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焦がれるは秋④

 その日以来、彼女は毎日のように喫茶店に顔を出すようになった。ある日は仕事終わりに、ある日は休日中ずっと、いつもの窓際の席に座って原稿に向かっていた。書きたい物語が彼女の中で決まったようで、以前に比べて筆の進みが早くなっているように感じる。彼女も手を止める回数が減った、と僕が店長の淹れた珈琲を運びに行った時に教えてくれた。「内容はできてからのお楽しみ」とのことだったから、しつこく聞こうとはしなかった。

 一方で僕は暇さえあれば珈琲を淹れる練習をしていた。店で使わなくなったミルをもらって家でも豆を挽いた。シオリを実験台に色々試した。豆の挽く荒さや、お湯の温度、注ぎ方、本を読んで勉強もした。それでもほとんど思い通りには淹れられないのだが、ときどき奇跡的においしく淹れられるときもあった。これだ、と思って同じように淹れても次は微妙に違ったりもした。

 彼女が勝手に持ち掛けてきた勝負だったが、僕はなぜか必死だった。今思えば勝負そっちのけで珈琲の魅力に取りつかれていたのかもしれない。もしくは早く上達しないと、僕が一人前に珈琲を淹れられるようになる前に、心のどこかで彼女がどこか手の届かない遠くへ行ってしまうかもしれないという焦燥感に駆られていたからかもしれない。

 そしてその日は突然やってきた。街路樹の葉がもう数えられるくらいに減った頃だった。

「うん。かなり上達したね。もうお客さんに出しても十分な味だよ」

 お店が忙しいお昼の時間帯が過ぎて落ち着いたころ、僕が淹れた珈琲を飲んで店長が言った。

「あ、ほんとだ。おいしい」

 一緒にバイトとして働いている鳥人の学生もその珈琲に舌鼓を打った。

「ほんとですか!?」

 僕が店長の予想外の反応に驚くと「実は少し前から大丈夫そうだったんだけど、シュトレン君の淹れる珈琲はムラッ気があったからね」と店長は嘴を鳴らして言った。

「それじゃあ……」

「いいよ、淹れてあげて。その分は私が持つから」

 事情を知っていた店長は僕が珈琲を淹れることを許してくれた。今日、彼女は仕事が休みだったようで、朝早くからいつもの席で執筆を続けていた。

 彼女が注文する珈琲はいつも同じだった。店長が自分で豆から買い付けに行って焙煎した、特製の豆を使ったこのお店オリジナルの珈琲だ。この味を目当てにやってくるお客さんも少なくはない。

 豆の入ったキャニスターから三杯分の豆をミルの中に入れ、ハンドルを回して豆を挽いていく。臼の摩擦熱が豆に伝わらないようにゆっくりと。できた粉をフィルターの中に移し替えて平らに整える。沸騰して少し置いたお湯を少しだけ注いで珈琲の粉を蒸らした。そのあとは「の」の字を書くようにゆっくりと、それでいて中の粉を少し撹拌させるように注いでいく。雑味の成分が下に落ちないようにフィルター自体にはお湯を掛けない。最後にサーバーの中に溜まった珈琲を軽く揺らしてカップに注いだ。

 念のため店長にも確認してもらうと皺の入った手で親指を立てた。

 淹れたての珈琲をお盆に乗せて彼女のいる席に向かった。彼女は頼んでもいないのに運ばれてきた珈琲に疑問の表情を浮かべたが、次の瞬間には察しがついたのか「私の負けか」と呟いた。

「いただきます」と差し出されたカップに口をつけると「うん、おいしいね」と彼女は言った。

「じゃあ、あの勝負は僕の勝ちですね」

「そうだね、君の勝ちだ」

 そう言って彼女はまた一口珈琲を飲んだ。

「あー、もう少しだったのになー」と彼女は座ったまま伸びをした。

「もうすぐ完成だったんですか?」

「そう、あとひと手間」

 僕はそう言って机の上の原稿を覗こうとすると彼女は手をひょいひょいと招いた。こんなに近くで手招きをすると言う事は「もっと近づけ」と言う事だろうか。そういえばあの時も彼女が手招きしてたなぁ、と思っていると彼女の手がゆっくりとのびて僕の後頭部を押さえた。そして気づけば額同士がくっついていた。

 近い。

 きれいな橙色の瞳が本当に目と鼻の先にあった。

「クッキーが食べたいな」

 彼女がとても近い距離で言った。息をすることも忘れていた僕はその言葉を理解するのに少し時間がかかった。

「クッキー?」

「そう、チョコチップの入ったやつ」

 彼女が手を放して、いつもの店員とお客さんの距離になると僕はやっと理解した。

「あ、いつものですね」

 僕が訊くと彼女は優しく笑いながら頷いた。「少々お待ちください」と業務的に言うと注文受けたクッキーを取りに、カウンターに向かった。陳列しているケースの中からクッキーを取り出し提供用のお皿に乗せた。その時も心臓はいつもより強く脈打っていた。

 さっきのは何だったんだろう。

 邪まな考えが頭をよぎったが、そんなはずはないと頭を振ってあの人のいる席に向かった。

「お待たせしました……」と言ったものの、さっきまでそこに座っていた彼女の姿は見当たらなかった。

 トイレかなと思って、クッキーを乗せたお皿をテーブルに置いて、お手洗いの方を覗いてみたがそこには誰も入っている様子はなかった。

 とても嫌な予感がした。

 店を飛び出して道を見渡したがそれらしき姿は見つからない。

 店長が勢いよくドアを開けた僕に異変を感じたのか「どうしたんだい」と店から出てきた。

「あの人、お店出て行きませんでしたか?」

 僕がそう訊くと店長は「いや、見てないね。お手洗いじゃないの?」と首を横に振った。

 ドアのところで佇む店長の脇をすり抜け、店の中に入った。もう一度お手洗いの方を確認したがやっぱり誰もいない。階段を上がって事務所のドアを開けたが、ボスがジャーキーを咥えて新聞を読んでいるだけだった。階段を下りて原稿が広げられたままの席に戻ると、その前で店長が腕を組んで立っていた。

「まあ、すぐに戻ってくるんじゃない?荷物もあるし、何よりコートがそのままだ。外を出歩くには今日は寒すぎるだろう」

 店長の言う通り、彼女の持ってきていた鞄も手帳も携帯も、テーブルの上に置きっぱなしになっていた。

「……そうですね」とその場では言ったが、僕は心のどこかで彼女はこの世界にいないことは感づいていた。

「大丈夫かい?」と心配する声が聞こえてきた。

「え?」と何が大丈夫なのか訊き返そうとしたが、自分の頬の毛を濡らす涙に気が付いた。慌てて服の袖で拭って「大丈夫です」と答えて仕事に戻った。カウンターに戻るとバイトの子が驚いた顔をしていたが「何でもない」とだけ言っておいた。

 結局、お店の営業時間中に彼女が姿を現すことは無かった。

 

 数日後、彼女の姉を名乗る女性が現れた。彼女の残した荷物を取りに来たというその人は、いつものあの席に腰かけた。

 少しの間彼女と話していた店長が戻ってくると「親族の方で間違いないだろうから、あの人に返すよ」と僕に言った。

 彼女の残した荷物を一つ一つ確認すると、その人は原稿用紙の紙の束を手に取ってそっと抱き寄せた。それが意味することは、僕の考えていたことを確証づける行動となった。彼女はもう二度と戻ってはこない。そこに至るまでの経緯はわからないが、彼女はこの世界からいなくなることを心に決めて、文字の海の中へ身を投じたのだろう。

「これはあなたに」

 彼女の姉はあの人が残した物の中から黒いボディのペンを僕に差し出した。それを受け取るって「どうして?」と彼女に訊くと「あの子が君にって」と言った。

 詳しくは訊けなかった。

 彼女は店長と僕たちに頭を軽く下げると、足早に店を出て行った。その後ろ姿を見送ると店長は「さ、仕事に戻ろうか」と手を鳴らした。

 受け取ったペンを掌で転がしてみた。僕の手の中で鈍く輝く黒色のペンは思っていたよりもずっしりと重たかった。

 季節は冬。僕が恋焦がれた秋はとても短い季節だった。






焦がれるは秋 了

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