光陰剣舞
遅いぞ――
と、友山がほくそ笑む。
「片づけろ」
背を向けると、友山が護摩壇に向かう。
「待て!」
友山の後を追おうとする山南の眼前に、黒頭巾が立ち塞がる。
「退いていてもらえませんか――」
柔かな口調とは裏腹に、山南の眉間には険しい皺が寄る。
右に身を外す山南に、黒頭巾が重なるように動く。
刹那――
一切の予兆も見せずに、山南が体を左に振った。
だが――黒頭巾は写し鏡のように、寸分遅れずに従う。
そのまま、山南と黒頭巾は滑るように走り出す。
割れた床板を避け、山南が半歩引けば、黒頭巾は半歩前に出る。
山南が爪先半分、前に出れば、黒頭巾は爪先半分引く。
瞬きひとつほど速度を上げれば、瞬きひとつ速度を上げる。
左右前後、緩急まで。
互いの呼吸すら重なる様に律を刻み、まさに阿吽の如く拍子が重なる。
唯一、差異があるとすれば、抜身の剣を互いに右手に携えている事だけだ。
それにしても――仮に黒頭巾が、山南の心を読んでいたとしても、同じように動くには僅かに動きが遅れるであろう。だが眼前の黒頭巾は、互いに約束された動きをなぞるかの如く、山南の動きと寸分違わず同調していた。
まるで影法師のように付いてくる黒頭巾――恐ろしいまでの手練である。
こうしている間にも、友山は護摩壇の前に座り込み、再び印を組み始めた。
埒が明かない――焦れる山南。
そんな山南のすぐ左側に、本堂を支える柱が迫る。
大人が三人がかりで、ようやく抱えられるほどの太さだ。
このまま進めば二人ともに激突する。
柱をどう避けるかが、状況を動かすだろう。
仮に山南が半歩下がれば、間合を保つべく黒頭巾は半歩前に出よう。
寸分違わず影法師として動く――これこそが、この拮抗した状況を生み出している最大の要因なのである。
だがそれでは、黒頭巾は間違いなく柱にぶつかることになる。
それは黒頭巾も分かっている筈だ。
なにより、柱に近づきすぎれば、進行方向に剣を構える黒頭巾は、柱が邪魔をして不利になる。
ならば――剣が柱に干渉しない絶妙の間合い。
柱の半間ほど手前――黒頭巾が仕掛けるのはそこしかあるまい。
その刹那の一点。
そこより薄紙一枚手前の点――山南は溜めを作らず、脚を引き上げるようにして宙に跳んだ。
奔る速度は一切緩めていない。
黒頭巾にしてみれば、いきなり山南の姿が消えたようにしか見えないであろう。
だが――六尺は跳んだ山南の眼の前に、射すくめる様な黒頭巾の眼があった。
山南の動きを読んだか、それとも同じことを考えたのか。
両者は糸で繋がれたように、同時に宙にいた。
その刹那――黒い頭巾の奥の瞳と、視線が絡まる。
感情を押し殺したようなその瞳に何故か、たまらない悲壮の色を見た気がした。
だがその瞬間、山南の頭頂部から冷たい氷の如き殺気が滑り込む。
一瞬遅れてくるは必定であろう黒頭巾の剣に、山南は脊髄反射で剣を振り上げた。
頭上で激しい火花を散し、互いの剣が弾かれる。
「むっ」
「――」
床に降り立つが早いか。
黒頭巾の剣が、息つく間もなく山南を襲う。
まるで機械仕掛けのように、淡々と繰り出される攻撃は、激しく正確である。
だがそこに、人の体温や感情は一切窺えない。
人が何かの動作をするとき、そこには何らかの気配が動く。
何かを成そうとするとき、そこには必ず意念が動き、それは気配となって肉体の動きに先んじて動く。
それは攻守ともに同じであり、つまるところ、この意念の読みあいこそが、勝負の分水嶺であると言っても過言では無い。
勿論、この意念や気配を消して動く術はある。
だが、自ら仕掛ける激しい攻めで、ここまで己を殺して仕掛けるなど、まるで死人のようである。
眼前の黒頭巾の男――山南が知りうる中でも、恐ろしいまでの手練れである。
それでも、劣勢に追い込まれながらも、山南は黒頭巾の剣を紙一重で捌いている。
面白い――山南の口元が、微かに綻んだ。
咽喉元を狙い突き込んできた剣先を、絡めるように外に弾くと、山南が滑るように前に出た。
その動きのまま山南の剣が、黒頭巾の顎先を下から斬り上げる。
と、その切っ先が霞むように消えた。
少なくとも、黒頭巾には山南の剣先が見えなかった。
ほんの僅か。
黒頭巾の瞳に、動揺が走った。
それはこの戦いにおいて、黒頭巾が初めて見せた意念の揺らぎだった。
だがそれも一瞬のこと。
黒頭巾は弾かれた剣を強引に引き戻し、脇腹に寄せるようにして刃を立てた。
ぎゅぃん――
激しい金属音が、本堂に響く。
黒頭巾の顎先を狙ったはずの、山南の剣が、胴の辺りで弾かれた。
完全に気配を断たれた山南の刀身は、その姿すら霞ませ、在らぬ角度から斬り込む。
“空寂”――山南の得意とする、いわば隠形の剣の極みである。
それを寸前で受けた黒頭巾の口元が、微かに動いた。
嗤った――?
山南がそう思った次の瞬間だった。
黒頭巾の腰が、すっと落ちた。
剣先はぴたりと山南を定めたまま、刃が返され天を向く。
剣の鍔を、こめかみにこすり付けるように構える姿は、まるで弓で狙いを付けるかのようだった。
再び、闇に沈んだ様に、黒頭巾から一切の意念が消えていた。
だがその姿は、獲物を前に一撃必殺の牙を剥く野獣の様である。
気配は見せなくとも、帯電したように高まる殺気だけが、びりびりと肌を焦がす。
のうぼう たりつ たぼりつ はらぼりつ
しゃきんめい しゃきんめい たらさんだん おえんびそばか――
その時だった。
大元帥明王真言が、再び本堂に響き始めた。
だが、友山に気を向ける余裕は、今の山南には無い。
山南は覚悟を決めた。
青眼に構えた剣を鞘に戻すと、右足を前に腰を落とした。
左の手を鍔にかけ、右手は柔らかく柄に添える。
居合――最速の鞘走りを誇る抜刀を山南は選択した。
のうぼう たりつ たぼりつ はらぼりつ
しゃきんめい しゃきんめい たらさんだん おえんびそばか――
真言に重なるように、天が啼く。
ごろごろと、雷が鳴動し、大粒の雨が屋根を叩く。
のうぼう たりつ たぼりつ はらぼりつ
しゃきんめい しゃきんめい たらさんだん おえんびそばか――
ぐるぅおぐるぅぉ――
ぐるぅおぐるぅぉ――
山南と黒頭巾の間合いはおよそ二間。
まさに一足一刀の間合い。
二人の間に、眼に見えない磁場が、帯電したように張り詰めていく。
のうぼう たりつ たぼりつ はらぼりつ
しゃきんめい しゃきんめい たらさんだん おえんびそばか――
ぐるぅおぐるぅぉ――
ぐるぅおぐるぅぉ――
帯電した磁場が、真言と雷の鳴動に刺激され、空気を震わせる。
のうぼう たりつ たぼりつ はらぼりつ
しゃきんめい しゃきんめい たらさんだん おえんびそばか――
ぐるぅおぐるぅぉ――
ぐるぅおぐるぅぉ――
一瞬――山南の視線と、黒頭巾の視線が真ん中で交錯する。
澄んだ迷いの無い瞳。
先程までの死人のようなそれとは明らかに違う。
それを見た山南の眼尻に、柔らかな皺が浮かぶ。
だが、それとは裏腹に二人の間の緊張は、破裂寸前まで膨れ上がっていく。
のうぼう たりつ たぼりつ はらぼりつ
しゃきんめい しゃきんめい たらさんだん おえんびそばか――
ぐるぅおぐるぅぉ――
ぐるぅおぐるぅぉ――
のうぼう たりつ たぼりつ はらぼりつ
しゃきんめい しゃきんめい たらさんだん おえんびそばか!
叫ぶように声を荒げる友山。
喝っ!
その瞬間――山南と黒頭巾は同時に奔った。
二人の間で帯電する磁場を引き裂くように、黒頭巾の切っ先が迸る。
二人の間の空気を焦がすように、山南の剣が鞘走る。
刹那!
天が割れた。
純白の光が空気を焼き焦がし、轟音が全てを揺さぶった。
爆発的に膨張した衝撃が、激突寸前の山南と黒頭巾を弾き飛ばした。
雷が本堂に落ちたのだ。
屋根を突き破った落雷が、護摩壇の奥にあった大元帥明王像を引き裂いた。
木製の立像は爆発四散し、一瞬で炎を上げた。
その衝撃で、山南と黒頭巾は吹き飛ばされたのだ。
滝のような大粒の雨を受け、炎を上げる明王像が白い蒸気を上げ、燻っていく。
「我が声、天意に届きたり!」
白い靄と豪雨の中、唯一ひとり友山だけが、天を仰ぎ嗤っていた。
「逆臣死すべし。外寇滅すべし。この神州が鳳凰として飛び立つを邪魔するものは、何人たりとも許さんと天も言っておるわ!」
友山の喜悦に満ちた高笑いを耳に、山南の意識は深い闇に落ちて行った。