3・噂
それから王とエイダの暮らしが始まった。
しかしそれは新婚というにはあまりに寒々しく、一面、はるかに荒々しいものであった。
まず彼らは共に食事をとらない。
エイダが血の気の失せた顔で身支度を整え食堂に赴くと、すでに王は城を出た後だ。
エイダはそこで数人の侍女と廷臣に見守られ、あるいは監視されながら、一人で食事を取る。
エイダが家宰のグスタブに相談をしながら皇国の技術をまず王城内の狭い土地で試す間、王が城に戻ってくることはまずない。騎士たちの元へ赴いているか、略奪に近隣へ出ているのか、グスタブに聞いても曖昧な返事しか返ってこない。
夕食もエイダ一人、見守られ、監視され、無言のうちに済ませる。
そして夜。
夜だけ王が彼女の寝室へやってくる。
エイダは白く薄い寝間着に黒く美しい髪を流し、部屋に入ってきたのが王その人だと知ると、ぱっと艶やかな笑顔を浮かべる。
花のように鮮やかな。美しい。幸福そうな。
憧れと、それ以上の何かを多分に含んだ、あの初めて会ったときと同じ瞳で。
いや、あのとき以上に輝きを増した笑顔で王を迎え入れる。
王はその笑顔を見ると、怒りと憤りに頭の芯が真っ白に焼けたようになる。
そして怒りに我を忘れ、気が付くと彼女を寝台に押し倒している。
押し倒されても、彼女の心に恐怖と嫌悪感が浮かぶことはない。
代わりに上気した頬はますます赤く、その赤みは瞬く間に全身に広がり、瞳はうるみ、輝きを増す。
これほど酷く扱っているのに。
これほど酷く責めさいなんでいるのに。
醜い化け物に弄ばれ、今夜こそは恐怖が、嫌悪が、侮蔑が、嘲りが見えるのではないか。
そう思って彼女に触れるたび、新たな怒りが王の脳裏を白く焼くことになる。
「なぜ」
憧れ。喜び。恥じらい。戸惑い。困惑。
そしてそれに倍する幸福感。圧倒的な幸福感が彼女から押し寄せる。
その幸福感すら凌駕する何か大きなもの。彼女とはじめて会ったときから、ますます輝きを増しているあの瞳の奥の光と同じ。そんな感情が彼女から押し寄せて来る。
王にはそれが何かは分からなかった。
生まれてから今まで、ほかの誰からもそんな感情を込められた瞳で見つめられたことがなかったから。
相手は恐るべき女帝の娘。油断すればたちまち喉笛をかき切られ、喰われてしまう。
彼女が口にする彼女自身の『贈り物』にしても、どこまで本当のことを言っているのか分からない。
彼女は自分をだまして、支配し、この国の国政を乗っ取ろうとしているのかもしれない。
そんな話は現に、枚挙に暇がないからだ。
しかし彼女からはそのような負の感情は感じられない。
彼女の言うように、彼女は王をだまそうとはしていないとしか考えられなかった。
だが真実の全てを語っているわけでもない。
王にはそれが確信できた。
彼女の中には罪悪感があるからだ。
大きな罪悪感。それから王に対するものではない、何かに対する確かな恐れ。
王が彼女が嘘をついていると感じた根拠はその罪悪感と何かに対する恐れだった。
「お前は嘘をついている」
「いいえ」
しかし彼女は王が糾弾するたびに、まっすぐにそう答える。
その否の答えが嘘でないことが王には分かる。
彼女の罪悪感が薄れるからだ。
しかし罪悪感は薄れても、代わりの感情が大きくなる。
苦しみ。悲しみ。深い悲しみ。
そう、悲しみだ。
それは王自身が、決して今まで彼自身、認めたことはないものだったが、常にその心の奥底に持ち続けている感情だった。
それが王をさらに苛立たせる。
その苛立ちから、毎夜彼女を酷く責めさいなまずにはいられない。
「お前はまだ自らの立場を理解していないようだ。余を自由気ままに操ることが目的か。どちらが上か、その体に教え込んでやる」
彼女が王のその言葉をを聞いても彼女から感じ取れる感情は変わらない。
ただ幸福感と悲しみ、そして罪悪感が強くなる。
彼女は苦しみ、悲しんでいる。深く。とても深く。そしてそれがさらに王を苛立たせる。
「なぜだ」
彼女はなぜ自分を恐れない?嫌悪しない?
忌避の心はおろか、嘲りの心すら持たない?
彼女に触れるたびに、肌を走るこの焼けるような感覚は何なのか。
いつも醒め、冷徹に己を嫌悪する娼婦たちを嘲りながら責めさいなんでいた時には絶対にありえなかった熱が、なぜ自分の体を走っているのか。
「なぜお前は余をこれほど怒らせる。
なぜこれほど憤らせる」
王はそう自分に言い聞かせるように彼女を糾弾する。
彼女はそれを聞いても、ただ幸福そうに微笑むばかりだった。
幸福そうに。……そして悲しく。
「皇国の技術は居城の一部の区画を使って試しております」
家宰のグスタブが暗い玉座に向かって淡々と告げる。
玉座の人は無言でその言葉を聞いている。
「収穫量を増やす技法にレース編み、ガラス技法……物になればいずれもわが国に莫大な利をもたらすものばかり。お妃は確かに農政と産業のやり手。そしてどうやら今のところはわが国を害する意思は見受けられないようです」
「今のところは、な。全て女帝の許可を得たものばかりだろう。はじめからそれは今回の政略結婚に織り込み済みのものだ。妃がまだ表に出さず、皇国の不利になるような知識こそがわが国の有利となる。上手く引き出せ、グスタブ」
「御意」
「妃の監視はどうなっている」
「すでに侍女の中にわが国出身の者を入り込ませております」
「その者の親族は手の内に入れていような」
「父兄を騎士に取り立て、質としております。まず裏切ることはありますまい」
「それで良い。今年の蓄えはどうなっている」
「麦の備蓄は残り少のうございます。今年いっぱいは持ちますまい。……お妃がおっしゃるには今年はやや不作気味とか」
「厄災の姫の本領発揮か」
ウルリクがその王の言葉を受けて、気づかわし気に言った。
「陛下、お妃様の知識と技法は結果が形になるまで時がかかるものばかりでござます。今しばらく様子を見てもよろしいのではありませんか。飢饉の芽は昨年からすでにあったものでしょう。お妃様がもたらしたものとは限りません」
「黙れ、ウルリク。
余に腕輪をはずさせたいのか」
玉座の暗がりから確かな怒りと憤りの感情が流れ出す。
ウルリクは反射的にその場から一歩下がり、頭を下げた。
「申し訳ありません、陛下」
「あと何回かは略奪を繰り返さなければなるない。
兵の招集をかけておけ、グスタブ」
「かしこまりました」
王が立ち上がり、玉座の間から去るのを待ってグスタブは鋭い声を発した。
「不敬だぞ、ウルリク卿」
「確かに言い過ぎましたが」
「超大国から贈られてきたお妃を警戒するのは当然のこと。ましてや未だにこちらはお妃の力も思惑も正確に把握しきれていないのだ。無駄にお妃の肩を持ってどうする」
「確かにそうかもしれません。しかしグスタブ卿も城中での噂をご存知でしょう」
ウルリクは周囲を見回し、声をひそめた。
「陛下が毎夜お妃様を責めさいなんで、その生気を吸っている。今にお妃様は陛下に取り殺されてしまうに違いないと。逆の噂もあります。無垢と見せかけた魔女の魅力に溺れ、陛下は毎晩お眠りにもなれないご様子と」
「貴様」
「本当のことです。家宰であるグスタブ様が一番それをご存知でしょう」
ウルリクは眉をひそめ、先を続ける。
「ただでさえ王の悪名は世間に名高い。
城中はおろか、領内で噂になっているのですよ。私は陛下のお名がこれ以上貶められるのを憂いているのです」
「馬鹿な。仮にお妃が魔女であろうと、一人の女にたぶらかされる陛下ではない」
「本当にそうでしょうか」
ウルリクはうつむき、辺りをはばかるように小さな声で言った。
「陛下は肉親、とりわけ女性の愛に恵まれないお方です。あの陛下のご容姿を恐れず、純粋に愛を捧げる女性が現れれば、例えそれが魔女の術だとして、国政を忘れ私事に溺れても……」
「貴様。それ以上言うな」
グスタブは鋭く言い放ち、ウルリクの言葉を遮った。
「仮に魔女の力が本物であったとしても、陛下は腕輪なしならその深層心理の奥深くまで読み取ることができる。一言一句違わずな。相手の企みに陥れられることはない」
「しかし……相手は少なくともか弱い一人の女性です。その女性をあんなふうに毎夜のごとく酷く扱っては陛下の悪名はますます響き渡ってしまいましょう」
「そのような気づかいこそ無用。相手は女帝の娘なのだぞ、手控えなどできるはずもない。悪名など今更ではないか。それは陛下も御覚悟の上だ。こちらが喰われることになるぞ、それとも卿はそれを望んでいるのか」
「そんなはずがないでしょう」
「ならば二度と噂のことなど口にするな」
ウルリク無言になり、王の去った通路の暗がりに目をやった。
彼の眼にはその暗がりと同じく、鬱々とした光が浮かんでいた。
「しかしどのような理由であれ陛下がこれまで、あのように頻繁に女性に会いにいくなど考えられなかったこと……まずい事態に陥らなければいいのだが……」




