陰陽問答
値踏みするような視線が、じっとりと山南を見つめる。
「それは構やせん。別にこの寺はわしのもんやない。言うなればまさしく御仏のものや。誰が入ろうと構わん」
先程までとは違い、その言葉に厳しさは無い。だが、何事かを推し量るような、感情を窺わせない眼が、無遠慮に山南に向けられている。
「だが見てのとおり、わしは祈祷の真っ最中や。誰にも邪魔されへんよう、ひとの来ぃへんここにおるんや。このまま黙って去ぬるが、互いの為や思わんか」
感情の色がまるで窺えない。それだけに、僧形の男からは、一切の有無を許さない強い意志を感じる。
「珍しい修法をなさっておられるようだ」
だが山南は気にするそぶりも無く、本堂に足を踏み入れた。
「やはり中の方が暖かいですね」
「わしの話が聞こえんのか?」
ぴくりと、僧が眉を引きつらせた。
「これはどうして中々に立派な立像――大元帥明王ですか」
場違いな珍入者を睨みつける本尊を見上げながら、山南が感心する。
ほぉ――と、僧が眼を見開いた。
「まさか御坊が祈念されていたのは――大元帥法ですか?」
「武家のくせに博識やのぉ」
どこか嬉しそうに、僧が口角を歪めた。
一目で、大元帥明王と見抜いた山南の眼力に感心したのだ。
大元帥明王は東寺にも安置されているが、知らぬものは“大元帥明王”と呼ぶ。だが、真言密教においては“すい”は発音せず“大元帥明王”と呼ぶのである。
「それにしても、いくらこのようなご時世とは言え、さすがに大元帥法を行うとは、なんとも剣呑、剣呑――」
『大元帥法』はその名の通り、大元帥明王を本尊として祈念する真言宗の大法である。本来は敵国降伏や外寇からの防衛を祈願するものである。
古くは平安時代末期。承平天慶の乱において、朝廷に反旗を翻し『新皇』を名乗った平将門や、藤原純友を調伏する為に執り行われた。更には、鎌倉時代末期においては二度にわたる、元寇の襲来に対しても執り行われたという。
その験力は余りにも強大なため、宮中の外で修されることは厳禁であった。
長徳元年(995年)の花山院闘乱事件においては、時の右大臣藤原伊周が政争において、この大元帥法を修したとの疑いにより、大宰府に左遷されるという事件まで起こっているのである。
つまり、それほどまでに強力な秘術なのである。
そのような、一般の人間の知る筈の無い秘術を、一目で看破した山南に対し、僧形の男が感心したとしても不思議はない。
今から十年前。奇しくも、元寇ならぬ黒船の来航により、日本国内は未曽有の大混乱となった。
開国し、西欧諸国との国交を受け入れんとするもの。
鎖国を固辞し、西欧人を打ち払わんとするもの。
さらに加え、この混迷の事態に翻弄される徳川幕府に対し、牙を剥かんとするもの。
それに対し、幕府に対しあくまでも忠を尽くすもの。
――それぞれの思惑が交錯し、後に“幕末”と呼ばれるこの時代は、混迷の極みを見せている。
そのようなご時世に、独りこのような場所で、国家安寧・怨敵調伏を祈念する大修法を執り行うとは、この僧形の男、尋常なるものではあるまい。
「外寇賊臣入り乱れ、混沌とするこの時勢において、この刻この瞬間に、怨敵を調伏し国家安寧を願う大祈願を執り行わんで、いつ行なうんや」
僧は、山南の眼を見据えた。
「確かに。御坊のおっしゃること御尤も」
静かに頷きながら、山南はその視線を正面から受けた。
「ですが、そもそもこの祈願は一個人がみだりに執り行うには、余りにも強大過ぎると、固く禁じられていると聞き及んでおりますが」
「……ほんまに良ぉしっとるのぉ」
その声には、どこか嬉々としたものが含まれていた。
いつの間にか僧形の男は、護摩壇に背を向け、山南に向き直っている。どうやら山南と問答をしているようなこの状況を、どこか楽しんでいるようだった。
「大元帥法は国家安寧を願うための祈願で有りましょうが、果たして御坊の御祈念いたすは、それのみでありましょうか?」
「なにが言いたい」
「怨敵調伏――」
ぽつりと、山南が呟いた。
「失礼ながら。一心不乱に真言を唱え修法を執り行う御坊の背中――そこに鬼が見えました」
「わしの背中に鬼を見たと言うんか」
くつくつ――と、僧は肩を揺らした。
「いかにも。最早これは呪――御坊が祈念するのは、正しく怨敵調伏を目的とした大呪法に相違ないのではありませんか?」
答えを求めるように山南が、護摩壇の炎で逆光になった僧の顔を見つめている。
一呼吸――
二呼吸――
激しく降り注ぐ雨が叩きつける音だけが、静寂を浮き立たせる。
どろどろどろ――と天が咽喉を鳴らす。
と、護摩壇の炎が爆ぜ、火の粉が舞った。
「そうや。わしは怨敵を打ち滅ぼすために、大元帥明王に大願をかけておったのや」
それがなんぞしたか――と、僧が言った。
「御坊自ら仰るように、混迷極めるこの時勢の中で、なにが正しく何が誤りであるかも判別つかぬと言うに、なにを持って怨敵と成されるか?」
「何を持って怨敵とするか?知れたことよ。国家安寧に仇成すもの全てが怨敵ぞ。皇尊を蔑ろにし、この秋津島に禍根なす不届きものに天誅を下さんがため、明王の中の明王たる大元帥明王の力を借りる――それになんの問題があろうよ」
僧が高らかに言い放った。
「それは神仏の力――呪法を用い攘夷を成すということですか」
「攘夷?天下に仇なすは夷狄とは限るまい。君側の奸、獅子身中の虫――この日ノ本に巣食う不届きなる逆臣こそが、真なる諸悪の根源ではないんか」
見よ――と僧は、大元帥明王像を挟むようにして飾られた、極彩色で描かれた二つの曼荼羅絵図を指示した。
「胎蔵界と金剛界。金胎両部は不二にしてひとつなり」
向かって正面に大元帥明王像。
その右、東側に大日如来の真実“理”を表す胎蔵界曼荼羅。
挟んで左、西側には仏へ至る過程“智”を表したと言われる金剛界曼荼羅。
炎に照らし出された曼荼羅絵図と大元帥明王に、山南は順に視線を巡らせた。
「金胎不二。陰陽同一。表裏一体。二極は不可分にして全を成す。それは公武も然り――」
僧の低い声が、雨音に溶けていく。
「欠けしものが互いに補い合い和合す。然るに、悠久無上の安寧がもたらされるのであろうよ」
光あれば影あり、影無くして光無し。陰無くば陽も無く、陽無くば陰も無し――“将門流陰陽術”を修めし山南には、僧の言葉の意味するところが、良く分かる。
だが――
「なれど、野卑で下賤なる成り上がりの武門如きが、この国の舵をとるなどと嘯き、皇祖神より連なりし主上を蔑ろにしてきた結果が、この有様とは思わんか?」
「それは徳川の幕府の事をおっしゃっているのですか?」
すっ――と、山南の眼が細められた。
「そのおっしゃり様では、幕府を大呪にて打倒し、外寇――即ち、攘夷を断行すると聞こえますが?」
「温いの……」
「温い?」
「ぬしは、今のこの状況をなんと考える?」
「この日ノ本の現状ですか?」
いかにも――と、僧が含んだ様に頷く。
嘉永六年(一八五三年)二〇〇年以上も鎖国を続けた日本に対し、開国を迫る黒船の来航から始まった一連の動乱は、国論を大きく二分した。いわゆる開国論と、開国を認めず外国を打ち払うべしと言う、攘夷論である。
これに加え、朝廷の許し無く、独断で開国を決めた幕府に対し反発し、朝廷の権威を背景に異を唱えるものが現れる。俗にいう“尊皇派”である。
あくまでも、幕府という大黒柱を中心に、朝廷を屋根に担ぐという“佐幕派”と、政治の主権を天皇に戻し、朝廷が政治を取り仕切るべしという“尊皇派”はそれぞれが開国論と攘夷論と複雑に結びつき、時代は主義主張の入り乱れた混迷の相を露わにしていた。
そんな中でいち早く“尊皇攘夷”を掲げ、京の朝廷に近づいたのが長州藩である。
長州は、二六〇年以上続く徳川政権で、冷遇されてきた公家に近づき「夷狄を打ち払い政治を朝廷に戻すべき」と朝廷に働きかけた。
その過激な手腕は“天誅”の二文字を持って、政敵に対し凶刃を持って多くの血の雨を降らせた。だが、そのある種、熱にうなされたような過激な思想は、流行病のように多くの同調者を呼び、京の都は狂気の坩堝と化した。
しかし栄枯盛衰――その余りにも突出し過ぎた過激な活動は、朝廷の反感を買い、文久三年(一八六三年)いわゆる「八・一八の政変」を持って長州と、三条実美ら七人の公卿は都落ちすることとなった。
だがそれでも、尊皇攘夷派の志士たちの多くは京に潜伏し、再起に向けて牙を研ぎ続けている。
山南ら新撰組の役目は、まさにこの尊攘志士たちの取り締まりだった。
一方、長州に変わって京に入ったのは、公武合体を推し進める薩摩藩。
薩摩は諸藩に先んじて上洛を果たしていたが、長州の策略により一度、朝廷の御側から落とされた苦い経験があり、「八・一八の政変」はいわば意趣返しとも呼べるものだった。
このように、権威が弱体化し足元が揺れ始めた江戸の幕府に対し、急速に力を強める薩摩や長州、土佐などの西南の雄藩。混迷し揺れ動く国内情勢の隙を突き、虎視眈々と這い寄る西欧列強諸国。
開国により、荒海に放り出された日本の現状は、先行きの見えぬ闇夜の嵐に翻弄される小舟のようであった。
先程、僧が言ったように“外寇賊臣入り乱れ”とはまさに正鵠を得た言葉だった。
「尊皇然り、佐幕然り。まさに御坊が先ほど申されたとおり、陰陽両極、金胎両部が和合してこそ、この日ノ本に安寧たる日々が確約されるに相違ないのでしょう」
だが――と山南が闇に霞む僧を見つめた。
「朝廷であれ幕府であれ、その礎を支えしは、名も無き多くの無辜の民。民草が無用な血を流し、無駄に命を散らすことなどあってはならぬ事――」
静かだが、山南の言葉が斬りつけるように空気を震わせる。
「日々を懸命に生きる、無辜の民草の笑い声こそが、この日ノ本の豊穣を祈念せし祝詞――即ちそれこそが鳳凰の翼の羽の一つひとつなのではありませんか」
「――ほんに初心いことよ」
「なにっ」
「いきり立つな」
微かに眉間に皺を寄せた山南を、僧が制する。
「青い事を恥ずかしげも無く――」
僧が嘲るように微笑んだ。
「まぁええやろ。なんであれ、鳳凰が大きく羽ばたくためには、力を失い腐りきった翼を斬り捨て、その身を業火に投じて、灰になるまで燃やし尽くすことも必要や」
その時――にわかに外が明るくなると、獣が低く唸りを上げるように、天が啼いた。
「重ねてお訊ねするが、御坊が成す怨敵調伏祈念の矛先と言うのは――」
山南が声を固くする。
「それを訊いてどうする?」
ごろごろ――と、天が低く啼いた。
「神代のころならいざ知らず。人智を持って新しき時代を切り開かんと、己の命を糧に数多の者たちが奔走しているこの刹那――」
ぱちり――と護摩が爆ぜ、ひときわ高く舞い上がった火の粉が、大元帥明王像を照らす。
「神仏如きに新しき世の差配を委ねる事、看過致しかねる」
夜空を真っ白な刃が引き裂いた。
天地を砕くような轟音が、本堂を激しく揺さぶる。
「ぬし、名をなんと申す」
一際強く、雨が降りしきる。
毅然と立つ山南に向かい、僧が訊ねた。
「三南三郎と申します」
「さんなん――」
僧が噛みしめるように繰り返す。
「ひとに名を訊ねたのであれば、ご自身も名乗るが礼儀かと存じますが?」
「さもありなん。我が名は――友山や」
僧――友山が口元を歪めた。
「では三南とやら。神仏如きの力にすがるを良しとせぬ、と言うんなら、この現状どないするんや?」
ごろごろ――と、余韻を残す雷鳴に乗じるように、友山の内に怖いものが凝っていく。
「ほれ見ぃ。天に座す雷帝も怒っちょる」
「ひとの世の明日は、ひとの手で作るが必定。過ぎたる無用の神仏の加護は御止め頂きたい」
「出来ぬと申せば?」
けく――と、友山が嗤う。
「力ずくでも――」
山南の腰が落ち、滑るように足が前に出た。