焦がれるは秋①
ミルのハンドルを回すと、内蔵された臼で硬い豆が砕かれていく感触がした。時折引っ掛かりながら、ガリガリとハンドルを回し続ける。やがて豆を挽くハンドルに抵抗がなくなり、豆の粉で満たされた小さな木箱を取り出すと珈琲のいい香りがした。その粉をあらかじめセットしておいたフィルターの中に放り込み、平らになるように整える。そこへ沸かしていたお湯を、注ぎ口の細くなったポットで少しだけ注ぐ。こうして蒸らすことで珈琲の成分がおいしく抽出されるようになるのだそうだ。お湯を「の」の字を描くように少しずつ注いでいく。サーバーの中に焦げ茶色の液体がぽたぽたと抽出されていった。
「はい、どうぞ」
僕は淹れたての珈琲をカウンターの席に座っていた人間の女性の目の前に置いた。彼女はカップを持ち上げると、確かめるようにその香りを吸い込み一口、口に含んだ。
「……なんか、違う」
シオリは眉間に軽く皺をよせ、開口一番そう言った。
「なんだろう、めちゃくちゃ不味い訳ではないけど別においしくもない」
「あ、そう……?」
彼女に微妙な評価を受けて、サーバーに残った珈琲をカップに入れて自分でも飲んでみた。なるほど、へんてこな味がする……。
自分の淹れた珈琲に顔をしかめていると「シュトレンみたい」とカップに角砂糖を何個も入れながらシオリがつぶやいた。
「どういう意味?」
「……さあ?」
絶対に甘すぎる珈琲になった液体をシオリはティースプーンでかき混ぜていた。その視線は店の奥のテーブル席に座る犬人と猫人の二人に向けられていた。
「なるほど。雑味が酷いな」
すぐ後ろから聞こえてきた声の方に振り向くと、狼人のボスが僕の飲んでいたカップを手に持って舌を出していた。
「修行が足りないんじゃないか?」
「まだはじめて三日です。返してください」
僕がボスの手からカップを取り返すとボスに鼻で笑われた。
「じゃあ、頑張りたまえよ。未来のバリスタ君」
そう言ってボスは長いコートの裾と尻尾を翻し店を出て行った。「行ってらっしゃい」僕は聞こえるか聞こえないかの声量でその後ろ姿を見送った。何の事件なのかは教えてくれなかったが、警察から依頼があってその応援に行くらしい。
季節は秋から冬に差し掛かり、街路樹は暖色の葉っぱを道路に敷き詰めて景観を彩っていた。
僕は役目の終えたフィルターと豆の残りかすをごみ箱に捨てながら「探偵だよな、僕」と思っていた。
事のはじまりはつい先日の事だった。探偵の見習いとしての仕事を日々こなしていると、この喫茶店の店長が神妙な面持ちで事務所のドアを叩いた。「人手が足りない」確かそんな感じのことを言っていたと思う。ここで働いていたバイトの子たちが、就職、進学と重なり一斉にやめてしまうそうだ。
店長がそのことを相談しに来た時からそんな気はしていた。ボスとハルさんの「丁度いいのがここにいる」という視線が僕に向いているのが見なくても分かった。その視線に気が付かないふりをしながら書類を整理していたが、僕は両肩をがっしり掴まれる。観念して振り向くと懇願と期待の含んだ店長の目と合った。
「お客さんに出せるようになるには、もうちょっとしてからかな」
僕の淹れた珈琲を飲みながら鳥人の店長はその嘴を綻ばせた。
「……はい」
僕はなんだかんだで、この仕事を楽しんでいた。はじめは仕方なくだったが、豆から挽いて入れる珈琲は淹れるたびに味が変わり、香りも違った。いつの間にか、店長の淹れるおいしい珈琲が出せるようになりたいと思うようになっていた。
「シュトレン君、これお願い」
「え、あそこ?」
「そう、あそこの席」
店長からカップを二つ乗せたお盆を受け取った。淹れた珈琲をお客さんに出すのも僕の仕事だった。こぼさないように慎重に歩いて行くと、僕に似た白い毛皮の猫人の女性と目が合った。彼女はにこりと笑うと僕に向かって手を軽く振った。
「お待たせしました」
そう言って僕がテーブルの上にカップを置くと彼女はスケッチブックに「笑って」と描いて見せた。きっと僕がいつも通りの仏頂面だったからだろう。丁寧に彼女も口の両端に指をあてて口角を上げた。
そこまでされて笑顔を作らないわけにはいかない。普段使わない表情筋を使って笑うと、向かいの席に頬杖をついて座っていた犬人が「ふん」と鼻で笑った。彼は相変わらず眉間に皺を寄せながら僕の方も見ずに「探偵じゃなかったのかよ」と言った。
「はい、ブレンドコーヒーでーす」
僕はその声を無視して彼の前にもカップを置いた。そこで初めて彼の鋭い目と合った。出会った当初はこの目つきにたじろいでいたが、もう同じように睨み返せるようになっていた。
その視線のぶつかり合いを遮るようにマシロさんが手を大きく振ると、彼女は親指と人差し指で輪を作ると額に当て、その手を切るように離した。
その行為を見てヒロは「別に謝ることじゃねぇよ」とため息交じりに言った。
テーブルの上にはスケッチブックと一緒に、どこかで見たことのある手話のテキストが置かれていた。困ったように笑う彼女の首元には、その手術痕を隠すようにスカーフが巻かれている。聞いた話によると彼女の手術は成功したが、声帯を摘出したせいで声が出せなくなったそうだ。
「だが、声は取り戻せるぞ」煙草を吸いながらそう言う狐人の医者に、マシロさんのお見舞いに来ていた僕らは驚かされた。どうやら医療は僕の予想の範疇をはるかに超えて進歩していたようだった。本人から採取した細胞で新しく臓器を作り出せるという事らしい。
それなら手話なんて覚えなくてもいいじゃないかとヒロは言ったが、彼女は首を横に振った。彼女はスケッチブックに「自分は運よく声を取り戻せるかもしれないけど、私は同じように声を出せなくなった人達や、耳の聞こえなくなった人たちの『声』になりたい」と僕らには眩しすぎる目標を書いて見せた。その為、彼女は手話通訳士を目指して猛勉強中で、よくこの喫茶店に来ては手話を勉強している。
その向かいに座る犬人の警察はというと、あの事件以来警察に復帰。彼女の付き添いだと言ってよく一緒に来る。あくまで『付き添い』だというが、フォードさんに聞いたところによるとマシロさんの手術にかかる費用は全てヒロが支払っているらしい。そこまでしておいてただの『付き添い』だとは思えないが、実際のところはよく知らない。
「じゃ、頑張ってねマシロさん」
僕がそう言うと彼女は左の手の甲を切るように右手を弾ませた。一方でヒロはシンプルに中指を一本立てて僕に向けた。その意味は僕も知っている。手話ではない、それは。
僕も負けじと同じように中指を立ててその場を後にした。去り際にマシロさんの困った顔が見えたがその光景も慣れてきた。いつの間にかヒロと僕の小競り合いを見てマシロさんを困らせるというのがお決まりになっていた。
「なんか楽しそうね」
「……なにが?」
僕が帰ってくると小説のページをめくりながらシオリは言った。
店長から受け取った珈琲とチョコチップ入りのクッキーをお盆に乗せて次の席に向かった。
楽しい、か……。
まだ湯気の立っているカップを眺めながら僕は思っていた。勝手に負い目を感じながら人と距離をとっていた僕が、こうして人と関係を持っていることが自分でも不思議でたまらない。きっとこの感情は『楽しい』という事なのだろう。
「お待たせしました……」
窓辺の席に座るその人はきれいな橙色の瞳をしていた。まるで役目を終えて、散り落ちる街路樹の葉のような…………。