勝敗と参考書
期末考査で一位に返り咲くため、体育祭が終わってから奏は文字通り一日中机に張り付いていた。ひと息ついてお茶を飲みながら本棚に置いてある封印されたリーフレットをちらっと見る。順位はどうでもいいと言っていた癖に、賭けをしたからには絶対に負けたくないと、眠気をこらえて机に視線を戻す。しばらくして玄関が開く音とともに父の声が聞こえた。
「ただいま」
「おかえり。夕ご飯はいらない、よね?」
「うん、食べた」
電気のついていない玄関で声をかけると振り返った父は一瞬ぎょっとしていたが、すぐいつもの眠そうな疲れ顔に戻りあくびをしながらネクタイを緩めた。職業柄、家に帰ってこれないときもあるが、必死に働いていて何不自由なく良い学校へ入れてくれた父には感謝と尊敬しかない。父は仕事の愚痴もいっさい言わないが、娘のことで小言も言わない。注意されるようなことはしてはいないが、一応年ごろの娘に対してなんらかの注文があるのが一般的だと思うけれど、性格的なものなのか親として娘に気になるところはなにもないらしい。
「勉強してたのか?」
「うん」
「あまり無理して体壊すなよ」
いつものやさしいしゃべり方で奏の頭をひと撫でし、風呂場へと向かっていく。その言葉はそっくりそのまま父へ返したいくらいだったが、子どもから言われなくてもそんなことはわかっているだろうと相づちだけ返す。目の前を通り過ぎるとき父から変わったにおいがした。昨日帰ってこれなかったせいなのか、嗅いだことのないにおいが鼻をつく。
「洗濯物はポケットを空にして、洗濯機に入れてよ。お風呂終わったらお湯抜いて浴槽に水かけてね」
「はいはい、はいはい」
こうやって何度注意しても乾燥機のなかは細切れになったレシートが散乱してしまう。ぼうっとしている父がちゃんと脱衣所に入っていくのを見届けてから、奏は勉強を再開するため部屋へ戻っていった。
待ちに待った期末試験週間は土日を挟まない嫌な日程となった。成績順位は気にしていなくても必死に勉強する真面目な生徒が多いなか、試験時間前は完全に諦めて教科書すら開かず、夏休みの予定について話し合っている生徒もいる。もちろん奏は前者で、清春は後者だ。初日から迷った解答は数カ所あったが自己採点は上出来で、機嫌よく帰り支度をしていると清春が教科書を開いてため息をついていた。
次の日の清春はいつものようなにぎやかさがなく、友人たちともしゃべらず時間になるまで机に突っ伏して居眠りをしていた。前回の結果はただの「まぐれ」だったということもありえる。小中高とずっと成績上位をキープしてきた奏は、常勝がどれだけきついことかを知っている。強者の余裕とばかりに、落ち込む清春に遠くの席から憐れみのまなざしを向けた。
試験が終わり、すでに夏休みのことで頭がいっぱいになっている生徒に答案と全科目の点数、クラス順位や学年順位などのデータが印字された成績評価シートが渡された。上機嫌の担任教師がよくやったと褒めてくれる。教師が嬉しそうにクラス全体の結果の良さを褒めちぎっているなか、奏は自分の席で硬直したまま順位表を見つめていた。何度見返しても見間違いではなく、学年順位は一つ上がっていたが、クラス順位は二位のままだった。
清春の方をゆっくり見ると、その視線をずっと待っていたのか、すでに体ごとこっちを向いていた。目が合うと、まるで悪魔のような笑みを浮かべ、教室の外を指差して合図を送ってくる。試験中のあの落ち込んだ素ぶりはこのときのために、奏の呆然とした顔をより楽しむための演出だったのだ。敵に塩を送ったつもりが、その塩を傷口に塗り込まれるはめになった。
教室を出ていく清春のあとをついて渡り廊下まで行くと、勢いをつけて振り返り手を出した。ポケットからリーフレットを取り出し、叩きつけるようにその手に乗せる。
「いやあ、愉快、愉快」
ケケケと高らかに笑う。悪魔の笑い方というのはこういうものなのかと心にメモをする。機嫌よくリーフレットを破いて開封している悪魔をよそに、奏はお互いの成績評価シートを比較する。かなり出来は良かったと思ったが、現国が足を引っ張って負けていた。
「俺の希望報酬ってひとつにまとめた買い物じゃないから、期限は二位さんが一位さんに返り咲くまで有効ってことにしてくれない?」
「設定の八百円までならそれでもいいよ」
「しれっと値下げすんな。まあ初期設定金額は超えないから」
「じゃあいいよ。次は絶対私が一位だから」
「言質取ったからな」
ほい、と言って渡された公正証書とやらを開き、清春は奏の希望報酬を見て笑う。
「やっぱりな、参考書だったか」
「これなに?」
紙には清春の文字で大きく〈絶対服従〉と書かれていた。紙を裏返して自分の署名を確認するが、ちゃんと赤ペンで書いた奏の「か」の字が書いてある。
「なにって文字通りだよ。一位に戻るまで俺の言うこと絶対聞いてね」
「はあ? これはずるい。無効だよ、嫌だし」
「なんで? 金品限定とは言ってなかったじゃん。賭けを持ち出したのもそっちだし、ボロ負けしたら反故とか不正ってレベルじゃねぇぞ」
「でも、常識の範囲でって……」
「これが男子高校生の常識だ。わかったら手はじめに焼きそばパンとミックスジュースを買ってきたまえ。ダッシュで!」
かっこよくポーズを取っているが、どうやら売店の方角を指差しているらしい。試験で負けた悔しさとくだらない命令にあぜんとしながら、奏は大人しく売店へと歩いていく。今後清春が言うことを考えなしに承諾するのはやめようと、強く心に決めた。
夕方の強い西日がベランダを照りつけるなか、クーラーを効かせたリビングで本を読んでいるとインターホンが連打される。こんなことをする知り合いは一人しかいないが、一応モニターをつける。
「良いもの買ってきてあげたぞ」
「なに?」
「参考書」
玄関に急ぎ、鍵をあけると清春が勝手に扉を開けて入ってきた。外から入りこむ猛烈な熱気に慌てて扉を閉める。手渡されたビニール袋のなかを見ると、あのときの報酬に奏が指定していた参考書が入っていた。
「わあ、ありがとう」
「こんなもので喜ばれたのはじめて」
汗を拭きながらリビングに歩いていく清春は、夏休みに入ってから出かけた帰りに奏の家に立ち寄ったり、何がなくても頻繁に暇つぶしに来るようになっていた。清春は奏がどこへも行かず絶対に家にいると知っているからだ。奏の勉強を眺めながら間違っているところはすぐ指摘してくるから有益ではあったが邪魔してくることのほうが多い。あれからまだ命令はされてはいないが、気まぐれな性格だから何か思いつくまでは行動しないだろう。そんな心配も買いたかった参考書が手に入ったことで一瞬にして吹き飛んだ。
奏は家で勉強するかテレビを見るか本を読んでごろごろしているかで、これといって若者らしいことはしないし外へすら出ない。終業式の日にクラス全員で遊ぶ予定があることを聞いてはいたが、どのイベントも興味がわかず参加するつもりはない。
「ねえ、海とか行かないの?」
清春は奏に用事があるとき「ねえ」とか「おい」とか、適当なあだ名をつけたりして呼びかけてくる。子どものころは呼び捨てで呼んでいたはずだが、いつから名前を呼ばなくなったのか覚えていない。
「行かない、泳げない、水怖い」
「そうでした」
清春は思い出したようで指を鳴らす。奏はちいさいころに溺れて以来、水場には近寄っていない。溺れたことは清春も知ってるはずだが、長いこと遊ばなかったせいですっかり忘れていたのだろう。
「じゃあ夏休みのあいだなにするの?」
「お父さんの上司の息子が短期で家庭教師してくれるらしいから、申し込んでみようかなって」
「やめなよ。二階に住んでる巨乳の美人女子大生さんがいいんじゃない」
「それ春くんが見たいだけでしょ」
ソファを背もたれにしてもらったばかりの参考書を読んでいる奏のポニーテールを、ソファに寝そべって独占している清春がうちわで扇いで遊んでいる。
「カラオケは行く?」
クラスの集まりのひとつでカラオケの予定もあるが、もちろん行く気はない。質問は聞こえていたが参考書のつづきを読みたい気持ちが勝って、つい返事を忘れてしまった。無視をされたと思ったのか髪留めをつまんで引っ張ってくる。髪形を崩されるのを嫌がると知っていてわざと取ろうとして、奏が抵抗すればするほど清春はむきになっていく。
「やめてってば。カラオケは行かないよ」
「なんで?」
「音痴だから」
取れかかった髪留めを取って髪を結い直していると、清春は奏のスマホを掴み、素早くアンロックしてカラオケの幹事に参加希望の連絡を入れてしまった。
「おい、なにをする。なんで解除パターン知ってるの?」
「見て覚えた」
幹事の三井からすぐに「了解」の返信が届いた。奏は画面を見ながら文句を言ったが、玄関のちいさな物音を感知して急いで立ち上がった。「犬か」という清春の野次を無視して玄関へと小走りする。
帰宅した父と話しながらリビングへ戻ると、ソファで大人しく本を読んでいる清春に気づいた父が陽気な声で話しかけた。おそらく父には近所の馴染みの子にしか見えていないのだろうが、本当の清春の性根を知っているのは双子と奏くらいではないかと思っている。彼は近所でも学校でも猫を被っていて、クラスメイトへと奏とでは態度がまったく違う。
「お父さん夕飯温める?」
「まだいいや」
ビジネスバッグや解いたネクタイを両手に抱え、疲れ気味の父のあとをついていく。
「帰ります、お邪魔しました」清春が立ち上がって玄関に向かう。
「いつでもおいで。帰り道に気をつけてね」
五階にある夏目家へはエレベーターで二階降りるだけだ。父親のつまらない住人ジョークに笑いのツボが浅い奏が笑い、清春は呆れた顔をして帰っていった。
集合場所のカラオケ店前にはすでにかなりの人数が集まっていて、良く見ると別のクラスの生徒も紛れ込んでいる。連休中にあったクラスの集まりで、すでに仲良しグループが固定されているようだった。奏が日陰で立っていると、幹事の三井が声をかけてきた。
「白川さんがカラオケくるっていうからびっくりしたよ」
歌う気などさらさらないが、きっとマイクは回ってこないだろうから気配を消しつつ、体育祭同様に部屋から出てうろうろしていようと考えていた。各部屋固定というわけではないし、他の人も部屋をはしごするだろう。視界の隅で奏のことをじっと睨みつけている人物がいるが、無視して幹事の三井と話をする。
「土壇場に連絡してごめんね」
「そんなことないよ、参加してくれて嬉しい。みんなで楽しむほうが良いしね」
三井も一軍だが穏健派で、珍しく話しやすいクラスメイトのひとりだった。
「白川さんは私服になってもかわいいね」
返す言葉が見あたらず、目を丸くして驚いていると、三井はその表情を見てますます笑顔を見せる。
「みんな制服じゃないから新鮮だよねー」
今日は全員がおしゃれに気合いをいれて浮き足立っているが、奏は普通のシャツにジーンズというコメント不要な格好で社交辞令だとしてもお世辞が下手すぎる。そう思ったが三井の表情からして口からでまかせという感じではなさそうで、この人は若干ずれているのかもしれないと、深く考えるのをやめた。
奏はマイクが回って来なそうな大部屋をあえて選んだが、三井の粋な計らいにより結局歌わされてしまった。笑いを提供できるようなような、面白みのある音痴であれば良かったのだが、奏の場合、極端に音域が狭すぎることと抑揚がないことで読経ボイスと笑われた過去がある。室内が不穏な空気になったところで、三井が「解脱できそう」と言って周りを和ませていた。見事に恥をさらしたがこれで二度とカラオケには呼ばれないだろうし、クラスの一員としての役目は十分果たしたはずだ。
数時間の苦行の末、ようやく解散となりみんなでファミレスへ行く流れであったが、もちろん奏は帰るためひとり駅に向かう。歩いていると、ファミレス組だと思っていた清春が小走りでついてきた。
「おいこらファザコン、俺からの連絡くらいチェックしろ。スマホ依存は若者の嗜みぞ」
「唐突に失礼だな」
出かける前に新着メッセージがあることには気づいていたが、面倒臭さからアプリ起動スルーをした。清春からの命令があったとしても、未読なのだから仕方ない。という言い訳もちゃんと用意している。改札を抜けホームへ出て、利用客のあいだを縫うように歩き、自分たちが降りる駅の改札に一番近い位置まで移動する。歩きながら清春が画像を見せてきた。
「見てこれ、体育祭のときのもらった」
「へえ、本当に送ってくれたんだ」
思った通り、転びそうになって慌てている奏と、良い表情をした清春が手を繋いで走っている写真だった。自分の顔は予想通り間抜けだが雰囲気は楽しそうで悪くない。画像をよく見ようとのぞきこんだときに腕と腕が触れて、清春はすこし体を引いた。ホームの注意アナウンスが鳴り、電車がホームに滑り込んでくるのを待っていると、清春がこっちを見ていることに気づく。
「なに?」
「花火大会行かない?」
「それは私に拒否権ある?」
「ない。浴衣も着てね」
清春はきりっとした顔で言い放ち、奏は不満であるという顔を見せた。
「浴衣持ってない」
「じゃあ、一緒に買いに行こう」
母親がいたらもしかしたら夏がくるたびに何度も袖を通していたかもしれないが、女の子らしいものに手を出す習慣がないせいで、浴衣というイベント着は完全に未知の領域だ。どうせ渋ったところで強制的に連れていかれるのだからしかたないと思いながら、電車に乗り込み空席を見つけて二人並んで座る。隣に座った清春とふたたび腕が触れたが、今度は離れなかった。