2.英雄とエルフの部屋 ~と、そこに突っ込むモンスター~
次に目を開けたときには、俺は見知らぬ部屋にいた。
赤い絨毯の敷かれた広い部屋だった。
いま俺が立っている足元には、何か巨大な獣の毛皮らしきものが広げられている。
前を向けば、軽く四人ぐらいは寝転べそうな大きなベッドがあり。
頭上を仰げば、シャンデリアのような大袈裟な照明が天井からぶら下がっていた。
「……ここが、英雄の部屋?」
まるで遠い世界を見るかのようにして、俺は呟く。
いや、実際に遠い異世界まで来てしまったのか。
未だ実感が沸かずにボーッと突っ立っていると、
「リョーさまああああっ!」
「わっ!?」
いきなりどこからか女の子の声がしたかと思うと、
俺の身体は後ろからやってきた何かに追突され、勢いのまま前方に激しく倒れ込んだ。
「! あ、あれっ? リョーさま、今日はなんだか無防備ですねえ?」
うつ伏せに倒れた俺の背中の上で、少女は意外そうな声を出す。
俺の上に、女の子が乗っている。
下半身は薄着なのか、俺の腰に当たっている少女の細い両脚からは、確かな体温が伝わってくる。
ていうかこれ、感触からして生足じゃないか?
未だ顔は見えないけれど、声の高さや体重からして、細身の子だと思う。
俺は不意打ちで強打した顔をゆっくりと上げ、肩越しにその子を見上げた。
思った通り、そこに見えた女の子は華奢な身体つきをしていた。
背は低くも高くもないくらい。
ちょうどクラスの女の子の平均といったところだろう。
歳もちょうど俺と同じくらいに見える。
が、予想外だったのはその胸の大きさだった。
全体的に余計な脂肪は付いていないように見えるのに、胸の部分だけはこれでもか! というほどの肉が盛り上がっている。
まるでメイド服のようなレース付きの衣装を纏ったその胸元からは、くっきりと谷間の線が見えていた。
「? リョーさま? なんだかボーっとしていますねえ。熱でもあるんですか?」
言うなり、女の子はその白い手を伸ばして、俺の額にぴたりと手のひらを当てた。
熱を測っているのだろう。
こんな風に触られる経験は、母親相手以外には記憶にない。
「んー……熱はないみたいですねえ」
のんびりと間延びした声で女の子が言う。
そんな彼女の姿に、俺は半ば見惚れていた。
陶器のように白い肌を持つ彼女は、どこか異国を思わせるエキゾチックな顔立ちをしていた。
金髪碧眼で、顔のパーツは俺が今までに見たこともないくらい整っている。
そして、特徴的なのはその耳。
美しい顔の両側にある白い耳は長く、まるで動物のもののように先端が尖っていた。
「もしかして、エルフ……?」
思わず、そんな単語が口を衝いて出た。
漫画やゲームの中で見たことがある。
神秘的な雰囲気を醸し出すその容姿は、間違いなくエルフのものだった。
「あの、さ」
「ふえ?」
未だ背中に乗ったままの彼女に、俺は恐る恐る尋ねた。
「君、もしかして……シェーラさん?」
「!」
ここへ来る前に、リョーが言っていた。
――何か困ったことがあったら、そのときはシェーラに聞いてくれ。彼女はいつだって君のそばにいるはずだから。
シェーラという女の子は、いつだって俺のそばにいる。
あいつの言葉を信じるなら、いま目の前にいるこの女の子こそがシェーラだ。
しかし、
「……ひっ、ひどいですリョーさま。私とシェーラさんを間違えるなんて……っ」
「へ?」
思わぬ反応に、俺は間抜けな声を漏らした。
わなわなと震えながら俺の背中から退いた彼女は、蒼く澄んだ瞳いっぱいに涙を浮かべて言った。
「私は、フェーリです。……一年前、奴隷として市場で売られそうになっていたところをあなたに救われた、エルフ族のフェーリです。お忘れですか……?」
彼女は豊満な胸の前で両手を組み、悲痛な眼差しをこちらに向けてくる。
「えっ!? あ、そっかそっか。そうだよな! 君はフェーリだ!」
どうやら人違いだったらしい。
彼女の名はフェーリ。
奴隷として売られそうになっていたところをリョーに救われた――って、あいつ見かけによらずなかなかやるな。
俺と同じ顔をしてるくせに。
「いやあ、俺ってばうっかりしてたよ。あはははは!」
そう笑って誤魔化そうとしていると、
「『俺』……?」
と、彼女は不可解そうな視線をこちらに送る。
そういえば、リョーの一人称は『僕』だった。
「いや、『僕』! 僕ってばうっかりしてたよ。あはははは!」
かなり苦しい訂正だった。
いや、そもそも隠す必要なんてあるのか?
ここで正直に「俺は別人です」と名乗れば、もしかしたら元の世界へ帰してもらえるんじゃないか?
いや、しかし。
もしも不審者扱いをされてしまった場合は?
英雄を騙った悪党として捕らえられてしまった場合、俺は果たして生きていられるのだろうか……?
そう考えると、やはり迂闊に本当のことは口にできない。
と、あれこれ悩んでいるうちに、今度はいきなり地響きのようなものが起こった。
「? なんだ、今の。地震……?」
地震大国として名高い日本に生まれ育った俺からすれば、それほど大した揺れではなかったが。
しかし異世界となれば油断はできない。
地震と見せかけて、実は巨大なモンスターがこの屋敷を襲っているのではないかと――
「モンスターだああああああっ!!」
と、俺の推理に赤ペンで丸を付けるかのごとく、部屋の外から悲鳴が上がった。
「モンスター……?」
悲鳴の主の動揺とは対照的に、フェーリは落ち着いていた。
未だ涙目ではあるものの、取り乱した様子はない。
この分だと、モンスターというのもそれほど脅威ではないのかもしれない。
そう思って、ふと窓の方へと視線を移したとき。
「――……!」
思わず背筋が凍った。
窓の外には、『目』があった。
およそ二メートル四方の窓をほとんど覆い尽くすほどの、巨大な目。
巨大な獣が、窓の外からこちらの様子を窺っていた。
全体像はとてもじゃないが、ここから確認することはできない。
俺が想像していたよりも遥かに大きなモンスターが、そこで息を巻いていた。
「…………」
「? どうしたのです、リョーさま? いつもみたいにぱぱっと追い払ってくださいな」
「むっ……むりむりむりむりむりむり」
きょとん、としたフェーリの視線に、俺は全力で否定の意を返す。
こんなとんでもなく大きな化け物を一体どうしろというのか。
しかしそうしている間にも、モンスターは屋敷の壁に体当たりを始めたらしい。
ドン、ドンと、壁ドンとは比べものにならない威圧的な音が辺りに響く。
「! そ、そうだ、呪文……!」
リョーが言っていた。
いざとなったら適当に呪文を唱えればいいと。
イチかバチか、やってみるしかない。
「っ……ええと、出でよっ、ファイア――ッ!!」
呪文、すなわち魔法といえば、まず真っ先に浮かんだのが炎系だった。
ゲームなどで魔法使いが覚える技として、炎系は外せない。
どんな巨大なモンスターでも、炎を見れば少しは怯むはず――と希望を抱いていたのも束の間、
「……あれ?」
勢いよく呪文を叫んだ割には、周囲には何も起こらなかった。
しん、という擬音がこれほどまでに似合う場面を俺はかつて見たことがない。
「……リョーさま、何です? それ」
静寂の中で、不思議そうにフェーリが小首を傾げる。
お恥ずかしい。
これじゃただの中二病じゃないか。
こんな惨めな姿を、草野球仲間の面々に見られたとしたらどうだろう。
穴があったら入りたい。
いや、穴がなくてもドリルでほじくり返して入りたい。
――何か困ったことがあったら、そのときはシェーラに聞いてくれ。
と、またしてもリョーの声が脳裏を掠める。
そうだ、シェーラが助けてくれるはずだ。
そばにいる、と言っていたのに、一体どこにいるのか。
「し……シェーラ、シェーラ! どこにいる! 僕のそばにいるんだろうッ!?」
半ば恥ずかしさを吹き飛ばすようにして、俺は叫んだ。
情けない。
こんな風に、女の子に助けを求めることになるなんて。
けれど今は仕方がない。
最低限の情報がなければ、俺は本来の力を引き出すこともできないのだから。
「シェーラ!」
『呼びましたか?』
「!」
その返答は、思ったよりも近くから聞こえた。