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虐待表現ありますので苦手な方は回避をお願いいたします。
あと四半時、早く行かなければ!と焦ってしまったのが裏目に出た様だった。
「サシャ、髪はどうしました?」
ピタリと止めたサシャの足元。赤味を増した夕日の差し込む神殿内を繋ぐ長い渡り廊下に、細い影が伸びてきていた。
低く響く声にこの耳の先が尖った独特の型の影の主をサシャは知ってる。よーく知ってる。
背中に冷や汗が流れる。
(今は!本当に!急いでいるの!!)
サシャが恐る恐る顔を上げたそこには、サシャができるだけ……出来れば今日だけでも会わないよう極力気を付けていた冷徹陰険眼鏡ハイエルフが眼鏡をキラリと光らせた。これは話が長くなるヤツだわ。
「……めんどくさ……」
思わず本音がただ漏れる。
「また姫様に売られてしまったんですね。可哀想に」
目の前でサシャを見下ろすのは夕日が映える白く薄い上品な布を何枚も重ねた袖と裾の長い衣装を着た美しく背の高い年齢不詳のハイエルフ。
彼の役職はこの神殿の治療師長らしい。長とつくのだから多分……じゃなくても偉い人だ。
夏の抜けるような青さの空が溶け込んだ長い髪を一つに纏め、冬の明け方の夜空の様な冷たい瞳で仕事をこなす男と噂になっていて、巫女や巫女見習いの中では大人気らしいがサシャにはその好みがイマイチよくわからない。無表情は苦手だ。対応に遅れを取りやすいから。
ちなみに、煤汚れ既に黒に限りなく近い灰色にしか見えない一枚の質素な布でできた当て布の補修だらけのワンピースを着る少女である自分はこの神殿の最下層の孤児として日々を暮らす。
神様と同じ位に自分から掛け離れたお偉いさんに全く感情の乗らない表情や口調で同情されても腹の足しにもならない。
思いやりかもしれないが、時間の無駄だ。
「……別にいいよ、髪はそのうち伸びるし」
つい先程、無理矢理押さえつけられ、切られた炭で汚れた髪は、長い所でも肩の辺りまでの長さしかなく、さらにガタガタだ。でも昔みたいにサシャの小指の長さに満たないほどの短さではないから後で器用なアレクに揃えて貰えばいい。
やっと女の子らしく見える位には伸びていたのにと落ち込む位には自分自身で状況もわかってる。でも、前みたいに何日もまともに動けなくなるような怪我をするよりはマシだ。
動けなくなれば食いっぱぐれる。
「サシャの髪色は特別なのです。そんなに簡単に市中に流して良いものではありません。なにより……」
ゴーンゴーンゴーン……。
治療師長様のお言葉を中央棟の時計台の大きな鐘の音が遮った。同時にぐぅぅぅおおおぉ〜と鐘が鳴るのに合わせてサシャの腹も鳴り響いた。
「あ!食事の時間!!今日は水くみもあったし朝も食べられなかったの。じぁね、ルル!!」
「待ちなさい!また、水くみの当番を姫様の侍女に押し付けられたのですか?こら、サシャ、まだ話の途中……」
「ほら、これ以上痩せたらまた大変になっちゃうでしょ?食事は待ってくれないから、またね!」
姿や生活は貧しくとも彼の名前を呼べる位には一応、サシャのこの神殿での身分は高いらしい。とはいえ生活に益を与えぬ身分なんてただの足枷だ。以前はこの貴族や豪商の子弟が穏やかに神に使える為に暮らす通称貴族棟に住んでいた私は、食べるに事欠くようになって、中央棟を挟んで反対側、一般の孤児達の部屋に紛れ込んで暮らすようになった。
孤児であれば外出着を与えられ外に出て労働作業に参加できる。外で働けば昼にも食事が食べられる。
そもそもサシャは死にかけてから朧ながらも前世での異世界の大人の記憶があるお陰で仕事も生活もそこそこに出来る。極普通のOLで、普通に通勤途中の事故で亡くなったっぽいから特技や特殊能力とかは無いけれど、聡い子と褒められ魔法もそこそこ器用に使えるから外の仕事では重用していただいている。
多分、『前』は20代前半で死亡し異世界転生したらしいサシャはまだ保護が必要な10歳という年齢の為に親権者が居るらしいここで暮らさざるを得ないだけ。
あと2年。12歳になれば神殿が後見人になってくれて見習いとして外で生活しながら正式に仕事もできる。15歳になれば後見人も不要になって、自分の意思で結婚もできる、完全に大人になれる。
12歳の春になったら孤児棟の子供達に紛れ込んでここを出る。若干、体型と髪型から男の子と間違われている気もしないでもないが、孤児にしては高いと言われる前世の事務職で身に付けた計算力と諸事情で寝床にしている中央棟の図書館で身につけたこの世界の知識で孤児院を出たらうちで働きな!と声を掛けて頂いてる商会もいくつかある。
あと2年我慢して。ここを出たら頑張って働いて。前世のラノベでよくあった設定そのままに、ちょっとだけ前世の記憶がある普通の女の子として異世界スローライフなるものを楽しむ。逆ハーとかイケメンとかそんな贅沢要らない、要らない。
毎日この世界の美しい景色がみれて、美味しい物を食べられればそれだけで幸せ。今はその為の我慢。我慢。
ルルに手を振りサシャは一目散に駆け出した。
ここは孤児院の食堂から一番遠い貴族棟から中央棟への渡り廊下だ。ここからこの神殿で一番大きい中央棟を通り抜け、中央棟から孤児院までの渡り廊下を進み、孤児院の一番端の食堂まで歩いていったら食事の時間に間に合わず、スープの鍋が空になってしまう。
廊下を走るなんてお行儀が悪いから後ろでルルが何か言ってる気がするけど気にしないでサシャは一番スピードが出せるこの渡り廊下を目一杯走り出した。
◇◇◇
「……あれが?」
「そうです」
走り出したサシャを見つめながらルミエールは柱に隠れ気配を消していた燃える様な赤毛と宝石の様な赤い瞳が印象的な人物に頷いた。
『ルル』という名は、出会った時、まだかなり幼かったサシャがルミエールの名をきちんと呼べず泣いてしまったから、二人だけの時はと許した愛称だ。
「……困ったなぁ。ぱっと見、瞳以外は普通の子供だ」
「賢い子ですから髪と顔は毎朝、自分で煤と炭で汚していますよ」
「ほう?」
困ったと言いながらも余程嬉しかったのか満面の笑顔で赤毛の男がルミエールに話の先を促す。
「美しい貴色を持つ者はたとえ幼子でも……という話です」
「それは……また、姫様らしい逸話だな」
先程までの太陽の様な満面の笑顔が一瞬で苦々しいものに変わるのを見るとルミエールにはコレが腹芸の必要な要職にいるとは何度聞かされても納得が行かない。
まぁ、顔を歪める気持ちはとても理解できるが。
「……そのために、嗅ぎ付けられました」
「どこから?」
今回伝えなければならない一番の事を口にすると刺殺されてしまいそうな剣呑な気配で赤毛の男が視線を向けてくる。
「街の魔術屋の薬棚に銀色の髪が売られていたそうで……」
「?」
「仕送りを使い果たすとあの髪を売って宝石やドレスを購入していたそうです」
「さっきのあれか?……今は夜会も茶会も関係ない神殿にお住まいなのに?……はぁ……結局姫様が原因か……変わらないな」
先程、ルミエールが見かねて声をかけたサシャの髪は今朝見た時よりまた短くなっていた。あの年の娘なら幾ら短くても肩下までは髪の長さがあるものだ。あれでは何時まで経っても街で男と誤解されたままだ。
姫様の愚行は相変わらずで、救いようがないのはルミエールも同意するところだ。
幾多の布を重ねた神官服の懐からルミエールが確認の為にと以前部下に購入させていた小瓶を取り出し赤毛の男に渡すと瓶の中の小さな髪の束に周囲の精霊達が何事かと寄ってくる。
「本物の祝福の貴色はやはり凄いな」
「ええ、本当に」
『見えぬがわかる!』と以前豪語言していた男だけあって、精霊達のちょっかいをさらりの跳ね除け赤毛の男は大切そうにそれを己の懐にしまって、ルミエールを赤く澄んだ瞳で真っ直ぐ見つめた。
「主から伝言だ。『遊びの時間は終了だ。【その時】が来たらよしなに』だそうだ。俺はこのままもう少し観察した後、戻る」
「『仰せのままに』とお伝え下さい」
言うことだけは伝えたと二人が頷いた直後、何事も無かったかのように一瞬で密会の陣の展開を解き貴族棟へと視線を向けたルミエールをその場に残したまま、赤毛の男はどこに隠れて居たかと思う程気配を消していた部下を一人引き連れ、サシャが向かった孤児院の、食堂が良く見渡せる場所へと足を向けた。
◇◇◇
この先の明るい人生計画を思い浮かべつつ、見た目だけは繊細で美しく静かな神殿の中央棟をちょっとズレた足音を出来るだけ音を立てず、隠れるように駆け抜けて、たどり着いた孤児棟の食堂は料理と子供達の熱気で少し蒸し暑い。
サシャから見ると人が生きる熱はキラキラしていて美しい。
特に食事の時は嬉しい感情も混じっているのかキラキラが七色でそれでなくとも弾む心が更に弾む。
多分この神殿で礼拝堂の次にここは美しいと思う。
「よぉ、サシャ、遅かったな?」
食堂中に広がるキラキラに見惚れていたら、テーブルの一つからアレクが手を振ってここだと呼んでくれた。
「席と食事、確保しといたよ?朝、呼び出されたんだろ?」
駆け寄ったサシャにロイが椅子を引いてくれた。二人とも外に出る様になって知り合った仲間だ。知的労働が出来る孤児は環境的な問題で限られているから自然と三人仲良くなった。
「また随分、男前になったな。後で揃えてやるよ」
「ありがとう!二人とも!昨日の夜から何にも食べてなかったからお腹ペコペコ!」
ほんの一時間やそこらで髪型が酷く変ってしまったサシャに理由を聞かないでいてくれる友人達と、目の前の温かい野菜スープとパンという当たり前ではない幸せをサシャは噛みしめた。
(今夜はお腹も満ちるから、アレクに髪を整えて貰ったあと、図書館のお爺ちゃんと一緒に南の島国の言語の本の続きを勉強して、2年後の自由をゆっくり夢見よう!)
余裕を持って迎えられる夜に嬉しそうに笑っていたサシャは同じテーブルの二人が先程サシャを見つけた瞬間、一瞬顔を曇らせたことも、サシャが入室した後、食堂の入口から値踏みするように自分達を見つめる大人達の視線がある事も気が付かぬまま、明日の朝か、運が悪ければ夜にまたここで食事をとれることを疑っていなかった。