夢路
「こんばんは」
「…こんばんは」
「お一人ですか?」
「そうなりそうです」
腕時計をちらっと見るような仕草をする。
渋谷の駅の近くのシティホテルのラウンジで、ゆっくりとカクテルを飲んでいると一つ席を隔てた男が声をかけてきたのだった。
待ちぼうけを食ったってわかるとわずかだけれど、体をこちらに向ける。身を乗り出してなんてふうに見られないようにしているところが取りあえずOK。
お天気の話や世間話の中に少しずつ自分の仕事や地位の話を混ぜてくる。システム・エンジニアだけれど、今は証券会社でシステムの統括をしているということらしい。
最近、新型コロナウイルスのワクチン開発関連で株価が高騰したというニュースを耳にしたけど、どこもかしこも不景気な中で儲かっているところもあると知って驚いたと言うと、
「ええ、叩かれないようにできるだけひっそりとしてますよ」と笑う。
「今の社会は『出る杭は打たれる』なんてつぶやいただけで、炎上しそうですからね」と笑顔を返す。自慢げな顔をしていないかを確認するために。
自分のこともぼやかしながら紹介する。たぶん広告代理店だと思っただろう。
「出口のないトンネルを走ってるみたいです」
変な慰めは要らないとお互いわかっているから、沈黙が落ちる。
「おかわりを」
少し離れたところにいたバーテンダーに言う。
「ぼくは、どうしようかな。…きれいな色ですね。なんていうんですか?」
「…Kiss in the Dark」
バーテンが表情を変えないようにしているのがわかる。そう、いつものゲームの開始。
「セクシーな名前だなぁ。…どんなの?」
ちょっとあわてたような感じでつぶやいて、バーテンダーに訊く。
「ドライジンとドライベルモットにチェリーブランディで色を」
ボンベイ・サファイアの周りにボトルが並んでいる。それを順に取り上げながら低い声で答える。
「じゃあ、ぼくはギムレットを」
ひゅー、いいじゃない。錐ってことね。ベースも同じだし。
2つのグラスが並んで、彼が席を詰めてきて乾杯をして、お互いの夢を語り合った。株でもうけるのは飽きちゃった、システム・インテグレートの会社を作りたいな。あたしは手作りクッキーのお店をしてみたいの。
事業の統合はむずかしいですね。システム化しちゃハンドメイドじゃないものね。声を出して笑い合ったけれど、あたしはクッキーなんて焼いたこともない。夢はそう思われたいあたしを演出するもので、現実と無関係な方がいいから。…
あたしは自分を“定義”されるのが嫌いだ。中学生の頃、「不純異性交遊」なんて笑っちゃうほど古い言葉で、あたしのしたことを“定義”されて、動機を「父母の愛情の欠損」なんて“定義”されたのが始まりだと思う。あたしより漢字を知らないバカな教師が汚い字で書類に書き込むのが見えて、これが罰というものだと悟った。
暗闇でそんなことを思い出しながら、隣の彼の寝息を聞く。悪くはなかった。彼の仕方も終わってから抱きしめてくれた感じも。深いところで感じたのは夏より前かな。何よりこれからのことを言ったりしないのがよかった。
この前はとても慣れた感じの男で、いい気分でいたら、済んだと思った途端に『セフレにならないか?』――自分の見る目の未熟さに涙が出てしまった。
セフレでも愛人でもなんでもいいんだけど、そういうことを口にする無神経さ、“定義”しようとする態度に我慢ならなかったんだ。あたしは捕らえどころがないってよく言われる。そうじゃなきゃ男漁りをしてるだけになってしまうじゃない。服もメイクもパルファムもつけないで、裸で街を歩けって言うの? ありのままの自分でいればいいなんてそれよりひどいことだと思わない?
ベッドからすり抜け、窓の方へ行く。カーテンを開けるときれいな夜景に何もつけていないあたしが重なって映る。…一人の男と長く付き合うのも嫌だ。ちょうどいいくらいにメールをくれて、ちょうどいいくらいに会って、ちょうどいいくらいに寝てくれる男っていないから。
しつこいか、ほったらかされるか、どっちかになってしまう。自分勝手? もちろん。だからあたしは孤独でいる。ひとりぼっちが怖くてプライドを引き換えにする女なら、ここから見える街に何千人と眠りこけている。
「おはよう」
「…おはよう」
抱きしめて耳元でささやいてくれる。胸元に毛布をかき寄せる。さりげなく脚が出るくらいに。
「よく眠れた?」
「うん。あなたは?」
キスが返事ね。ぐっすり寝てたなんて言うより、いいじゃない。唇から耳を甘噛みしてくる。手が密やかに伸びてくる。昨日褒めてくれた指をからめる。抵抗するように、誘うように。今日は土曜日、だからチェックアウト・タイムまでだいじょうぶよね。…
少し眠ってしまったような気がする。なんだか変な夢を見た。別のあたしが別の男と同じことをしていた。最初から最後まで会話も何もかもそっくり同じ。でも、それはあたしじゃない。その“あたし”はやっぱり夢を見ていて、また別の“あたし”が同じことをしている。それがまた…。合わせ鏡のように続く夢に追いかけられ、ずっと忘れていた恐怖感を感じて目が覚めた。
彼があたしを見ている。その表情はあたしが全然別の見知らぬ女に見えてしまったと語っている。お互い言葉を見つけられず、鈍いエアコンの音だけが聞える。
うつつにて 誰契りけん 定めなき
夢路に惑ふ 我は我かは
よみ人しらず・後撰和歌集
夢路の歌は平貞文の、
昔せし 我がかねごとの 悲しきは
いかに契りし なごりなるらむ
への返歌とされています。
つまり「昔交わした約束が悲しいことになったのは、一体どのように契った結果なのでしょうか」と貞文がかつての恋人に伝えたのに対し、
「目覚めている時に誰が契りを交わしたのでしょうか。夢路に惑っているこのわたしは一体わたしなのでしょうか」という返事なわけです。
貞文の歌には次のようなほとんど歌物語のような長い詞書が付いています。
「大納言国経朝臣の家に侍りける女に、平定文いと忍びて語らひ侍りて、行く末まで契り侍りける頃、この女、俄かに贈太政大臣に迎へられて渡り侍りにければ、文だにも通はす方なくなりにければ、かの女の子の五つばかりなる、本院の西の対に遊び歩きけるを呼び寄せて、母に見せ奉れ、とて、かひなに書きつけ侍りける」
昔せしの歌を女の子の腕に書いたというのが小説的です。谷崎潤一郎の『少将滋幹の母』のもとになっているそうです。