01
この世界には番という概念がある。
世界のどこかに、自分の運命の相手がいるという概念だ。獣人の国ほどそれは顕著になり、匂い・フェロモンによってお互いを引き寄せ合う。
弱小のアズワルド国は、隣の獣人大国の留学生を受け入れることでなんとか存続していた。留学生というのは名ばかりで、運命の番を自国で見つけられなかった獣人達の受け入れ先だ。見方によっては留学生を受け入れる学園は、国のために獣人国に売られているとも解釈できる。しかし、立地的にもこの国はそうして生きていくほかなかった。
という事情は、今の今まで少女に関係ないことだった。
少女の名はリルム。弱小アズワルド国の公爵家の長女だ。だが、彼女は長いこと人目に触れていなかった。それどころか、存在を隠されて牢獄のような地下の一室でひっそりと生きながらえていた。生まれたときからこのような扱いを受けていたわけではない。
きっかけは彼女の生まれた年に猛烈な嵐が公爵領内を襲ったことだった。
それ自体はただの偶然だった。ほんの少し運が悪かった、それだけのこと。領内全員が困窮したため、少しだけ発育不十分だったがそれは領内の皆同じ事だ。
彼女の境遇が変わったのは、妹が生まれたときだ。
妹が生まれた年は打って変わって大豊作となった。オマケに妹は神に祝福されたような愛らしい金髪碧眼。そこで、父親は思ってしまったのだ。
ーあの嵐は、忌み子であるリルムが生まれたせいではないかと
ポツリと父親が零したその声は周囲を巻き込んだ。そして日に日に大きくなり、段々とリルムは邪険に扱われるようになった。
母が生きていた頃は母が、母が亡くなってからは祖母が優しくしてくれた記憶はある。二人だけはリルムのことを庇ってくれた。
母親は罪悪感からだったのかもしれない。
何せ、リルムが忌み子として扱われた原因の一つが、真っ赤な目だったのだから。公爵家は先祖代々青系統の色の目をしている。そのせいで母親は不貞を疑われた。その辛さはいかほどだっただろう。家の者の目から隠れるように小さな小さな離れに母子で暮らした。
泣き濡れた母が病んだように「ちゃんと産んであげられなくてごめんね」と謝る。自分のせいだという罪悪感から逃れることが出来ず、母は謝りながら死んでいった。
その後短い間だったが、面倒を見てくれたのは父方の祖母だった。
公爵令嬢として恥ずかしくない教養と、一人でも生きていけるようにと知恵を与えてくれた。幼いリルムは全て吸収することは出来なかったが、それでも周りと比べれば随分早熟だと祖母は褒めてくれた。しわしわの手が優しく頭を撫でてくれたことを今でもしっかりと思い出せる。
しかし、二人はリルムを置いて逝ってしまった。
リルムがひとりぼっちになったのは10歳の時のことだ。
それ以来、リルムは地下室に一人だけ。毎日のように暴力を振るわれるか、または3日くらい存在を忘れられるか。いつの間にかいた後妻と父親、そして妹の機嫌次第でいたぶられる毎日。
だが、それもきっともう終わる。
リルムは今、その命をそっと終わらそうとしていた。
その日は忘れられて何日か経過していた。
喉が渇いて、おなかが空きすぎて、意識が朦朧としていた。
祖母は「いつか誤解が解ける日が来る」と言っていたけど、それももう、別にどうでもよかった。何度も浴びせられた罵声は、優しい言葉を思い出せないくらい深くリルムに刻み込まれた。
リルムは呪われた忌み子で、生きているだけで罪深い存在。臭くて汚くて、公爵家の恥さらし。だから、公爵家の血を引く者は暴力を振るう。公爵家に仕える人間は、いない者として扱う。
ただ、早く終わることを願って、自分を貶める言葉を幾度も口にした。その度に自分の中の何かが削れていくような気がしたけれど、それにすら慣れた。
ただただ、早く祖母や母と同じ場所にいけることを祈っていた。
(ようやく…おわるの?)
だが、そう簡単にはいかないようだった。
外から何やら悲鳴のような声がする。怒号と悲鳴。それから、嗅いだこともない芳しい匂いがした。
(いい匂い…何が起きているのだろう…?)
そう思って、リルムはなんとか体を起こす。
倒れたままでいると、何を寝ているんだと酷いことをされた経験からだ。なんとか壁にもたれて身を起こす。
匂いが強くなった。
出来るなら、ずっと嗅いでいたいステキな匂い。
思わずリルムが口角をあげる。まだ笑えるという事実がおかしかった。
だが、そんなリルムの心情をよそに、騒ぎはどんどん近づいてくる。
「ここか!」
大きな男の人の声と、バアンという大きな音が地下室に響く。祖母が昔話してくれた、賊、というものだろうか。家族ではなく、別の誰かに殺されるのであれば、それもまた良いかもしれないとリルムは薄く微笑む。
「なっ…」
先頭に一人、それから何人もの気配。
だが、一向に近づいてくる様子はない。
ただ、誰かが驚いたような気配がした。
(死神だから、気持ち悪いと思われたのかな? でも、仕方ないよね…。目を開けたらもっと酷いことされてしまう。
でも、出来れば殴らないでほしい。大きな男の人みたいだから、父様にぶたれるよりもきっと痛いもの。…一撃であちらへいけるのなら、それもいいかもしれないけど)
「失礼…公爵家のご令嬢で間違いないだろうか」
知らない男の人の声だ。敵か味方か分からない。ここで下手な返事をすれば家族にまた殴られるかもしれない。生を諦めた身だとしても、また痛いことをされるのはイヤだ。けれど、父よりも強そうな気配のする人に殴られるのもイヤだ。
少し悩んでから、リルムは正直に答えることにした。
「…ぃ」
はい、と返事したかったが、長い間自力で声を出していないため掠れた音が喉から出ただけだった。どうにかして頷いて見せる。
「獣人様!
ここはあなた様の入るような場所ではございません!!」
必死な父親の声が聞こえる。頷いてしまったことを後悔した。あとで、酷い仕置きをされるだろう。でも、もうその仕置きに耐えきれる自信はない。
命がもうすぐ尽きる、と思った。
早く母と祖母の元へ行きたいと願っていたはずなのに、尽きると思うと少し怖く思えた。
「それは私が決めることだ。あなたはこの少女の親なのか?」
「それは…」
「親でないのであれば私がもらい受けても構わないだろう。
失礼する」
目の前の男の人が動くと、その動きに合わせて芳しい匂いも動いた。先ほどから感じていたいい匂いは、彼のモノだったらしい。死ぬ前にこんなにも幸せになる匂いを嗅げて、少し得したような気持ちになる。
もう、壁に支えて貰ったとしても、体を起こしているのは困難だった。
バキ、という派手な音がした。牢の鍵が壊されたのだろう。少しの間のあと、優しいぬくもりに包まれる。抱き上げられたらしい。何故だかとても泣きたくなった。もう涙なんて出ないと思っていたのに。
安心する匂いとぬくもりに、意識が遠くなる。このまま死んでしまえればいいのに。
「彼女は私の番だ…。娶るかどうかは別として、番をこんな環境においては置けない」
そんな声が聞こえたと同時に、リルムは意識を手放した。
どうか、もう目が覚めませんようにと祈りながら。
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