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ゴクリと自分の唾を飲み込む音が聞こえる。
口の中がカラカラだ。そのくせ、背中に冷たい汗が滲む。
(恐怖、いえ、緊張している、のでしょうね…私は)
リルムは、これから妹であるエルムと会う。姉妹らしいまともな会話など今までしたことがなかった。
エルムの用事は、謝罪、という話だった。
ただ、万が一の事もあるため、場所は今寝泊まりしている屋敷の一室を借りた。隣の部屋に警備の人達が控えてくれている。場所を指定された段階で、エルムも警戒されていることはわかるだろう。自殺志願でもない限り、リルムに危害を加えるような真似はしないはずだ。
ラスティンは「あの女が目の前にいると取り返しのつかないことをしかねない」とのことで、別室待機だ。やはり、自分の番を害した存在というのは、いくら冷静であろうとするラスティンであっても許しがたいものなのだろう。シンの話によれば、かなりマシなのだそうだ。大概の獣人は番を攻撃されたら何年かかっても必ず復讐するとか。
(復讐も謝罪も、特にしたいとは思っていないのよね…)
ラスティンからエルムの話を聞いて、リルムは返事をするか否かを決めるために数日を要した。リルムの本心は「関わりたくない」だ。
やっと手に入った平穏を、無条件に好きだと言われる喜びを、どうか邪魔しないでほしい。
正直なところ、謝られても許せる気はしない。風呂で身を清める度に、傷だらけの醜い体が嫌でも目に入る。その度に、人間の尊厳を全てかなぐり捨てた日々を思い出す。思考力は奪われ、ただ明日も生きられるようにと願うだけの日々。
それだけのことをされて、どうして許すことができるだろう。
では、会わなければいい。ラスティンだってそれを望んでいた。けれど、決めたのは自分自身だ。
「区切りを、つけたい」
エルムが家にいたときのまま、学園で罵倒してきたときのままだったなら、会う気はなかった。けれど、リー公爵家の不正を暴いたのはエルムだという。
リルムが欲しくてたまらなかった「愛される娘」という立場を、エルムは自ら捨てたのだ。その心の変化を知って、もしかしたら話くらいはできるかもしれない、と思った。
何が区切りになるのかはわからない。
けれど、この機会に「虐待されて育ったかわいそうなリルム」をやめたい。周りからはそう見られるかもしれない。人々は悲劇が好きだから。けれど、自分までそれに浸りたくはないのだ。
「リルムさん、お相手がいらっしゃったのでお通ししますね。
…あの、差し出がましいかもしれないんですが、本当に大丈夫ですか?」
「…たぶん。わからないですけど。
でも、警備の方も皆さんも控えてくださってますから」
肉体的な傷に関しては心配はいらない。正直、もう一つ傷が増えたくらいなんてことはない。ラスティンを悲しませるのが申し訳ないくらいで。
そして、心理的なダメージははかることができない。
ただ、話す、会ってみると決めた。その選択が間違いではないと信じて、やってみるしかない。
「何かありましたら、助けを呼んでくださいね」
「ありがとうございます。でも、カッとなって言い合いくらいはすると思いますから「助けて」と叫ばない限りは静観しててください」
心配そうな表情を見せてくれるメイドの心遣いがありがたい。この屋敷の人たちは、リルムに本当によくしてくれた。その人たちを悲しませないためにも、無茶は控えよう、とは思っている。
ぎゅうと、胸の前で手を握る。
少ししてから、エルムが案内されてきた。
「…本日は、このような場を設けてくださり、ありがとうございます」
「いえ…」
姉妹としてのちゃんとした会話はこれが初めてかもしれない。本当はもっと気の効いたことを言えるように何パターンも台詞を準備していたリルムだが、それが全て吹っ飛んだ。
目の前にいるエルムの髪は無惨な程に短くなっていた。貴族の娘として、いや、この国の女性として信じられない短さだ。
「…これまで、あなたにしてきた行為が、どれほど恥知らずなものだったかを知りました。謝って許されるものではないでしょうが、謝罪をさせてください。
本当に、申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げるエルム。リルムの記憶の中の少女であれば、あり得ない光景だった。本来ならば、謝罪されれば受け入れなければならないのだろう。
けれど、リルムは許すと言えずにいた。
「…一つ、聞いてもいいでしょうか」
「なんでしょう」
エルムは頭を下げたまま答える。まだ、顔をあげて、とリルムは言えなかった。
「何故、あんなことをしたの?」
「…それは……実りある返答をできないと思います」
「実りとか、そういうのじゃなくて…純粋に知りたいのです。
どうして、私はあんな目に合わなければならなかったのですか?」
リルムの悲痛な声が響く。ずっと聞きたかった問いだ。
「それは…」
「顔をあげて、目を見て、答えてください」
ノロノロとエルムは顔をあげる。
「…何故あなたの扱いがああなったのか、ということは私の憶測でしかありませんが、よろしいですか?」
「えぇ」
「あなたが、正しかったから、です」
「え?」
「父の台詞と残っていた記録からの推察です。
恐らくですが、幼い頃、祖母から様々なことを教わったあなたは、偶然父の不正の証拠でも見つけたのでしょう。そして、習ったまま、正しいことを述べた。
それが父のコンプレックスを刺激した。
それで、ああいう扱いになったのだと思います。
目の色や呪われた子なんていうのも、全部後付けです」
言われて、ふと思い出したことがある。父に誉めて欲しくて、祖母に教えてもらったばかりの知識を披露した記憶。そのあとが、どうしても思い出せない。ただ、それ以降の記憶の中の父はずっと不機嫌だった。
「そんな…」
「そして私や母は、そう言われたから信じました。
母はどうかわかりません。少なくとも分別のつく年齢だったにも関わらず荷担したのは、前妻の子憎さからでしょうか。
私は…」
エルムは一度そこで言葉を区切る。躊躇うような素振りを見せた。だが、結局、リルムの望む通り、リルムの目を見据えて口にした。
「私にとってあなたはそういうモノだったからです」
「っ…」
「一緒に過ごしたこともなく、一番信頼している両親がそう言った。疑う余地などなかった」
「あなたは、何も罪悪感などないというの!?」
「あなた個人に対してはないですね。王妃様に申し訳ないとは思いますが。
それと、間違ったまま訂正してくれなかった両親には複雑な気持ちがありますけれど」
「では、先程の謝罪は…」
「そうすべきだからしたまでです。元王子妃候補のプライドにかけて、間違ったことは正さなければ、可愛がってくれた王妃様に顔向けができませんもの。
もっとも、もう会う機会もありませんけどね」
この時の気持ちをどう表現すればいいか、リルムは知らない。あまりのことに、理解を拒絶したかった。
「あなたはっ……」
そう声を発しても、あとに続く言葉が見つからない。泣きたい、悔しい、気持ちが悪い、衝動のまま叫びたい。
様々な感情を渦巻かせながらも、そのどれもがせめぎあって結局行動には至らなかった。
部屋に、落ち着いたエルムの声が響く。
「正直に言えば、あなたをいじめるのは楽しかったわ。
そして、両親に殴られて初めて、その感情がおぞましいものだということに気づいた。
ひどいことをしたとは思うわ。でも、それだけ。
もしあなたが私を同じ目にあわせたいというのなら、その権利はあると思います」
リルムは、自分の頭に血が上るのを感じた。
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