3.悩める英雄 ~嫁の飯がマズイ~
「このままじゃ俺の居場所がなくなる……」
『英雄』の部屋の真ん中で、俺は溜息を吐いた。
赤い絨毯の敷かれたその部屋に、今はフェーリの姿はない。
無駄に広いその空間で、俺は一人膝を抱える。
『浮かない顔ですね。この世界に来るのがそんなにも嫌ですか?』
頭上から幼い声が降ってきた。
俺がゆるゆると顔を上げると、天井からぶら下がったシャンデリアの端に、シェーラがちょこんと座っていた。
幼い身体に似合わない妖艶な瞳が、冷たくこちらを見下ろしている。
俺はその顔をぼーっと眺めながら、
「別に……この世界に来るのはいいんだけどさ。リョーと入れ替わるってのが嫌なんだよ。なんていうかこう、俺の生活のすべてがあいつに汚染されていくというか……」
『不安なのですか? リョー様があなたの居場所を横取りしてしまうかもしれないと』
聞かれて、俺は返事に詰まった。
シェーラの言う通りだ。
リョーに自分の居場所を奪われてしまうかもしれない――と、俺はそれが心配でたまらないのだ。情けないけれど。
『そんなに不安なら、あなたももっとアクティブになってみてはいかがですか? この世界でも、あなたの世界でも、リョー様に負けないくらいのご活躍をなされば、じきにあなたも自信がつくでしょう』
「そう簡単に言うなよ。俺みたいな凡人がちょっと動いたところで、仮にも『英雄』であるリョーに勝てると思うのか?」
リョーはかつてこの世界を救った英雄だという。
その化け物じみた驚異的な力は、俺みたいな一介の男子高校生が適うようなものではない。
『リョー様だって完璧ではありません。苦手なことの一つや二つくらいはあります。リョー様にはできなくて、あなたにはできることが、きっと何かあるはずです』
そんな彼女の励ましの言葉に、俺の心も少しだけ救われる。
これで彼女がちょっとでも笑顔を見せてくれるなら、もっと嬉しいんだけど……あいにくその顔は無表情というかむしろ仏頂面のままだった。
と、そこへ今度は入口の方からコンコン、とノック音が響く。
「リョーさま、お食事の用意ができましたわ」
部屋の外から声がする。
フェーリの声だった。
「ああ、もうそんな時間か」
壁の時計を見ると正午過ぎだった。
そういえば腹も減ってきた。
この世界ではまだ食事をしたことはないし、一体どんな料理が出てくるのかという興味もある。
俺はすぐに腰を上げて、フェーリの元へと向かった。
〇
案内された部屋の扉を開けると、用意された料理の数々が俺を出迎えた。
純白のテーブルクロスがかけられた縦長の食卓に、色とりどりの品が並んでいる。
パンやスープやサラダといったものは、俺の世界のものとそう変わりはない。
中には得体の知れない獣(?)を丸焼きにしたものもあるが、そこから漂う香ばしい匂いは俺の食欲を搔き立てる。
「すげー……うまそうだな」
俺が素直な感想を口にすると、
「! ほ、本当ですかっ!?」
と、フェーリは心底驚いた様子で悲鳴に近い声を上げた。
「え? あ、ああ。フェーリが作ってくれたのか?」
予想外に大きな声を出されて、俺はちょっと調子が狂った。
「そ、そうです、そうです! 私が作ったのです! さ、さ、リョーさま。こちらにお座りください。お腹が空いているでしょう。早く召し上がってください!」
まるで何かに憑りつかれたかのように、フェーリは素早い動きで俺を上座に着かせた。
それから彼女は右側の席に座ると、俺が食べ始めるのを今か今かと待つような目をこちらに向ける。
「……そんなに見つめられると食べづらいんだけど」
「へっ!? あっ……ごめんなさい。私、見てないですからっ」
言いながら、彼女はその白い両手で己の目を塞ぐ。
しかしすぐに指を少しだけ広げて、隙間から俺の顔を盗み見る。
何をそんなに気にしているのだろう?
まったく落ち着きのない彼女を横目に、俺はスープに口を付けた――ところで、
「――――っ」
とてつもない嘔吐感に襲われた。
「……リョーさま?」
スプーンを口に含んだ状態で固まった俺を、フェーリは不思議そうに指の間から見つめる。
「……っ。……っ」
ものすごい勢いで胃液が逆流してくるのを、ギリギリのところで抑え込む。
まずい。
まずい。
この状況がまずいのだが、それ以上にスープがまずい。
一体どんな食材を混ぜればこんな味が出せるのか。
いや、俺の舌がこの世界に合わないだけなのか?
『よく吐き出さずに我慢できましたね、リョータ様』
「!」
唐突にシェーラの声が聞こえて、俺はフェーリとは反対側の席を見た。
いつのまにか、左側の席にシェーラが座っていた。
『なかなか壮絶なお味でしょう』
「……やっぱ、俺の舌がおかしいわけじゃないんだな?」
俺が小声で言うと、フェーリは「なんです?」と首を傾げる。
シェーラの姿が見えないフェーリからすると、俺は独り言を言っているように見えるのだろう。
『忠告するかどうか迷いましたけどね。リョー様は普段、フェーリの料理は召し上がられません。もともと専属のシェフがいますから』
「…………」
その事実を耳にして、俺の腹は急速に食欲を失っていく。
「リョーさま、お口に合いましたか?」
右側からフェーリが聞く。
未だ両目を隠したままの彼女は、長く尖った耳をほんのりと赤く染め、俺の答えを静かに待っている。
そんな健気な女の子に、「まずい」なんて言えるわけがない。
「……お、いしいよ。うん……」
ここは一人の男として、我慢せざるを得ない。
なんとか口元に笑みを張り付けて俺が言うと、
「本当、ですか……?」
フェーリは目元を覆っていた手をゆっくりと降ろして、改めて俺の顔を至近距離から覗き込む。
それから数秒と経たないうちに、彼女の宝石のような蒼い瞳から、今度はぽろぽろと涙の粒が零れ始めた。
「! えっ……フェーリ、泣いてるのか!?」
目の前の光景に、俺は素っ頓狂な声を出す。
彼女は泣いていた。
まさか俺の本音が透けて見えてしまったのか――と、そう心配した直後、
「……よ、よかった……です」
「へ?」
フェーリは涙で頬を濡らしながらも、その美しい口元にふわりと微笑を浮かべてみせた。
「おいしい、なんて……言ってもらえたのは生まれて初めてです。……本当に、うれしい……」
「…………」
この様子だと、心の底から喜んでいるのだろう。
たった一言、「おいしい」と言われただけで。
『……リョータ様、わかっていますね? あなたがおいしいと言った以上、今ここにある料理はすべて召し上がっていただかなければなりませんよ? フェーリを傷つけないためにも』
左側からシェーラが言った。
フェーリの泣き顔に半ば見惚れていた俺は、そんなシェーラの言葉でハッと我に返る。
この得体の知れない料理の山を、すべて平らげなければならない――その途方もない苦行に、一気に心が折れそうになった。