルクリオ様は金髪に赤い瞳だ。誰かを思い出すような色合いだった。
「大丈夫よ、デルリオは心配性ね。シャロンちゃん、デルリオは一見ツンだけど身内には甘いから愛想尽かさないであげてね?」
「ええと」
「シャロン、クラーラの言うことは気にしないでいい」
「デルリオったら照れちゃって。気持ちは分かるけど、しょうのない子ね」
照れているというより憮然とした表情のカルフイ様に私はまた適当に相槌を打つしかなかった。
私としては、カルフイ様に嫌われていないのならそれでいい。カルフイ様は口はあまりよろしくないけれど、こちらの意思を尊重してくださるようで私としてはありがたかった。束縛が激しかったクレムソン様よりはずっとマシだ。
出来上がったドレスのうち一着はユーレカ姫の結婚式典の際に着るものだった。結婚直前に婚約を反故にしておいて式典にカルフイ様を呼び出すなんて厚かましいと思うけれど、王族側としてはカルフイ侯爵家との仲が険悪になっていないことを示したいのでしょう。
それにカルフイ様自身すでに外交官として働いていらっしゃるから、国外から来るお客様の対応をしなくてはならないのだと思う。もともとは外交官であるカルフイ様の御式だったことは外国の来賓の方は知っていらっしゃるだろうし、カルフイ様はどうされるおつもりなのかしら?
そんな疑問を抱いているうちに侍女が着付けを終えてくれて、私は鏡を覗き込んだ。以前よりもなんだか顔色がよく見える気がする。
「お綺麗ですよ、お嬢様。元婚約者様の趣味はどーかと思っていましたけど、新しい方はわかってらっしゃいますねえ」
「そう?ではカルフイ様にお礼を申し上げなくてはね」
もうカルフイ様が迎えに来ていらっしゃると伝えられていたので、私は急いで階下に降りた。玄関先でお父さまとお話しされていたカルフイ様が私に気がついて顔を上げる。
「シャロン嬢」
「お待たせいたしました、カルフイ様」
「君の着飾った姿を見たくてひどく長く感じたけれど、その姿を見たら何も言えなくなってしまうな。良く似合っている」
にこりと微笑むカルフイ様がかぶる猫は完璧だ。一応外面を気にしていらっしゃるのか、私の両親の前ではカルフイ様はこんな調子だ。私は何と返せばよいかわからず、とりあえず「カルフイ様も今日もとても素敵ですわ」と本心を伝えておいた。
カルフイ様はすでにカルフイ侯爵様から爵位を譲られていて、子爵位をお持ちだ。なので位を表す紋章を胸に掲げ、いつもよりも装飾が多くとも洗練された出で立ちはとてもさまになっている。
本当は今日は主役の一人としてもっと豪華な衣装を身にまとう予定だったのだろうけれど、これはこれでたいへんに麗しい。この方と結婚するなら結婚式も見応えがありそうだと思う。
カルフイ様にエスコートされて馬車に乗り込むと、カルフイ様はちらりとこちらを見た。
「今日はどうすればいいのか分かっているな?」
「はい。カルフイ様と仲がよいように見せかければいいのですね。私たちがまさに『真実の愛』で結ばれているといったていで」
「そうだ。……なのにお前は相変わらず私を家名で呼ぶのだな」
言われた言葉に瞬いて、私は「ああ」と口を押さえた。これはクレムソン様の言いつけの一つ、家族でもない男を馴れ馴れしく名前で呼ぶなというもののせいだった。知らぬ間に癖になってしまっていたのが恥ずかしい。
「申し訳ありません、デルリオ様」
「ボロを出すなよ、シャロン」
「気をつけますわ」
気を引き締め直す。私はデルリオ様のことが好き。自分に言い聞かせる。デルリオ様に嫁げるのが幸せでむしろユーレカ姫に感謝しているという感じで。……実際、そう思っているところはあるのだけれど。
馬車が王宮に着くと私はデルリオ様のエスコートで控えの間に向かった。デルリオ様のお知り合いの来賓の方々に先に挨拶をするようだ。
私はデルリオ様の側に控えて大人しくしている。挨拶をするのは向こうが水を向けてきてからだ。
「久しぶりだね、カルフイ子爵。今日はユーレカ姫の結婚式だと聞いていたが」
最初に声をかけてきたのは三十代くらいの男性だった。服装から西の国の方、紋章から大使レベルだと判断する。
「ええ、ユーレカ姫とレヴンワース男爵の結婚式ですよ。想い合っている二人が結婚するめでたき日です」
デルリオ様が流暢な外国語で応える。この日に向けて特訓していたけれど、ヒアリング自体は問題なかった。
ちなみにレヴンワース男爵子息はユーレカ姫との釣り合いのために爵位を受け継いだそうだ。
「おや、ではそちらのお嬢さんは?」
「私の婚約者のシャロン・メリディアン伯爵令嬢です」
「ごきげんよう。メリディアン伯爵が娘、シャロンと申します」
自己紹介くらいなら外国語でも問題ない。礼をすると大使様はにこりと微笑んだ。
「素敵な婚約者だね、子爵」
「ええ。シャロンに巡り会えたのはまさに運命です。これも天の配剤でしょう」
「デルリオ様ったら」
「本当のことだよ、シャロン」
美しいお顔を甘くとろけさせてデルリオ様は私の手を取って口付けた。これをされると演技ではなく素で照れてしまうわ。
そんなふうに周りにアピールをした成果が出たのか、デルリオ様の評価は「ユーレカ姫にフラれた哀れな男」ではなく「幸運にも運命の相手と婚約できた男」になったらしい。運命とか真実の愛だとか、耳触りのいい言葉が好きなお方が多すぎるのもいかがなものかと思うけれど。
一方でユーレカ姫――今はレヴンワース男爵夫人の評判はよろしくなかった。
「ねえ、姫様の恰好ご覧になった?」
「あれが男爵夫人にお似合いの恰好でしょう?」
「結婚式はあんなに盛大でしたのに」
「それはもともとカルフイ子爵様とのご結婚のために組まれたものだったんですもの。当然ですわ」
結婚式から一か月もすると、そんな話をお茶会で聞くようになった。ちらちらとこちらに視線を投げかけてくるのだから、当事者の一人だと考えられている私の意見を聞きたいのだろう。
私はにこりと微笑んで答えた。
「レヴンワース男爵夫人は財産よりももっと素敵なものを自ら選び取られたのですわ」
「ええ、ええ!そうでしょうとも」
「あんなに情熱的なお方だったとは思いませんでしたわね」
くすくすと令嬢たちが笑い合う。私はそれを眺めながら内心肩を竦めた。
ユーレカ姫がデルリオ様と結婚した暁には、化粧料として王族の直轄地の一部が一時的にカルフイ侯爵家に与えられる予定だった。そこから得られる資産でユーレカ姫は降嫁しても王族並の暮らしができるはずだったのだ。もちろん、ユーレカ姫の死後は直轄地は王に返還する必要がある。
けれどその直轄地はレヴンワース男爵夫人となったユーレカ姫には与えられなかった。慰謝料として永久的にカルフイ侯爵家に与えられたのだ。
なのでユーレカ姫は実際にただの男爵夫人としての権限と資産しか持っていない。今まで雲の上の人だった姫君が自分たちより下の男爵夫人の装いしかできないのを見ると、さげすむような気持ちになってしまうのかもしれない。
デルリオ様がおっしゃっていた「どうなるのか目に見えている」というのはこういうことかと納得する。それとデルリオ様が私のドレスを仕立ててくださった意味も。本来は自分の立場であったデルリオ様の婚約者である私が華々しく着飾っていればレヴンワース男爵夫人も面白くないのでしょう。
デルリオ様とセットで有名人になってしまった私にかかる声は多かった。カルフイ侯爵家とのつながりを確認しつつ、さまざまなお茶会に出て交流を深める。
これまでは元婚約者の意向であまり社交をしてこなかったけれど、外交官の妻になるならしっかりこなさないと。お喋り雀さんたちの相手は苦手だけれど、年上の方との交流は勉強になることも多くて楽しかった。
その間もデルリオ様は私のもとに足しげく通ってくださった。なんだかんだと言って、私たちは案外気が合う気がする。私はデルリオ様のお顔を見れれば嬉しいし、デルリオ様はさまざまなことをご存知でなにより考え方が新鮮で面白い。きっと国外の方と関わる機会が多かったからだろう。
「そういえばデルリオ様、どうして私に婚約を申し込まれたのですか?」
だんだん気安い仲になっていくのを感じて、私はある日とうとうそう尋ねてしまった。デルリオ様は目を丸くして、「今更だな」と呟いた。
「あまりに訊いてこないから興味がないのかと思っていた」
「そういうわけではないのですが」
「そうか?……まあいい。お前に結婚を申し込んだ理由はだな、消去法だ」
当たり前だけれど、夢も何もない話だった。
「あの日バカ姫が婚約破棄をしでかすというのは気づいていた。しかし俺は長く外国にいたからそれも直前で、撤回させるのは無理だと結論付けてな。婚約破棄されたらどうすべきかを考えた」
「それがその場で婚姻を申し込むこと、ですか?」
「ああ。俺としてもバカ姫と婚約破棄すること自体は願ったり叶ったりだったからな。しかし年頃の令嬢は大体婚約者がいるだろう?俺は爵位を継ぐからあまり身分差があると面倒なのもあった」
「誰にも文句を言われずに婚姻できる相手が必要だったということですね」
「そうだ。その点お前はちょうどよかった。婚約が破棄されたばかりだが原因はアドリアンの馬鹿にしかない。ついでに侯爵夫人になるべく教育を受けている。プロポーズするのにうってつけだったわけだ」
私が決断したのと似たような理由だった。私たちはやっぱり似た者同士なのかもしれないと微笑んでしまう。
「……そこで笑うのがよく分からないな、お前は」
「そうですか?でも、私もわけのわからない婚約破棄をされたという点でデルリオ様に共感していましたの。正しい選択だったと思いますわ」
「お前があの場で即断したのはそのせいか?」
「いいえ?」
ぱちくりとデルリオ様が瞬く。綺麗なお顔をされているけれど、そんな表情は少し幼く見えた。
「デルリオ様のお顔が好みだったので」
「……顔が」
「ええ。そのお顔でお願いされたらどんなことだって聞いてしまいますわ」
「ある意味熱烈な告白だな、それは。この顔に生まれてきてよかったと思ったのは初めてだ」
デルリオ様のお顔がぐっと近づけられる。あまりの近さに驚いたけれど、驚きすぎて私は固まってしまった。
「キスをしても?シャロン」
甘い声が耳をくすぐる。私の銀髪をデルリオ様の指が梳いた。どうにか息を吐いて声を絞り出す。
「……いじわるなかた。どんなことだって聞いてしまうと言いましたのに」
「返事は?」
「好きなだけなさってくださいな」
顔がさらに近づく。目を閉じようともしない私に、デルリオ様は「本当に俺の顔が好きなんだな」と唇の近くで囁くように笑った。
そうやって平穏に過ごせていればよかったのだけれど、問題が発生した。デルリオ様にレヴンワース男爵夫人が近づいたのだ。
そしてあろうことか「あなたがどうしてもというのなら、わたくしにはべる名誉を与えてもよくってよ?」など宣ったらしい。もちろんデルリオ様はすぐに断った。
レヴンワース男爵夫人は激昂していたらしいけれど、元王女とはいえ男爵夫人と子爵位を持つ侯爵令息では後者の権力のほうが強い。騎士にしょっぴかれてレヴンワース男爵に回収されたようだった。
「お前に手を出してくる可能性もある。出かけるときは俺がついていこう」
デルリオ様にそう言われて私は申し訳なくなった。
「お気持ちは嬉しいですけれど、デルリオ様もお忙しいでしょう?あまり無理はなさらないでくださいね。とにかく一人では出歩かないようにしますから。最悪シャルルにでもついてもらいます」
「ああ、そうしてくれ。何か欲しいものがあったら買ってくる」
「では、以前お持ちくださったパティスリーのサブレを買ってきてくださいな」
「それは俺の好きなものだろう……」
「おいしそうに召し上がるデルリオ様を眺めていたいのです」
「わかった、お前がそうしたいのなら」
ちゃっかりお茶を一緒にしてもらう約束も取り付けて私は満足した。レヴンワース男爵夫人が何を企んでいるか知らないけれど、デルリオ様に敵うことはないだろう。私だったら絶対敵に回したくないもの。
しかし、意外なことに事を起こしたのはレヴンワース男爵夫人本人ではなかった。
「シャロン!」
デルリオ様にエスコートされて参加したパーティーで、そう不躾に呼んできたのはクレムソン様だった。デルリオ様が離れるのを見計らっていたのだろう。そばにいたシャルルがさりげなく間に入る。
「婚約者でもない女性の名前を大声で呼ぶとは、作法を学ばれなかったのですか?クレムソン侯爵子息殿」
シャルルが冷ややかに言う。ちなみにシャルルはこの方が嫌いらしい。私が好きでない人は大体シャルルも嫌いなのだ。
「お前に話しかけているのではない、シャルル」
「妹に無作法な男が近づけば警戒するのも当たり前のことでしょう」
「まあ、メリディアン様は妹思いなのですね」
割って入ってきたのはレヴンワース男爵夫人だった。シャルルは苦虫を百匹くらい噛み潰したような顔をした。表情がちょっと豊かなのがシャルルの美点であり欠点でもある。昔はそうでもなかったのに。
「何の御用ですか、レヴンワース男爵夫人」
男爵夫人、と強調して呼ばれて今度はレヴンワース男爵夫人のほうが顔を歪めた。こっちも分かりやすいこと。
「ふん。いいわ、アドリアン。やってしまいなさい」
何かけしかけるようなことを言われて、クレムソン様は私に視線を遣った。何を言われるのか身構えたけれど、出てきた言葉に私はあっけに取られた。
「シャロン。お前の運命の相手はこの僕だ」
「……はい?」
空耳を疑ったけれど、クレムソン様は真剣な顔をしている。私はついシャルルを見上げて、シャルルも私を見下ろしていた。こいつ、何言ってんの?と顔に書いてあった。
「いきなり何をおっしゃるのかしら」
「お前と婚約すべきは僕だ。デルリオとの婚約なんて破棄して戻ってこい」
「――聞き捨てならないな、アドリアン?」
すっと私を庇うように立って、デルリオ様が吐き捨てる。騒ぎを聞きつけて戻ってきてくださったらしい。気が付けば私たちを囲むようにやじ馬が集まっている。
「シャロン、いきなりこんな男に絡まれて怖かっただろう?私が必ず守るよ。愛してる」
指を取られて口づけられる。こうされると、はっきり言って私の視界にはもうデルリオ様しか映っていなかった。
「まあ、嬉しいです。私も愛しています」
「僕を無視してイチャつくな!」
このままデルリオ様だけ見つめていたいのに視界の外がうるさい。デルリオ様もやれやれと肩を竦めて振り向いた。
「で?私とシャロンが運命の人だって?その通りだよ。では」
「ちがう!僕とシャロンがだ!」
「何を言っているのだか。ひとの婚約者に懸想してシャロンとの婚約を破棄したのはお前だろう、アドリアン。まあそのおかげで私は人生でただ一人守るべき愛しい人に巡り合えたのだから感謝してやらないこともないが?」
煽るデルリオ様にクレムソン様はさらに声を荒げた。
「のろけるな!ええい、では言ってやるが――僕とシャロンの婚約はシャロンの方から望んだのだからな!」
……。
「えっ、そうなのですか?」
初耳だった。
私が首を傾げると、デルリオ様は楽しそうに笑った。一方でクレムソン様はもう地団駄を踏みそうな勢いだった。
「そうなのですかではない!」
「シャルル、何か知っている?」
「あー……。いや、厳密にはシャロンが望んだわけではないんだよ」
どうやら知っているらしかったので、シャルルに解説を任せることにする。
「声をかけてきたのはむしろクレムソン侯爵家の方だ。そこのそいつがメリディアン家の娘を見初めて打診があった」
「それじゃあアドリアンが望んだということになるが?」
「いや、それがな。シャロンが金髪に赤い目の少年を気に入っているっていう話を父上が聞いていたんだよ。じゃあそれはクレムソン侯爵家のご子息だからちょうどいいってことで婚約が結ばれたんだ」
「そうだ、互いに一目惚れだったというわけだ。これが運命と言わずしてどうする!」
「そうですわ!」
クレムソン様にレヴンワース男爵夫人が同調する。ええと、仮に事実だったとしても忘れていたのだから運命も何もないし、そもそもクレムソン様との婚約は向こうから一方的に切ってきた時点でよりを戻すとか完全にあり得ないのだけれど。
「……って、それって私が七歳になる頃の話よね?」
「そうだ。シャロンが覚えていないのにもちゃんと理由はある」
「もしかして……」
私とシャルルは顔を見合わせた。シャルルはげんなりとした表情だったけれど、言ってもらわないとこの人たちはしつこいと思う。
「理由とはなんなんだ?」
デルリオ様に尋ねられて、私は答えてしまうことにした。
「その、私とシャルルは年子でしょう?子どもの頃は背もあまり変わらなくって、顔もとても似ていたんです」
「それが?」
「だから……入れ替わっていたんです」
「入れ替わり……」
「は?」
クレムソン様がぽかんとした顔をするので、シャルルが嫌そうな顔で補足した。
「勉強が嫌でシャロンを身代わりに置いて遊んでたんですよ。シャロンは勉強ができて喜んでたしな。で、俺はシャロンの格好をしていたってわけで――」
「――クレムソン様が見初めたのは私ではなくシャルルってことですね」
言い切ると、クレムソン様は顔を真っ赤にした。それはそうだ、一目惚れした相手が実は男性でした、という話だし。
「ちなみにそのシャロンが気に入った少年というのは私のことだな」
さらにデルリオ様が追撃する。愕然とするクレムソン様は何も答えなかったけれど、「そんなわけないでしょう」とレヴンワース男爵夫人が反論した。
「そこの娘と同じ年頃の貴族令息で金髪に赤い目なのはアドリアンだけよ」
「おや、忘れてしまったのですか?レヴンワース男爵夫人。私も昔はその色をしていましたよ。カルフイ侯爵家の者は皆そうなのです。年をとると髪と目の色が入れ替わるようになる。そうですよね、殿下?」
いつの間にかレヴンワース男爵夫人の後ろに立っていたマリオン殿下は難しい顔で頷いた。
「ああ、そうだ。お前のところの甥も今は金髪に赤い目だったか?」
「その通りです。そもそも、私がなぜあの場でいきなりシャロンに結婚を申し込んだのか、シャロンがすぐに頷いたのか、不思議に思いませんでしたか?」
「まさか……」
レヴンワース男爵夫人の呟きにデルリオ様は笑顔で嘯いた。
「幼い頃互いに一目惚れをしていたからですよ。アドリアンの運命の人?まったくの人違いですね」
その言葉にレヴンワース男爵夫人も撃沈した。
結局レヴンワース男爵夫人は王都から追放され、男爵領から出るのを許されなくなったらしい。王家の監視がついていくというので、カルフイ侯爵家へのちょっかいはもうなくなるだろう。デルリオ様も「目に物見せられた」ので満足そうにしていらした。
一方で、一度婚約を自分から破棄した元婚約者――しかも今は婚約者がいる令嬢――に言い寄ったクレムソン様は廃嫡になった。明らかにデルリオ様を敵に回したし、マリオン殿下もクインシー様に懸想しているクレムソン様を良く思っていなかったらしい。こっちも領地から出ることを許されなくなったようなので、もう会わないと思うとせいせいする。
「それにしてもクレムソン様があんなことを言い出すとは思いませんでしたわ」
パーティーから一夜明けて、私とデルリオ様、それにシャルルは屋敷のサロンでお茶をしていた。デルリオ様が事の顛末を伝えに来てくれたのだ。
「バカ姫に持ちかけられたらしいぞ。自分は聖女の義妹だから聖女に近づけるようにしてやるとかな」
「兄の婚約者に別の男を近づけるとか正気じゃないよなあ。あとあの男爵夫人の言うことを信じるのもアホかっての」
シャルルがため息をつく。しかし、あの場でシャルルが一緒にいてくれてよかった。私もクレムソン様のメンタルがバキバキにされていくのを見てすっきりしたし。どうして私が自分を好いているだなんて勘違いしていらしたのかしら。
「……あら?」
「どうした?」
「いえ、その。シャルルの言っていた、私が気に入っていた金髪に赤い目の少年って結局誰のことなのかしら?私は少なくともデルリオ様と子供の頃に面識はないわ。あったら忘れるはずないもの」
子供の頃のデルリオ様もお綺麗だったのだろうなと思うとみられなくて残念なくらいだ。
「ああ、それか。あの話、逆なんだよ」
「逆?」
「アドリアンが見初めたのが本当のシャロンで、俺と遊んだのがシャルルって訳だ。なあシャルル?」
「女装してたのがバレたのはデルリオだけだよ。さんざんからかわれてやめにしたんだ」
「シャルルが突然やめるって言いだしたのはそういうことだったのね」
ずっと理由を教えてくれなかったから、ようやく謎が解けた。
お父さまは私に成りすましたシャルルがデルリオ様と遊んだことを報告したのを勘違いしたというわけかしら。あと私は本当にクレムソン様のことを覚えていなかったらしい。
「結局私とデルリオ様は運命なんかじゃあ全然ないのかしら」
「さあ?偶然が重なったにしては俺は幸運だったと思うけどな」
「それは私もそうだわ」
運命とか真実の愛だとか、そんな耳触りだけのいいフレーズは胡散臭いと思っていた。でもデルリオ様が背負っているのなら、ちょっと気持ちは分かる。
「もうそれでいいんじゃないのか。じゅうぶん恋愛結婚だよ、お前ら」
シャルルに呆れたように肩を竦められて、私とデルリオ様は顔を見合わせて笑った。