薄明香
闇夜に雲がゆっくりと流れている。
時折、雲の切れ間より、月が顔を覗かせていた。
先程までの荒天が嘘のようだった。
じっとりと、湿った空気が、震える様な寒気を誘っていた。
「遅くなり申し訳ありませんでした」
迎えの駕籠に乗り込む友山に、膝を着いた黒頭巾が頭を垂れた。
破れ寺の前――駕籠を挟むように屈強な陸尺が二人。
それとは別に、駕籠に乗り込む友山を見守る様に、若い武士が控えている。
「ぬけぬけとよう言う。わしが危のうなるまで、身を潜めていたんやろ」
呆れたように友山が嗤う。
「――――」
無言が黒頭巾の返答だった。
「まぁええ。たまには身体も動かさんと、呆けてまう」
気にするなとばかりに、友山が肉厚の掌をひらひらと振った。
「良い座興やったで」
友山は、山南との戦いを座興と嗤った。
「あの者は放っておいて良かでごわすか」
と、控えていた男が薩摩訛りを挟む。
どうなんや――と、友山が黒頭巾に促す。
問題ないとでも言うように、黒頭巾が静かに首を振る。
「眼が覚めた時、物の怪にでも化かされたと、騒ぐが関の山。そないなことやろ山口」
友山が黒頭巾を、山口と呼んだ。
「御意」
「まずは呪詛で徳川を揺さぶり、さらに必要であれば……」
友山の眼に、ぞくりとするような、冷たい殺気が浮かんだ。
「時に。べたにあ商会の件、どないなっとるんや?」
だが、一変。
友山は頬を緩ませると、思い出したように薩摩訛りの武士に問いかけた。
「はっ。べたにあ商会とは、長崎で万事滞りなく話を進めちょりもす」
「このご時世。攘夷攘夷と口角泡を飛ばしてみたところで、万に一つの利もありゃせん。えげれす。ふらんす。結構やないの。こちらもとことん、利用させてもらわなぁ。そやろ、小松はん」
「はっ」
「そないなら長州にも、もう少し派手に働いてもらわんと、かなわんなぁ」
くっくっと、友山が嗤いを噛み殺す。
「これからが忙しくなるんや。薩摩隼人の意地見せて、よろしゅう頼むで」
「我ら薩摩一同。必ずや一命を賭して」
小松が深々と頭を下げる。
「山口。お前は、新撰組――いや、黒谷の動向から眼を離すんやないで」
「承知」
と、黒頭巾――山口二郎は暗い光を宿した瞳で、頷いた。
「岩倉様――」
と、呼びかける小松を、友山の冷たい視線が見下ろす。
「し、失礼致しもうした」
慌てたように、小松が平伏する。
「その名に戻るんは、まだしばらく先のことや」
友山が口角を持ち上げる。
「しかし、野にはまだまだ面白い男がおるもんやな。今宵は久々に愉快な刻を過ごせた。ほな岩倉へ帰るとしましょ」
友山は天に向かい、満面の笑みを浮かべた。
雲間から零れた月明りが、山南の瞼をくすぐった。
先程の落雷で開いた屋根の穴から、月明りが射しこんでいる。
雲の流れが速いのだろう。
だが、いくらもしないうちに、月が再び雲に隠れると、荒れた本堂を照らすのは、今にも消えそうな護摩壇の火だけである。
山南はゆっくりと身を起こすと、額に手を当て、頭を振った。
大きく息を吸い込むと、燻された刺激臭が鼻をつく。
落雷により焼け焦げたところに雨粒が落ち、ぶすぶすと燻っているのである。
六尺ほどあった明王像は、僅かに台座を残すのみで、真っ二つに裂けていた。
命拾いをしたのか――
あのまま黒頭巾と剣を交えていたら、果たして命があっただろうか。
恐ろしいまでの使い手であった。
山南は剣を支えに、立ち上がると、ふらつく脚どりで、崩れかけた護摩壇の前に立った。
落雷の衝撃で、護摩壇も崩れていた。
濡れそぼる床板の上で、消え入りそうに火が揺れている。
その中に、半分焦げた木札のようなものが、辛うじて残っていた。
山南は木札を拾い上げ、燻る火を消した。
下半分が焼け焦げたそこには、辛うじて“徳川”の二文字が残されていた。
「何者なのだ……」
重苦しい鉛のような唾を、山南は乾いた咽喉に流し込む。
その瞬間。
ふっ――と、仄暗い火が消え、辺りは刹那の闇に染まった。
ここのところ、お盛んだね――と、能天気に声を掛けてきたのは原田左之助だった。
どうやら昨夜、遅くに屯所に戻ったところを、左之助に見られていたらしい。
「愛想の無い斉藤ちゃんや、まじめなサンナンさんまで朝帰りとは、今日あたり土方の旦那の雷が落ちるかもよ」
俺も人の事は言えねぇけど――と左之助が笑った。
「あれ?なんか焦げ臭くない?」
左之助が、山南に向かい鼻を鳴らした。
「気のせいではないか」
努めて冷静に山南が答える。
まぁ、いいか――と、左之助が背を向けた。
だがそこへ、立ち去る左之助の前方から、斉藤が歩いてきた。
「お盛んなことで、結構。結構」
すれ違いざま、左之助が斉藤の肩を気安く叩いた。
だが斉藤は、何事も無かったかのように、眉一つ動かさなかった。
「おはようございます」
しかし、左之助には愛想無く応じた斉藤が、山南に向かい会釈をする。
「おはよう」
「昨夜はごちそうさまでした」
斉藤の眼元が微かに綻んでいる様に見えた。
「こちらこそ、楽しいひと時だった」
互いに足も止めぬ、すれ違いざまの、ほんの束の間。
立ち去る斉藤が置いていった、燻されたような残り香に、山南は振り返らずにいられなかった。