反抗と服従
次の日も清春は平然と遊びにきたが、居留守を決め込んだ。奏が引きこもりなのは承知しているから、意思を持って無視をしていることは伝わっているだろう。居留守は反抗の意思表示だ。
その翌日から清春は来なくなり、久しぶりに勉強に集中して何日かたったころ、午後から出勤する父親が家を出るとき悪魔がふたたびあらわれた。
「このまえ奏を花火に連れて行ってくれてありがとね。用事がないと家から出ない子だから心配で」
優等生の仮面をかぶった悪魔を見るや否や、父は顔を輝かせて笑顔で話しかけた。花火を見にいくから浴衣を買うと伝えたとき、父は大喜びして何枚買ってもいいと言い、帰り際に撮った自撮り画像を見た母は浴衣姿を褒めちぎり疲れるほどの長電話になった。大勢のクラスメイトとカラオケに行った話も根掘り葉掘り訊かれて、新しい参考書の希望や学業成績の報告の何倍も二人は喜んでいた。そして清春のアドバイス通り、父への過干渉をやめて距離を置いてみると、父は取り繕うようなことはしなくなりすこしずつ態度が自然になってきていた。
娘に何も注意しないおおらかな父だと思っていたが、娘の同級生と娘の話している姿を見て反省する。父のことも母のことも自分だけわかったつもりでいたが、親は自分が思っている以上に娘を気にかけていたとあらためて知った。
清春は姿勢よくさわやかな笑顔で、昨日まで母方の実家に出かけていたと言ってお土産を手渡ししながら家族の様子を手短に伝えている。父の清春に対する信頼が爆上がりしていくのが目に見えるようだった。
出かけていく父を見送ってから清春を見ると、先ほどまでの好青年ぶっていた態度は一変し、腕を組み冷たい目で見下ろしていた。そっとドアを閉めようとすると、つま先を引っ掛けてそれを阻止する。
「何か言うことは?」
「……ええと、ありが、とう?」上目遣いで顔色を伺いながら言う。
「聞こえないなあ」
わざとらしく首をかしげ、清春の目が細くなる。浴衣を着て花火大会に出かけて写真を撮ったり、クラスメイトとの交流や父への態度をあらためたことも白川家のなかでは良い方向へと進み、花火の帰りにされたことを差し引いても、すべて清春のおかげであることは確かだ。
「その節はありがとうございました、父も母も喜んでおります」
「それから?」
「どうぞ、なんのおかまいもできませんが」
そう言ってドアを広くあけると、「わかればいい」と偉そうに言い放ち家に上がった。立場が逆転しているがどうにも覆せず、目の前をわがもの顔で歩く背中に向かって、心のなかから抗議の声を投げつけた。リビングに入った清春がテーブルに広がる勉強道具を見て、呆れ声を発する。
「勉強そんなに楽しい?」
「楽しい」
渡されたお土産の袋をのぞきならがら、奏はキッチンへ向かう。山積みされた大量生産の土産菓子ではなく、実家近所の店で売られている人気の産地直送りんごパイだという。奏と奏の父親の好きなものをちゃっかり選んでくるとは、さすがとしか言いようがない。さっそく麦茶とお土産の菓子に、家にあった茶菓子も足してテーブルに置くと、床に座って途中で止めていた数学の問題集を続けた。
ソファに座って背後からその様子を見ていた清春が、問三を指差して「ここ違う」と言って、問五まで進んでいた奏の手からペンを取り上げ横に解答を書き込んでいく。
奏のうしろからでも、清春の長い腕は問題集の回答枠に手が届く。横顔が当たりそうなほど近づき、背中に清春の体が触れても、奏は淀みなく書き込まれていく解答だけに集中している。書き終わって問題集の上にペンが置かれると、奏はちいさく拍手をした。
ぶつぶつと独り言を言いながら、解答集の解説を読んでいる奏の耳に清春が軽く噛み付いた。慌てて耳を抑えて振り返り睨む。
「おい、やめないか」
清春は振り向いた奏をじっと見たあとソファに寝転び、ため息をつきながら雑誌を開いた。
「間違いを正してやったんだぞ、感謝しろ」
いったん勉強をやめてお土産のりんごパイを食べながら、テレビのニュースをつける。天気予報では夏休みではしゃぐ学生たちの映像を流しながら、一週間の最高気温を発表しているところだった。
「そういえばクラスの集まり、次はバーベキューだっけ」
「そう、行こうよ」
夏休みがはじまってから、清春は誰かと遊ぶより奏といる時間の方が徐々に長くなってきていた。絶対服従とはいえ、バーベキューをする場所は河原だ。水場を嫌がる奏が行きたくないと言えば、今回ばかりは強制しないだろう。河原でなかったとしても行きたくはないが、奏の出不精にひっぱられて清春が二軍落ちするのではないかと心配になる。本人はスクールカーストなどに興味はないのだろうが、これまでは普通に高校生活を満喫していたのに最近はうちに入り浸っていて、しょっちゅうかかってくる誘いの連絡もほとんど断っているから気にならないわけがない。
そんなこと個人の自由であるとは思うが、清春がはなやかな舞台から転落していくのは奏も望まない。両親を喜ばせることができたお礼に、清春がくどいほどに繰り返す「ひと夏の青春」とやらを応援すべく、奏は彼を連れて次の集まりにも参加することにした。
本人はそんな奏の気遣いなど気づきもせず夕飯を所望した。仕方なく作って出したものの「双子のマズ飯よりはマシ」とだけ言って家に帰っていった。
家に立てこもりつづけていた奏は、うっかり返却日が過ぎてしまった本を返しに図書館へ出かける準備をしている。以前は朝起きたらすぐに父の食事を作っていたが、いまは自分の分だけ作って食べるだけだ。父は昨夜遅くに帰ってきてまだ寝ている。父の業務は流動的で休みなどあってないようなものと、忙しいときは会社が家、と言える程に帰ってこない。母はその寂しさに耐えられず逃げてしまったらしいが、奏は父を仕事人間だからこそ尊敬していて、たまにしか見かけなくても寂しいという感情はなく、中学に上がるまでは父方の祖母もいたから生活に困ることはなかった。機微に疎いところが父親そっくりだと母が愚痴のようなものを漏らしたことがあった。娘の生活をやたら心配しているのに、なぜ母ではなく父に引き取られたのか気にならなくもないが、大人の事情はやぶ蛇御免と質問する気などない。
借りたい本はすでに予約してあり、受付で引き取ってから館内をうろついて面白そうなものを読む。図書館で勉強している学生もいるが、奏は家の方が集中できるから図書館では読書しかしない。文学小説を一冊と、歴史の本を一冊取って席に着く。全く違うタイプの本を二冊一緒に読むのが奏の本の読み方で、ある程度まで読んだらもう一冊に切り替える、それを交互に繰り返して読み切る。歴史の本を読んでいるとき、隣に座った清春の口がおはようと動いた。
歴史の本を先に読み終わってしまい、別の本を取りに行こうと清春を見ると、頬づえをついて真剣に「十分ちょっとで読める世界大戦」という漫画本のシリーズ物を何冊か山積みにして読んでいた。この人はいつ勉強しているのだろうと不思議に思う。
中性的な整った目鼻立ちに長いまつげが特徴的で、クラスの女子が羨ましがって男にはもったいないと、綿棒を乗せて遊んでいるの何度か見た。子供の頃は双子とも顔立ちも体格もそっくりで三つ子説が浮上したが、今は清春だけすくすくと背が伸びている。清春の母親は雰囲気のある人だったが、そのおもかげは夏目家の子どもたちに余すことなく反映されているようだ。
奏に見られていることに気づいた清春が、読んでいた本を持ち上げて「飽きた」と口を動かし、奏は「帰ろう」と返す。
本棚のあいだをうろつきながら、次に来たときに読みたい本の題名をメモしていく。文学小説エリアは物色している人がたくさんいるが、歴史文献エリアは誰もいない。本を棚に戻しているとき、清春がこっそりキスをしてきたことは想定外だった。
やきそばパン百円、ミックスジュース八十円。あれから設定金額の上限に一円も近づいていないが、清春の行動に値段はつけられないのだろうか。そもそも金額を達成すれば清春の希望報酬は終了となるのかわからないことだらけだが、ひとつだけはっきりしているのは自分がギャンブルに向いていないということ。
いつのまにか昼時をすぎ、空腹で倒れそうだとうなだれる清春を連れて、商店街にあるファーストフード店に立ち寄った。奏は夏バテで食欲がなくシェイクだけ注文し、食べ盛りの清春の支払い額は八三十円と表示されていた。カウンターに飛びついて、トレーにお金を置こうとしている手を押さえる。
「ここは私がおごろうか!」
「おごられてあげてもいいけど、俺の報酬は奏が一位取るまで有効って“約束”だからね」
そう、と言って肩を落として後ろに下がる。夏休みということもあって店内は学生らしき若者が大量に占拠して、いつもにまして賑やかだった。自分の注文を受け取って二階の窓際の席に座ると、清春は食べづらいほど近くに座る。
「質問していい?」
「どうぞ」
「なんでああいうことするの?」
シェイクを飲みながら返事を待っていると、清春もジュースを飲みながら奏をじっと見てくる。しばらく見つめ合ったまま、返事は一向に返ってこない。
「で、回答は?」
「質問は許可したけど、答えるとは言ってない」
へっ!と、ふてくされたように付け足してから顔を背け、ハンバーガーを食べはじめた。その反応が双子とそっくりで、兄弟の血の繋がりが見えた気がした。
いわゆる「男子高校生の常識」なるものにのっとり自分なりに想像すると、欲求不満解消を含んだ遊びの延長のようなもので手が出てしまうのだと思うが、今日のように外出先で行動されたり頻度が増えても困る。しかし、奏も清春が嬉しそうにするとどうしても強く抵抗できず、嫌というわけでもないからうやむやのままにしてしまう。
どうしたものかと悩み続けながら、帰宅前にいつものスーパーに寄って野菜だけカゴに入れてレジへ向かう途中、双子の片割れ、清雅に出くわした。
「奏ちゃんおかえり」
「雅くんただいま。隆くんは?」
「たぶんしんだ」
双子の口の悪さは昔から変わらない。手に持っているプラスチックラップが何らかの凶器に見えてくるほどに暴言をよく吐く。一目で兄弟だとわかる程度に顔つきは似ているが、清春をもっと軽薄にした感じで、姿勢は骨が入っていない生物のような全体的にだらっとした風貌だ。色素の薄い髪や目の色も手伝って、夜な夜な遊び回っていそうな怪しげな風体だが、無類のゲーム好きで学業以外の時間はすべてゲームに費やし、睡眠まで削っているせいで目の下のクマがすさまじい。実家に居座っているのはゲームのための節約というのも本音のうちなのだろう。双子はまた懲りずにケンカをしているらしい。
「あいつネカマして男に貢がせてたから、初心者女子高生のふりで罵ってたら逆にナンパしてきてさあ。連絡先送ってきてやんの。気持ち悪いよね。同じ女子高生としてどう思う?」
清雅が証拠画像を見せようと近寄ってきたところで、清春に腕を引っ張られ無理やりその場から離れていく。
「おい、むっつり。どこ行くんだ」
清春に引きずられながら、買い物を済ませてスーパーを出る。マンションへ戻ると、駐輪場からヘルメットを持った清隆があらわれた。面白いことに別行動している双子でも、同じ日に遭遇する率は高いのだ。服装が違うだけで清雅とまったく同じ風貌に、お揃いの睡眠不足ゲーマーの証であるクマが目立っている。
「よお、奏ちゃん」
「おかえり隆くん。……雅くんは?」
「たぶんしんだ」
奏は吹き出したが清春は一切反応せず、彼にとってはこれが日常で面白いことでもなんでもない。エレベーターに乗り込みながら清隆も片割れの文句を言い出した。
「あいつ俺のセカンド乗っ取ってアイテム装備全廃棄だよ。三日無睡で集めたユニークも全部。せめて売却しろよ。だから俺も……おいちょっと、いま俺は奏ちゃんと語り……」
今度は双子の兄を引っ張って清春たちは五階でエレベーターを降りていった。
奏は七階まで静かになったエレベーターをひとりでのぼり、もし自分に兄弟や姉妹がいたらどんな生活だろうかと妄想していた。