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人の亡くなる表現、虐待表現があるので苦手な方は回避をお願いいたします。
朝日が色付く前。まだ空気の中の水分と光の精霊達がキラキラとダンスを踊っている時間。
いつも通り、サシャがみんなが起きだす前に井戸水を汲んで顔を洗って居ると、いつの間にか役職付きだから恐らくは中央棟で暮らしている筈のルルが後ろに立っていた。
ここは水魔道が完備された貴族棟に近い外の井戸だから使う人は少ない。だから井戸を使いたいから待ってる訳ではないだろう。
普段からルルは突然現れるし、何を考えているかその無表情から読み取れないけど、多分昨日のお小言の続きだ。
「ルル、おはようございます」
ボロボロの手布で顔を拭いて挨拶をする。洗ったばかりの顔は汚れてないけれど、多分ルルは見慣れているから大丈夫なはず。
サシャの顔は大人達に嫌われている。
普段は無視している癖にサシャの素顔を見ると大人達はみんな凝視したあと目を大きく見開き、そのまま視線を反らす位には嫌われている。姫様なんて、罵詈雑言を投げつけてくる位には嫌がっているし、前なんて塞がりかけた傷をグリグリされたっけ。
だからサシャはいつも汚して隠してる。出来れば前髪も伸ばして隠したいけど姫様に切られるから叶わない。
銀色の髪の毛と同じ銀色の睫に縁取られたぱっちり二重に紫色の瞳。小さな顔にバランス良く配置された各パーツ。かなり痩せてはいるが前世では超は付かなくてもそこそこ美型だと思っていた顔は、毎日見ている自分の感性ではわからないけれど多分この世界の美醜の範囲でヤバい顔をしているんだと思う。
そんなサシャの素顔をルルは知っている。ちょっとした立ちくらみから怪我で死にかけたりする度に助けてもらったから。そしてルルに頭が上がらないサシャの出来上がり。
だから嫌だなとか面倒くさいなとか思いつつも説教臭い話を聞いてしまう。
大人達がみんなサシャを見て見ぬふりをする神殿の中で、図書館のお爺ちゃんとルルだけは大人なのにそこに居るサシャをちゃんと見てくれる。あぁ、あと、姫様とその侍女さん達も。
「昨夜、姫様が倒れられました。恐らく盛られた毒に耐性がないものがあったのでしょう。あと半時も持ちません」
街から離れた神殿の中庭に風が走る。夜を謳歌した虫達の歌声から自由を歌う小鳥達のさえずりに変わっていく。
静かに押し出されたルルの言葉が一瞬わからなかった。
「姫様の終に立ち会いますか?」
ゆっくりジワジワと染み込んでくる『終』という言葉に、悲しさは感じない。
ああ、そうなんだねって感想しか持てない自分の非情さに嫌悪は湧いて来るけれど。
「……邪魔でしょ?」
姫様はサシャが嫌いだった。神殿の他の人みたいに無視はしないけど、心底嫌っていた。
「侍女達は終の間近とわかるや否や荷物を纏めて出ていきました。今、姫様は一人です」
ルルの言葉に、サシャは姫様らしい最後だなって思った。多分、もう自分が持たないと感じ悪態をついて侍女達に悪態と共に暇を出し追い出したんだ。
自慢じゃないが姫様が本気で本当の感情を押し出して怒るのも泣くのもサシャが相手の時だけだから。
「……一人じゃ寂しいかな?」
「優しいですね。行きますか?」
ルルは姫様がサシャに何もしなかった事を知っている少ない大人の一人だ。
朝日が作る長い影の中、尖った耳を少し垂らしたルルがその手をサシャに差し出し、幼児相手のようなその手をサシャは握り返した。
だって一人でいくのは怖いもの。
「優しいとは違うかな。ちゃんとして置きたいだけ」
ルルの足音はしないのに、コツリ、コッツリと歩くサシャの足音だけが静かに響く。冷たい空気が満ちた貴族棟の長い廊下をルルに手を引かれ歩くのは何年振りか。いつも泣きながら手を引かれていた事しか覚えてないけれど。
「そんなに急いで大人にならなくていいんですよ?」
耳を垂らし優しい言葉を吐くルルが居る時はよっぽどの時だ。
貴族棟の最奥、いつもなら騎士が二人立つ姫様の部屋の両開きの扉がルルの魔法でサシャを招き入れる様に開いた。
内から出さない為の護衛が今は居ない。公爵だか伯爵だか知らないが姫様の実家に姫様の最後を伝えに行ったのだろう。気の早い事だ。
「でも大人にならないと死んじゃう」
神殿で暮らす内に悟った真実だ。この世界の子供の死亡率は非常に高い。孤児の死亡率はさらに跳ね上がる位に高い。
カーテンが引かれたままで薄暗いとはいえ、以前は沢山の装飾品が飾られた室内は殆ど物が無くなっていた。一部荒らされた後のように床に紙が散らばっている所も見受けられる。右側の侍女部屋の扉は開きっぱなしになっていて中に主も物も何もない事を主張している。
唯一人の気配がする先を見れば一番奥の主寝室の扉から淡い光が漏れ出ている。
「そうですね」
幼い頃は出入りしていた主寝室に進み入ると、昔から変わらぬ姫様らしい豪奢なベッド。その周りを囲む神官と治療師がルルが来たのに気が付くと頭を下げ場所を譲った。
「下がれ。これからの事は他言無用だ」
ルルの声とドアが閉まる音に目の前の人に視線が釘付けだった事に気が付く。
淡い灯りの中、あんなに傲慢で優雅で美しかった姫様が、いつまでも10代にしか見えなかった姫様が、いつものベッドの上、艶の無い薄茶の髪を乱し、その面影だけは読み取れる枯れ木の様な老婆になっていた。
これは毒だけでない。
昨日の水くみの時、王都からの手紙に膨らむふくよかな頬をサシャは見た。
しかも今、目の前で悪寒を感じるような恐ろしい渦巻く呪文が姫様に絡み付いている。多分呪い返しの様な物もあるんだろう。
姫様が過去に何をしたのかサシャは知らない。でも姫様はこの神殿で大人から無視される子供のサシャも気が付く位に忌み嫌われていた。腫れ物扱いだった。市中に働きに出て、この王国最北の地にある神殿に現国王と元聖女である現王妃に害をなし、更に優秀な官僚や騎士、他国の王族を誑かして国庫を食い潰し、国中から忌み嫌われたお貴族様が居るという噂を聞いた。
犯した罪の重さに身分だけでなく魔術で名前さえも奪われ『姫様』という名称のみを残された元高貴なお姫様。
一歩ベッドに進み寄るサシャに、既にここでは無いところを見つめていた水分を失った、青い瞳が向けられる。
「……母、様」
サシャが彼女から唯一本当の感情をぶつけられ、また神殿の大人達から無視される大元の理由。
今まで一度も口にしたことはない。
幽閉中のお姫様は身籠らないし、赤子を産み落とすことはない。そんな赤子は存在しないから。
「……ャ……ご、め……さ……ね」
サシャがやっと絞り出した最初で最後の親愛の名は何に対してかわからない詫びの一言に包まれ、そして最後に姫様と呼ばれた人の全てが音を失った。
◇◇◇
姫様が冷たくなってからルルは室外の神官と治療師を呼んでいた。
涙の一滴も出ないまま、いつの間にかベッドの横に縋っていたサシャは立ち上がろうとしてふらついた所までしか覚えていない。
気が付けば見慣れた天井のルルの治療院のベッドに寝かせられていた。
「目が覚めましたか?」
「ここ、久しぶり。……もう昼前かな」
こんな時なのにお腹の空き具合と日の高さから朝の食事の時間は過ぎているのがわかった。きっとロイとアレクが心配しているだろう。
「穢れが酷かったのですが先ほど埋葬が終わりました。葬儀も、埋葬の立ち会いもないまま集団墓地に埋葬しました。このまま墓石に名前を入れることもありません」
「まだ半日も経たないのに?まるで……あ……」
罪人の様な扱いだと思いつつ、ああ、姫様は罪人だったんだと思い出す。まるで前世に読んだラノベの断罪後の幽閉された悪役令嬢そのままだなんて思ったのは前世の記憶を得たほんの数年前。
「私、やっと自由になれるかな?」
涙さえ流さない子供をどんな目で見ているのかと思うとサシャはルルを見上げる事は出来なかった。ルルを無表情なんて馬鹿に出来ない。
2度目の人生でなくたってわかる。
ルルは耳を垂らし目一杯悲しんでいた。
なのにサシャは涙も流さないで食事を食べられなかった事を気にしたり、自分の未来を気にしたりする。
人でなしはサシャの方だ。
「私は酷い大人ですから、はっきりとお話しますが、恐らくその願いは叶わないでしょう。あなたは姫様の罪をそのまま背負い、その存在を隠し、ここから一生出られない。また、運良く出て行けたとしても姫様との事が知れればあなたは確実にこの国の人々の憎しみの標的となるでしょう」
サシャの2年後の人生予定がグラグラ揺らいで崩れていく。
わかっていた。
悪役令嬢は嫌われて断罪され舞台を去っても罰を与えられ嫌われ続ける。お話は終わっても人生は終わらない。そして罪人で嫌われ者の血を引く子は歓迎されない。地下牢での幽閉中に生まれてしまった、幾多の相手のどれかもわからぬ父親を持つ不義の子は存在自体が不浄とされた。
でも夢を見たかった。せめて2年後までくらいは。
居ない筈の赤子に自由はない。だってそもそも居ないんだから。
「そんなんだったら、死にかけた時、見捨てて欲しかった。空を知った鳥は飛びたいに決まってるじゃない」
数年前、前世の記憶を得た時の怪我は一ヶ月以上サシャを蝕んだ。未だに何かを感じると身体の動きがぎこち無い。精霊の祝福とルルは祝ってくれたが、やっと動けるようになった頃、姫様から気持ち悪いと塞がりきっていなかった傷痕を再びグリグリグチャグチャにされて更に二ヶ月サシャは高熱と痛みにベッドの上から動けなくなった。
ルルが付きっきりで看病してくれなければ今ここにサシャは居なかった。
「飛ぶことも知らぬままでは可哀想だと神官長がお目溢しして下さったのです。あなたの立場なら感謝こそすれ、恨んではいけません。残りの2年、大切に過ごしなさい」
先ほど崩れた2年後の未来までの準備期間であった2年間がサシャにとって残された本当の自由だと言われても感謝なんてできない。恨みもしないけど。
「まだ身体が辛いのでは?銀の髪に紫の瞳の貴色を纏い、精霊の噛み跡さえ持つあなたは穢れに非常に弱い。私の治癒魔法もあなただけは癒せない。もう少しこのままで居なさい」
きつい口調であってもルルの尖った耳が今日は朝から垂れている。私がここに居たら彼の方がきっと辛い筈。
多分ルルは昔は悪役令嬢の取り巻きの一人だったんだろうなとなんとなくそう思うから。
「嫌。もう一人になりたい」
サシャはふらつく足を叱咤しつつ、何時もは闇夜に紛れて忍び込む中央棟の図書館へまだ明るい内から潜り込んだ。
あのグリグリグチャグチャ事件からサシャは寝床に中央棟の図書館を選んだ。大多数の大人はサシャを無視するが、害を与えるわけではない。
邪魔にならなければ放置してくれる。図書館は本の為に魔術で一年中気温も湿度も光量も一定になっていたし、時間を潰せる本も沢山ある。奥の奥、専門書ばかりの誰も立ち寄らないエリアの備え付けの読書スペースに薄い肌掛けだけ持ち込めれば十分に幸せで優しい空間だった。
姫様は多分どこかの高貴な、上から数えた方が早い位には偉いお貴族様のお姫様だなっていうのは記憶が戻る前の子供心にも早い内に予想がついた。
元々、他人の子供を預かったかの様な扱いをする人だった。それでもその頃は、侍女が面倒をみてくれたし、食事も与えられていた。
けれど4歳の誕生日の頃だったか。サシャの髪が銀色に、瞳が紫色に固定した頃から姫様は急にサシャを罵倒する様になっていた。
いつもお腹がすいていた。いつもボロボロの汚れた服を着て貴族棟の庭にいた。
小さな頃はどこからか送られてきた菓子を口にし、自分の為に誂えられたと思えるような白い服に袖を通す事もできたが、その頃を境に、孤児院へと流れ着き、周りの巫女見習いや孤児達のおこぼれやお下がりを得て生きるしかなくなった。
サシャに何もしなくなった姫様は、けれどサシャの存在だけは認めていた様でサシャが嫌がる事だけはしばしば押し付けてきた。『まだ、生きてましたのね?』と。
姫様が居なくなれば水くみ当番は自分の日だけでいいのに、とか髪を無茶苦茶に切られる事はないのに、とかずっと思っていたのに、何故かポロリポロリと溢れはじめた涙は止まらなかった。
「あれ?なんで……」
「泣いていいのです」
いつもの図書館で眠る時に一緒に勉強を教えてくれている、多分司書さんかなと思っている優しいお爺ちゃん神官さんがいつの間にかやってきて、頭を撫でて、ぎゅっと抱きしめてくれた。
前世の記憶があったって異世界なんかじゃ常識も価値観も違うから殆ど使い物にならない。事務職で培った計算力と大人だった経験からくる子供っぽくない落ち着きしかサシャにはない。よくある異世界転生のオマケみたいな特殊能力や特技もない。しかも記憶も朧で本の中の物語を見ているようなそんな記憶の世界の知識なんて活かせる術が見つからない。
ルルの様に癒やしの魔術が使えたなら、お爺ちゃんみたい知識が沢山あったなら、あの姫様とこんな別れ方をする事もなかったのかもしれない。
一緒に居れたのはほんの数年の中のほんの数分。
お爺ちゃんが優しく頭を撫でてくれる。
まだ私は頑張れる。
昔、姫様にグリグリされた傷が痛む。
痛いって事は生きている。
前世の最後は事故だったのに痛くなかったもんね。
今日だけ、今日だけはちょっとしんみりしたら、明日はちゃんと起きて食事をして、孤児院の子供達に紛れて、また街に働きに出るの……。
◇◇◇
うとうと眠りだしたサシャをそのまま寝かしつけ、薄い肌掛けの上から自身の刺繍が美しい上着を掛け立ち上がったウィリアムが白髪の老神官姿のまま図書館から出るとその周りを護衛神官と上級神官と補佐神官達が取り囲んだ。
「ルミエールをここに」
「はっ」
十数年前、魔術師団副団長という役職を投げ捨て王都から逃げる様にやってきた優秀な魔術師の名を告げると補佐官が治療院へとかけていく。
こんな時に思い出に浸らせてやれる程、神殿は優しくはない。
「どうしましたか?」
不安そうな表情の上級神官達に声をかけてやる。
「中央神殿から使者がまいりました」
「昨夜、王都が帝国に攻められたとのことです」
「今朝、国王様と王妃様が己の身の安全と引き換えに皇帝に国を受け渡したそうです」
次々と緊急の連絡事項が伝えられるが、全てが先ほどサシャを慰める前に既に副神官長から水鏡で伝えられている内容だ。
通常の神殿の伝達網でこのタイミングなら転送術が規制されたとしてもこの田舎街にも夕方には国の一大事の話が伝わってくるだろう。
「そうですか。中央神殿にはこれから向うと伝えてください。神殿の転送陣は戦争時でも魔術条約で規制外となりますから安心してください」
出来るだけ穏やかに優しく語りかければ、皆の心音も呼吸も落ち着きを取り戻す。
「みなさん。これはこれから中央神殿で発表される事なのでまだ口外禁止ですが、この国は帝国領土の一部または帝国の配下として新たな地位を得ることになるでしょう。そして神殿は新しい王に、皇帝陛下に全面的に協力します。これは王国内全神殿での1年前からの決定事項です」
数年前から準備されていた、これから中央神殿で本当に正式に発表される内容だ。だが、発表前だからこそ、ここであえてウィリアムの口から情報を流して置く必要がある。
人は余程の決意を持つ者でなければ秘密を維持できない生き物だ。
ある意味、最北の僻地であるここは今宵最前線に変わっていくだろう。王国内神殿のトップとなる中央神殿の神官長でなければウィリアムもこの地に残りたい。
けれど、それぞれが背負ったそれぞれの責任と、それぞれしか出来ない事柄がある。
「まさか、先代の聖女様が先見をなさっていたのですか?!」
今後の指針について、激しい驚きの中にも安堵する気配を感じウィリアムは祈りの儀式の時の様に優しく笑い頷いた。
先代も何も、今の自称元聖女様に先見をする力はない。昔も今も先見が出来るのは中央神殿にいらっしゃる御方のみと腹の底でのみ笑う。
「ルミエール」
「はい」
ウィリアムを取り囲む人の和の中に美しい青い髪の人物がやってきたのを確認し、呼び寄せる。人より長寿で博識と言われるハイエルフも神殿の中ではその特徴的な耳を隠したいらしい。
「話はどこまで?」
「先ほど古い知人から魔術転写が届きました。私も国王が国を売った所まで内容はほぼ同じ様です」
「そう。貴方も早々で辛いでしょうが、小鳥から決して目を離さぬように。それから、前アシュリー卿ルドルフが運良く先週から孤児院の院長をしてます。まだ挨拶も出来てないと言ってましたし、早い内に顔合わせをしてください」
ウィリアムとルミエールの古い知人の一人がこの地に居る事を伝えると、上級神官達の更なる安堵の吐息より、久しぶりに見たルミエールの驚きの顔の方がおもしろかった。
「私は中央神殿に戻ります。私が居ない間は、本来の神殿長ルミエールに従う様に」
そう伝えると神官長ウィリアムは老いた姿を白髪はそのままに本来の壮年の姿に変え、頭を下げた皆をそのままに転移陣の間へと向かい歩きはじめた。