賭けと体育祭
高校一年次、クラス順位一位をキープしていた白川奏は、二年に上がって最初の中間考査で二位に落ちた。新しいクラス一位は、今まで学年順位十位以内にもいなかったが、クラストップになるとともに二年で一気に学年順位をあげて担任教師を喜ばせた。一位を取った人に対して妬む気持ちはなかったが、別々に暮らしている母親に自分の成績順位がさがったことをどうやって報告すべきか頭を悩ませていた。
十歳のころに両親は離婚し、家を出て行った母親を喜ばせてあげられることは「学業成績」しかなかった。離婚当初は家に母親がいないことに違和感を覚えたが半年もかからずその感覚は消え、高校生にもなると試験のこと以外に話題もなくなっていった。両親は若いうちに結婚をしたが、二人とも仕事人間で結婚当初からすれ違いずっと不和がつづいていたと父は言っていた。そんなことを子どもに正直に説明する父親はきっと薄情な人なのだと奏なりに思ったが、母親は奏の見た目は母似だが、性格は父親そっくりだと何かの拍子にこぼした。
現在、母親には新しい家庭があって直接会うことはほとんどない。生活をともにしていないから共有の話題がなくなって面倒臭さから既読放置をすることが増えていったら、母親からはそれまで以上の量の連絡が頻繁に届くようになり余計面倒ごとが増えてしまった。それ以降、学業成績が良いという連絡を逐一入れることで、こちらも充実しているのだというビジネス的報告をして安心をさせている。今回のメッセージにはクラス二位だったことは伏せ、あがった学年順位だけを報告した。
家に帰る前、マンションのすぐ側にあるスーパーで夕食の買い物をしていると、後ろから髪の毛がツンと引っ張られた。ポニーテールが崩れるからやめるよう何度注意してもやめない、現在のクラス一位、夏目清春が立っていた。色素が薄くクセのない髪に人好きのする笑顔、高校生活を満喫するのに苦労しないであろう容姿を持った、いわゆるスクールカースト上位者である。
「オッス、二位さん」
夏目家も父子家庭だが、うえに双子の兄がいる三人兄弟で母親とは死別している。同じマンションに住んでいて小学校から高校までずっと一緒だが、高校二年になるまで一度も同じクラスになったことはない。それでも、子どものころは家族ぐるみで仲良くしていたから一緒に旅行へ行くことも頻繁にあったし、近くの公園やお互いの家でも毎日のように遊んでいたが、夏目家でいろいろあってからは交流が減り、たまに顔を合わせたときに話す程度になった。高校で同じクラスになってからは、共通の話題も増えたせいか昔のような仲に自然と戻っていった。
「俺に負けて悔しい?」
「べつに」
成績順位にこだわっているわけではなく、本当に負けたことはどうでも良かった。学生時代の母は常に成績トップで優秀だったと聞かされていたから、あなたの娘も頑張っていますよ、という親孝行アピールが目的なだけだ。
朝、出かけに足りないものを急いで書き出した、自分でも読めない文字で書かれたメモを解読しながら、買い物カゴに食材を入れていく。清春も一緒に歩きながら菓子パンに手を伸ばす。
「奪還するから平気だよ」
「やっぱ悔しいんじゃん」
こだわってなどない、と思いながらも実際に「敗北」を強調して突きつけられると取り返したくなるのは一年次に築いた連続一位の自負がすこしはあったからだろう。一位を取りつづけるのは簡単ではないが、奏はいまのところ勉強以外になにも興味がない。
「春くんが順位にこだわるとは思わなかったな」
順位表の成績上位陣はだいたい記憶していて、清春の名前もときどきは見かけていたが、点数にこだわるような人ではないと思っていた。頭が良くてとても器用だから、良い順位をキープしつつも目立ちすぎず、学生生活を楽しみながらいつも飄々としていてる。
「双子とゲーム中にヒートアップしてゲーム機本体壊しちゃってさ、成績上げたら最新買ってもいいって言うから」
たったそれだけの理由でクラス一位、単純な物欲に負けた、しかもゲーム、という事実が頭のなかでぐるぐると周り、奏はショックを通り越して無表情になった。レジを終えて買ったものを袋に詰めていると、清春がサッカー台に身を乗り出し、奏の顔をのぞきこみながら言う。
「勉強方法教えてあげようか?」
「コツとかあるの?」
清春を見上げる奏の目が輝く。あれだけ一気に順位をあげたのなら秘訣があるはず。自分と違う勉強法があるなら知っておいても損はない。その奏の顔を満足そうにながめ、
「タダでは教えられねぇな」
と、両腕を組み、背筋をのばし仰け反って奏を見下ろしてきた。普通にしていても身長差があるのに、ここぞとばかりにそれを見せつけてくる。買った菓子パンを食べながら、笑いをこらえきれずくすくすと笑い声を漏らしている。昔はとても素直で良い子だったのに、双子の兄たちに影響されて清春も性格が歪んできているのかもしれない。
「……もういいよ、自力で一位取れるから」
「言うね、だが本気を出した俺には勝てんよ」
「じゃあ賭ける?」
「のった」
奏が立てた人差指に、清春がにっと笑って奏の指にクロスするように指をかけた。
「ほしいものリストめっちゃあるわ」
「ゲームソフトとか高額なの駄目だからね、上限は千六五十円まで」
言うが早いか大きな舌打ちが横で聞こえた。最新ゲーム機に買い換えれば新しいゲームソフトが欲しくなるはず、というのは察しがついた。賭けた物が最初からわかったら面白くない、という清春の申し出を受け入れ、報酬の公表は結果発表後となった。清春がカバンからノートを引っ張り出して無造作に破る。
「しかし、やけに具体的な金額設定だな……あっ、それ次に買おうとしている参考書の値段だろ」
「常識の範囲で」
「わかった、常識ね」
お互いの署名を入れた公正証書という名のノートの切れ端に、それぞれの希望の報酬を書き込む。ちいさく折り畳んでスーパーのリーフレットに挟み、テープで封を施す。開封は答案返却日に決定した。
放課後は体育祭の準備で、クラスはお祭りモードになっていた。クラス一軍所属の清春はクラスメイトとはしゃぎながら廊下で作業をしている。性格に難ありでも一芸に秀でているものは特に所属軍がなくても学校生活ではなんら支障はなく、そのうちの一人である奏もカースト外の傭兵タイプとなり、今回は三軍チームに混じって教室の片隅でただひたすらに横断幕をぬりつづけていた。
美術部員が下書きしてくれた線のなかを、指定された通りの色を使って丁寧に筆を走らせる。教室内で別の作業をしてるはずの一軍が遊んでいたボールが奏の方に飛んできた。ボールは絵の具入れに軽く当たり、体操着に絵の具が飛び散ったが奏は気にせず色ぬりをつづける。
「ごめーん」
謝りに来た数人のクラスメイトを一瞥して、「大丈夫」と一言言って色塗り作業に戻る。単純作業が好きな奏は色塗りに集中していただけだったが、クラスメイト側からすると奏のちいさな返事はにぎやかな教室の騒音にかき消されてしまい、無言で不機嫌に睨みつけたとしか見えなかった。
「白川さんって案外怖い人だね」
「頭いいから遊んでる俺らと会話したくないんじゃね?」
「そのいつも遊んでる清春にテストで負けてたけどね」
クラスメイトのひそひそしているつもりの話はしっかりと聞こえていたが気づかない振りをして、奏は横断幕を完璧に塗りあげた。手についた絵の具を落としに水道へ向かうと、廊下で作業している清春たちの班はまだ遊んでいた。
肌に色が染みついてしまった絵具はなかなか落ちなくて、たわしでごしごしと強く擦る。まだすこし手が青いが諦めて教室に戻り、制服に着替えて帰ろうとすると、さっきのボール遊びをしていたひとりである長谷が声をかけてくる。面倒見が良く男女から人気があって、クラスでも常に中心にいるタイプだ。
「帰るの?」
「うん、作業終わった」
奏が担当となっていた横断幕は塗り終わり、片付けもしてあとは乾かすだけとなってやることはもうない。長谷は、帰ろうとしている奏と他の三軍を見渡してから言う。
「他の人手伝うとかどう?」
奏は長谷の手元にある先ほど飛んできたボールと、彼らの班の作業進行度合いを見て眉をひそめた。ボール遊びをしなければ順調に進行していると思うのだが、いまそれを言えば多分この人たちは怒るだろう。奏はそこで反抗するほどの根性もなく、空気を読んで生き延びる事なかれ主義だった。
「じゃあ、あっち手伝ってくる」
そう言って今度は二軍の手伝いをはじめ、奏と長谷の会話を聞いていた自分の作業を終えた三軍チームも、黙って他の人を手伝いはじめた。ボール遊びをしていたメンバーはクラスTシャツのデザイン担当だが、全く作業が進んでいない。早く帰りたいと思いながらも、応援うちわにモールを貼りつける作業は思いの外楽しめたのだった。
運動音痴の奏は体育の授業すら嫌いなのに、体育祭という地獄のような熱血イベントのことを考えて憂鬱になっていた。あの学生特有の盛り上がりについて行ける元気はないが、席でだらだらしてクラスメイトに白い目で見られても平気なほど神経は図太くない。自分の参加種目の時間になるまで、どこに隠れていようかと今から模索する。
体育祭当日の学校はいつもより元気な生徒たちの声で賑わっていた。開会式を済ませたあと、個人種目と自分が参加している大縄跳びの番まで校内をうろついて時間をつぶす。奏と同様に目的なさそうに歩いていたり、ベンチに座っている生徒を見かけるがおそらく彼らも同じく祭ムードが嫌いな同志たちだろう。校庭の方から歓声が波のように聞こえてくる。仕事中の教師が野良の生徒を見つけてはクラスの応援に参加するよう注意をしているが、この学校は生徒の自立を促すおおらかな校風で注意はすれど強要はしない。
「おいチビ、こんなところに隠れていたのか。探してたんだけど」
中庭を歩いていたところで、飲み物を買いに来ていた清春が駆け寄ってくる。一緒にいるグループはクラスメイト以外に他のクラスの生徒まで混じっている。一軍中の一軍ともなるとクラスの垣根はなくなるようだ。グループは立ち止まって奏と話をしている清春に声をかけてから、ふたたびだらだらと歩きながら校庭へと戻っていった。
「なに?」
「借り物競走。見つからないから三島先生連れて行ったわ」
借り物競走は息抜き枠の競技だからネタも多いから、奏を特徴で選ぶなら、低身長、ポニーテール、ガリ勉、の三つくらいだろう。三島先生は男性の養護教諭で、成人男性の平均身長を大幅に下回る低身長だ。題目は「背の低い人」だろうと名推理を披露しようとしたところで、急に清春が大声をあげた。
「あれ、卒アルのカメラマンだ。撮ってもらおうぜ」
カメラを持った見知らぬ大人が腕章をつけて校内を歩いていた。清春に手を掴まれものすごい勢いで引っ張られていく。運動音痴の筋力では突発的な行動には対応できず転びそうになるが、それに気づいた清春が手を引き上げて支えてくれる。呼び止められたカメラマンは歩みを止めて、駆け寄ってくる二人にレンズを向けて早速写真を撮っている。身だしなみを整える時間ももらえず、手を引っ張られているところを撮られたが、変な顔にはなってないだろうかと気になった。
「俺ら二年なんでその写真は俺宛てでください。お願いします」
「抜け目ないなあ」
本来、撮影は三年生を対象にしているのだろうが、いきなり軽いノリで懐く清春のペースにカメラマンも自然と巻き込まれていた。やっと手を離された奏は、そのままカメラマンと雑談をつづけている清春を置いて、昼ご飯を食べに食堂へ向かう。
昼休みは山菜そばを食べて、午後から始まる競技を適当に応援しつつ、奏が参加しなくてはならない大縄跳びに備える。席にもどると長谷が奏に気づき声をかけてきた。
「さっきずっと清春が探してたよ」
「うん、本人に会って聞いた」
同じ質問を他人からされても返事はそれくらいしかできない。メガホンをたたきながら、その先の会話を待っていたが長谷はそれ以上何も言わず視線を逸らした。運営のスピーカーから延々と聞こえる声も、知らないはやりの音楽も、叫びつづけているクラスメイトの声もすでに聞き飽きた。早く時間が過ぎないかと、ただそれだけを思いながら修行のようにメガホンをたたく。大縄跳びで大失態をさらすことなく無事クリアし、閉会式まで奏はふたたび校内へと行方をくらました。