夏祭りと変化
リビングで昨夜できなかった英語の宿題のつづきをしていると、玄関のドアが開く音がした。ひょいとあらわた顔を見てもともと丸い目がさらに丸くなる。
「鍵返しにきたよ」
清春はテーブルの左側に座って鍵を差し出してきた。奏は油が切れたブリキ人形のように、ぎこちなく腕を伸ばし受け取るとポケットにしまい宿題をつづける。清春は頬づえをついてその様子を無言で眺めていたが、テーブルに顔を乗せて奏の顔を下から覗きこんできた
「怒ってる?」
無視をしていると、拾い上げた蛍光ペンで奏の手をトントンとたたいてくる。宿題から目を離さず返事もせずにいると、「いびきすごかったよ」と言った。その言葉で顔が一瞬にして真っ赤になる。含み笑いをする清春を一瞥し、咎めるように大げさに咳払いをして辞書を開くと、その手の甲をペンが滑り腕をのぼっていく。
「邪魔しないで」
「俺は邪魔してないぞ」
「今まさに邪魔してるでしょ、じゃあ何これは」
と、ペンを指差す。
「This is a pen.」
良い発音と真面目な顔でペンを突き出してくるから、あまりのくだらなさに奏は堪えることができず吹き出してしまった。昨日の行為は行き過ぎていると思うが、思っているだけでどうしても拒否できない。絶対服従でも奏が本気で嫌がれば清春はすぐにやめるだろう。どうすればいいのか、考えれば考えるほどわからなくなっていく。この無神経でやさしい幼馴染みの行動を、いちいち気にして悩むのはもうやめだ。
「……怒ってないよ」
肺のなかの空気を全部吐き出すようにわざとおおきなため息をついてそう答えても、清春はやっぱり嬉しそうにする。黙々と宿題を進める奏を頬づえをついたままずっと眺めていた清春が、ふたたびペンを操ってちょっかいを出してきた。頬をつつかれ奏は口をきつく結んで無視をして宿題をつづける。清春がテーブルに身を乗り出し奏はとっさに身構えたところで着信音が鳴って、清春は大きく舌打ちをし、またね、と軽く言って立ち上がり清春はさっさと家を出て行った。
それからの日は母親と一緒に母方の実家に出かけ、孫的任務を完璧なまでに遂行し、かなりの額のお小遣いをもらったり、父親とも休みの日に出かけた。いつ彼女に引き合わされるのかと毎回緊張して、いざというときのためにあいさつの練習までしていたがそんなことは一度もなく、親戚に会って普通の家族団欒で終わった。
予定されていた最後のクラスの集まりは、行き先が海に確定したと連絡が回って来た。複数のクラスからも参加者が集まっての大所帯になるという。水源の最たる場所である海など奏はもちろん不参加で、あれから連絡を取っていない清春が参加したのかは知らない。
夏休みの終わりが近づいてきたころ、近所の神社でひらかれる夏祭りに行こうと清春から誘われた。せっかく買った浴衣をもう一度着たかったから、二つ返事をした。今回はちょっとだけ大人びた髪形にしてみようと、いつもより長めにネットでリサーチをする。すこしでも長く自分が目に留まるよう、夏祭りの日まで鏡のまえで何度も練習した。
夏祭りの日の夕暮れ、エントランスで清春を待っているとコンビニ帰りらしい清雅と出くわす。
「そこなかわいいお嬢さん、俺とデートしない?」
「しない」
「冷たいなー、そこもかわいいけどね。春も俺も顔の作りは大差ないでしょ。あいつは背がデカイだけで、心の広さは俺の方がはるかに上よ。その髪形かわいいね。あ、ちなみに隆は人の心を持ってないゴミカスだから気をつけてね」
何度もかわいいを連呼する清雅と話をしていると、清春がエレベーターから出てきた。清雅に気づくと慌てたように奏の腕を掴んで、早歩きで玄関を出て行こうとする。あまり上下関係があるようには見えない兄弟だが、双子はすぐ弟をおもちゃにしてからかって、弟は反論せず黙っているのが常だった。
「やだなあ、なに警戒してんの。取って食ったりしないよ、たぶんね」
清春が目の端で睨みつけると、清雅がケケケと兄弟そろって同じ高笑いをする。
ふとデートという言葉が耳に残る。何も考えずいつも二人きりで出かけるが、人から見るとこれはデートにも見えるのかと今更気づいた。清春はそれを承知で誘っているのか、それともわかっていないのか慣れた幼馴染だから気にする必要もないのか、いままで考えたこともなかった。
神社の境内は人で溢れかえり、沿道には屋台がずらりと並んでいた。両親と行った夏祭りなど記憶になく、祖父母からもらったお小遣いで気が大きくなっている奏は豪遊をする。食べ歩きしながら、鳴子を鳴らして踊るグループを見たりした。すっかり暗くなったころ広場の舞台の上では、手にライトを持ったダンスグループが踊っていた。舞台の照明を落とした薄暗いなか、音楽に合わせて踊るライトの光が煌々と尾をひいて円を描き、会場に集まった若い人たちの声が響いてかなりの盛り上がりをみせていた。
広場を囲う柵に腰掛けてイベントを眺めている清春の横で、奏はその場にしゃがみこみ、鼻緒ずれになりかけている足の指に絆創膏を貼りながら話しかける。
「海、楽しかった?」
返事がなく見上げると、聞こえていなかったのかステージの方を見つめたまま反応がない。今回のクラスの集まりに参加したかどうか聞いてはいないが、よく日焼けしているから行ったものだと思って質問した。昔から清春は面倒臭かったり、都合の悪いことには返事を返さない癖がある。特に海に行ったかどうか興味があったわけではなかったから返事がないことは気にせず、覚えたての鼻緒ずれ対策を施した。下駄を履きなおして立ち上がろうとすると、清春の手が伸びてくる。
「あのさ、学校はじまって俺の周りで何か変わったことあっても、誤解しないでほしい」
「うん?」
珍しくふざけていない真面目な声で言う。要領を得ない話だが適当に相づちを打って、差し出された手を掴むと清春が引っ張り上げる。浴衣を直し清春の横に立ってイベントを見ていると、垂らした後れ毛がツンと引っ張られて話がつづけられた。
「奏は全然気づいてないけど、俺が好きなのは奏だけだから。忘れないで」
舞台の上ではライトを激しく振り回していたダンスグループがそでに下がり、地元のフラダンス教室のグループがあらわれてゆったりと踊りはじめた。のんびりした音が会場中に流れ、観客もリラックスしているが、音楽が聞こえないほど奏の鼓動はうるさく跳ねあがっている。
幻聴や勘違いでなければ、恋の告白を耳にしたようだ。それにしてはごく普通に、昨日見たテレビ番組の話でもするかのように言うから混乱してしまって、でも聞き直す度胸はない。清春の視線は感じているけれど、体が固まって見返すことができずただ舞台の方向を見つづけているが、視覚から入る情報などなにひとつ頭で処理できていない。イベント演目はまだ残っていたが、柵から飛び降りた清春に手を引かれるままお互いに何もしゃべらず祭りを抜けて家へ帰った。
始業式を終えて教室へ戻ると、クラスメイトは全員日焼けしていて、ガリ勉チーム以外は全員見知らぬ人のようだった。奏もバーベキューのときにすこし日焼けしたが、引きこもりの期間が長過ぎてあっというまに元の色に戻っていた。ホームルームが終わり、帰り支度をしているあいだもクラスはいつまでも夏休みの話題で賑わっている。
「海これなかったの残念だったね。めちゃくちゃ楽しかったよ」
そう言って長谷がお土産のお菓子をひとつくれた。海に行って仲良くなったのだろう、周りをみると他のクラスの人も混じって楽しそうにしているのが見える。窓ぎわの清春の席はうまい具合に一軍が固まっているエリアで、普段から溜まり場のようになっていた。清春の姿はいつも以上の人壁に囲まれていて見えない。
「清春くん」
騒がしさのなかから馴染みの言葉を耳が勝手に拾いあげ、反射的にその方向を見ると見知らぬきれいな顔立ちの女子生徒がいた。姿は見えないがときどき清春の通常バージョンの笑い声も聞こえてくる。長谷と話をしながら、こんなにぎやかな教室の中でも奏の耳は清春の声だけを聞き取ろうとする。
いつも通りの学校に戻ったと思っていたが、クラスの雰囲気に変化があった。奏はしばらくわからなかったが、すこしずつ清春が言っていた「変わったこと」が周りで起きていることに気づく。始業式に見たあのきれいな子は、隣のBクラスから毎日のように清春に会いにきて、そして、周りから通い妻と冷やかされかわいらしく顔を赤らめる。
「これ半分に切って配っといて」
本日の日直である奏は教師から小テストの解答用紙を受け取る。二部印刷された解答を半分に切って配る作業は奏が引き受け、もうひとりの日直は教師の荷物運び要員として教室を出て行く。カッターで切り分けるために折り目をつけていると、Bクラスのあの子がドア縁に手をかけてキョロキョロと教室内を見渡している。誰かが清春は教室を出て行ったと伝えると、彼女はがっかりしたようにうなだれ、それでもそのまま教室に入り清春の席に座って他の子たちと仲良く話しはじめた。
プリントの折り目に、伸ばした刃を滑らせて切り離していると、彼女の楽しそうなしゃべり声が聞こえた。あと数枚で終わるというところで軌道が外れ、紙がヨレて刃が引っかかる。別口から切り直そうと思ったところで、彼女の弾けるよな笑い声が耳に入り、奏は刃先が引っかかったまま強引に力で押し切った。
力を込めすぎてプリントは破れてしまい、切れ味の良いカッターは紙を抑えていた左指をかすめた。すっぱりと皮膚を断ち、切り口から白い切断面を見ていると一瞬の間を置いてふつふつと鮮血が溢れ出す。机にぽたりと垂れた血を拭き取ってから、指にティッシュを巻きつけて保健室へ向かう。指は痛みティッシュは赤く染まってくが、教室にいたときほど気分は鬱々としていない。
保健室の扉を引くと室内には暇つぶしに来ている生徒が数人いた。手に巻いた血に染まるティッシュを見た養護教諭の三島がすぐにデスクから離れて奏の元へ小走りで寄ってくる。男性であるが身長が奏とほぼ同じで妙な親近感が湧く。
「あら、あなたと並ぶと私も人間だったことを思い出すわ」
三島も同じ気持ちのようだった。背が低く丸っとした体型に短めの手足で、生徒からはハンプティダンプティと呼ばれ本人もなぜか気に入っている。本人はそれは自分がたまご肌だからと言い張っているが、いずれにせよ生徒から好かれて人気があるのは確かだった。
「まあきれいに切ったわね、そこ座りなさい」
スツールに座っていた生徒をシッシと追い払い奏を座らせる。ティッシュを取るとまだ血は溢れてくるが最初ほどでもなく、三島が処置をしているあいだに保健室利用者帳に学年クラスと名前を書き込んでいると三島が覗きこんでくる。
「二年生は……上野くん、塚田くん、夏目くん、佐々木くん、茂木くんが有力候補ね」
「なんですか?」
三島が淀みなく列挙した生徒名のなかに、清春の名前も混ざっていて質問が口をついてでる。二年に夏目という生徒は清春しかいない。
「文化祭のイケメンコンテスト投票上位者よ、下馬評見てないの? 先生は立場上DDって言ってるけど、密かな推しは三年の酒井くんと二年の上野くん」
中間試験が終わればすぐに文化祭がある。その催し物のひとつである美男美女コンテストでは各種一人三票ずつ、すでに投票ははじまっている。投票状況は学生食堂の掲示板に貼り出されているというが、教室弁当派の奏は全く見ていなかった。女子の方は本気のミスコンになるが、男子はほとんどお遊びで最後は全員女装させられるため組織票による工作も多い。教師にも投票権は与えられているが、逆に投票されることもあり三島は赴任以来ミスコン側で投票され、毎年ミスコンのダークホースと呼ばれ参加しているらしい。
「残りの一票は夏目くんに入れるわ。体育祭の借り物競走で一緒にゴールした仲だからね」
「ああ、そうらしいですね」
あのとき、奏は校内に隠れていたせいで見ていなかったが、聞くところによると借り物競走のラストを飾るにふさわしいオチで終わったという。奏を探して時間をロスしたことで最下位が確定した清春は三島を選んで一緒にゴールへ向かっていると、ブーケに見立てたポンポンを渡された三島に腕を組まれ、紙の花吹雪と拍手喝采を受けながら二人でゴールテープを切ったとクラスメイトから聞いた。目立つことが嫌いな清春は、全校生徒に注目されて相当機嫌が悪かったに違いない。
「あのときはぐらっときたわ。でも夏目くんって端正な顔立ちだけど正統派すぎて、ゲームのキャラメイクのデフォルト顔みたいよね。私は小動物みたいなかわいい子がタイプだから、酒井くん推しは変えられないの。残念だろうけど」
保健室にいた全員が腹を抱えて失笑していると、三島は「デフォルト顔使ってる人って、初心者の振りした愉快犯とか荒らしプレイヤーが多いわよね。私調べだけど」とつづけ、奏は涙が出るほど笑った。
予鈴がなり、生徒たちが慌てて保健室を出て行く。奏の処置も終わり、第二関節から指先まで一気に切ったせいで仰々しい見た目になっているが、深い傷でもなく傷口は固定され血も止まっている。
「でもこの学校全体のなかから私の手を取るなんて、若いのになかなかの慧眼ね。今のうちから……」
救急用具を片付けながら、三島は聞き取れないちいさな声でぶつぶつと呟いている。
「お題は“背が低い人”ですよね?」
「大人しそうな顔して言うわねあなた。違うわよ、“かわいい人”よ」
三島の誇らしげな顔を見ながら本鈴の音を聞く。
「あっ、いた! 白川さん大丈夫?!」
振り向くとクラスの保健委員がドアのところに立っていた。奏の机にむき出しのカッターと血痕が数滴あって、様子を見に来たと言う。大したことないと伝え、三島に礼を言って保健室をあとにした。
駅のホームで英単語帳をみながら電車の到着を待っていると、デフォルト顔の愉快犯が近づいてくるのが見えた。うしろには数人同じ制服のグループがいて、あの子もいる。
「指痛い?」
「もう平気」
固定されていて曲げられないが、指を横に振ってみせた。清春とは夏祭りのことはまるで何もなかったかのように、今までと変わらず接している。
「ところで次の報酬決めた?」
「やる気だねえ。報酬ルール決める?」
「なんでもいいよ。今度こそ一位は絶対譲らないから」
おお、と清春がわざとらしく拍手する。
清春の横にBクラスの子が友人たちを引き連れてきた。学校から駅まで数人で一緒に帰っていたが、駅につくと清春がグループから離れていったので付いてきたというところだろう。全員が奏の知らない話をはじめ、奏はふたたび英単語帳に視線を戻し電車の到着を待った。
友人たちと話をしているときの清春は、聞き役に徹することが多くあまり自分からは話を振らない。いつものように煽ったりおちょくるようなしゃべりかたはせず、にこやかに爽やかに的確な返事をして場を盛り上げるだけだ。あの子に話かけられたときも相づちくらいで、あまり言葉を返さない。何とか会話をつづけようとけなげに他愛のない話を振っているが、清春は表情が和やかだから一見わからないけれど内心返事すら面倒臭いと思っているはずだ。その心の距離感が逆に相手に興味を持たせてしまうのかもしれない。これがもし双子だったら、彼女はとっくに投げ飛ばされているだろう。
以前、清隆にしつこく付きまとっていた女子がいたが、我慢の限界がきた清隆があるときその女子に格闘術の技をかけて派手に投げ飛ばした事件があった。しかもいつか投げるつもりでずっと投げ技だけを練習していたと得意げに言い、その話を聞いて面白がったのは清雅だけだった。あの双子は女子にも容赦がないが、その子もあの双子を好きになる程の変わり者で大した問題にはならなかったのは幸いだ。
その同じ血が流れている清春もみんなが思っているような折り目正しい青年ではないが、あの自由気ままな兄たちを見て育ち処世術を身につけた末弟は、わざわざ面倒ごとを起こさないし他の人たちとも仲が良いあの子を邪険にしたりしない。
奏と清春だけ電車を降りて別の路線に乗り換える。指の切断面について話をしながら、家に帰る前にいつものスーパーで買い物をして、前回と同じように賭けの報酬を書きこんだ署名入りの紙をスーパーのリーフレットのなかに封印した。二人で菓子パンを食べながら家に向かう途中、三島の話を思い出す。
「イケメンコンテストって去年出たの?」
「出てないよ、選ばれてもいないし」
どうやら今年の体育祭で注目されたせいで知名度があがり、投票数を伸ばしてしまっているようだ。
「女装は似合いそうだね」
「断固拒否。双子に嗅ぎつけられて死ぬまでネタにされるわ」
確かにあの双子ならやりかねないし、写真は永久保存され夏目家で祀られることになるはずだ。
「三島先生が一票入れとくって言ってたよ」
「余計なことを」
嫌そうな顔で舌打ちをする。奏は去年誰にも投票していなかったが、今年の三票は清春に入れようと思っている。エレベーターが五階に到着し、降りていく清春に声をかける。
「テスト、手抜かないでね」
「うぃ」
家に戻るとすぐ食事と風呂を済ませ、試験勉強の追い込みをはじめる。試験まであとすこし、今回は絶対に負けるわけにはいかない。