怨雷囁
それから程なくして、山南も店を後にした。
雨の弱まる気配は無く、結局は、山南も主人に傘を借りて店を後にした。
五条橋を渡り、壬生の屯所へ向かい始めてどのくらいが経ったのだろう。
一陣の風が吹き抜けると、にわかに天を蒼白い光が引き裂いた。
一瞬遅れて、破裂音が響き渡ると一転、轟音が大地を震わせた。
同時に、先ほどまでとは打って変わり、礫のような雨粒が叩きつけるように山南を襲った。
地面を叩きつける激しい雨粒が視界を白く染め、宵闇が一瞬で、白い無明へと変わった。
これでは折角の傘もまるで役には立たない。
困り果てた山南は、止むを得ず近くにあった破寺の山門の下に避難した。
「これはどうにも――」
参りましたね――と、山南は身を震わせた。
春雷は春の訪れを告げるという。だが空気が急激に冷えてくる。
これでは濡れた身に寒さが堪える。
それに走って壬生の屯所に戻るにしても、いささか距離があり過ぎる。
この荒天の中を帰るのはいただけない。
長くは降るまい――
と、暫しの雨宿りを覚悟するが、傘をたたむ手が躊躇に止まる。
瓦が落ち、朽ちた穴だらけの山門では、横殴りの雨を気休め程度にしかしのぐことが出来ない。
それに加え、冷たい風も吹きつけるとあっては、寒さが身に堪える。
仕方がない――
たとえ朽ちた境内とはいえ本堂であれば、ここに居るよりは多少なりとも風雨をしのげるだろう。
山南は朽ちた門をくぐり、荒れた境内に脚を踏み入れた。
と、その時――微かに何かの気配を感じた。
激しく地面を叩く雨音に混じって、微かに声が聞こえる。
最初それは気のせいかと思った。
だが雨音に掻き消されながらも、それは独特の拍子に合わせ、確かに聞こえてくる。
時にねっとりと絡みつくように。
また、時に強く雨を切裂くように。
それはまるで、詠うように囁くように――
律動をもって響くその声からは、人のもつ強い情念を窺わせる。
こんな破寺に誰が――己も知らぬうちに、山南の口角が好奇に持ち上がる。
激しい雨音に、己の気配をゆるりと溶け込ませると、山南は境内に脚を踏み入れた。
のうぼう たりつ たぼりつ はらぼりつ――
しゃきんめい しゃきんめい たらさんだん おえんびそばか
ねっとりと、その声はまるで睦言のように、空気を撫でる。
ばちん――と護摩が爆ぜると、血飛沫のように火の粉が舞い上がった。
破寺の本堂。
暗闇の中に煌々と火が燃えている。
とうの昔にうち捨てられ、忘れ去られた寺に護摩壇が組まれている。
三角に組み上げられた護摩壇に、赤々とした炎が揺れていた。
闇に包まれた本堂の中で、そこに火が灯ることにより、周囲の闇の濃さが一段と際立っている。
そんな闇の中、護摩壇の炎に炙られるように、異形の本尊が浮かび上がっている。
全身に無数の蛇を巻き付け、両の足で鬼を踏みしだくその姿は、荒ぶる鬼神の如き。
髪は逆立ち、見開く瞳は吊り上る。
噛みしめた口元からは、獣の如き牙が覗いていた。
まるで自身が、悪鬼そのものであるとでも言うような、忿怒とも悲哀とも言えぬ形相。
八尺を超すその筋骨隆々たる六臂の腕には、それぞれ――
三鈷杵。
五鈷杵。
鉞斧。
宝棒。
宝剣。
――を携え、残る左手は人差し指を突き立てた忿怒印を結ぶ。
護摩の炎に炙られるように、赤々と浮かび上がった忿怒の相貌は、猛り荒ぶる嵐の様である。
大元帥明王――そもそもは、インドの悪鬼であったが、仏に帰依し仏法を守護する明王となった。他の明王を始め、十二神将や八部鬼衆、夜叉や阿修羅など全ての総帥というところから、大元帥明王と呼ばれるに至った。
このような破寺にあるのが信じられないほど、見事な仏像だった。
その忿怒の明王の前に、僧形をした黒い背中がどっかりと腰を降ろしている。
鉄の釜で泥を煮立たせている様な、得体の知れぬ、ずんぐりとした背中だった。
のうぼう たりつ たぼりつ はらぼりつ
しゃきんめい しゃきんめい たらさんだん おえんびそばか――
僧形の男が護摩をくべると、天井より染みてきた雨垂れを、燃え上がる炎の舌が舐めるようにして掻き消す。
のうぼう たりつ たぼりつ はらぼりつ
しゃきんめい しゃきんめい たらさんだん おえんびそばか――
女の耳元で囁くように――真言が空気を嬲る。
のうぼう たりつ たぼりつ はらぼりつ
しゃきんめい しゃきんめい たらさんだん おえんびそばか――
一転。
突如、身の裡に昂ぶる感情を叩きつけるように、その声が本堂に響き渡る。
僧形の男の背中からは、どす黒く煮えたぎる情念が噴き出していく。
まるで、眼前に在る大元帥明王に同化しようとでもいうのか。
僧形の男の纏う強烈な何かが、まるで磁場のように空気を歪めている。
のうぼう たりつ たぼりつ はらぼりつ
しゃきんめい しゃきんめい たらさんだん おえんびそばか――
煮えたぎる怒りを、真言の一音一音に練り込めるように――
その瞬間、ひときわ大きな雷鳴が轟いた。
まるで巨大な銅鑼と化したかのように、地響きのように本堂が震える。
のうぼう たりつ たぼりつ はらぼりつ
しゃきんめい しゃきんめい たらさんだん おえんびそばか――
僧は一瞬たりと臆することは無く、むしろ怨嗟にも似たその真言が、荒れ狂う雷鳴を打ち消すかのように、本堂の空気を震わせた。
うねるような震えが治まったその時――
「――去ね」
ぽつりと、唐突に真言を止め、誰もいない背後に向かって僧が言い放った。
「今すぐ去ぬるんであれば、そのまま黙って帰したる」
だが開け放たれた戸の向こうでは、叩きつけるような激しい雨と、唸るような風の音がするばかりで、何者の気配も無い。
僧行の男は振り向くと、
――カゥアンッ!
その口から、鐘を打ち鳴らすような裂帛の気合が迸った!
刹那――真っ白な光の刃が夜空を切裂いた。
天が砕けたかと思うほどの、雷鳴が轟き、吹きこむ風が、嵐のように本堂を駆け巡る。
不思議な事に、それでも護摩壇で燃える炎は消えることなく、むしろ風にあおられた分だけ、その勢いは激しく増したようだった。
まるで男の発した気合が、天から雷を呼び込んだかのようである。
だが一転――無明の静寂がその場を支配した。
次の瞬間、何事も無かったかのように、激しく降りしきる雨音が再び本堂に響きわたる。
――気のせいか。
釈然としない表情を浮かべたまま、僧形が護摩に向き直ったその時だった。
「雨が余りにも酷いので軒を借りておりました」
なんとも場違いな、春風のような声が背中越しに響いた。
「なにっ」
突如、出現した人の気配に、僧は驚いたように振り返った。
「破寺と思い込み、勝手にお邪魔してしまいました。御祈祷の邪魔をしてしまい何とも申し訳ない」
目元に涼やかな笑みを浮かべた山南敬助が、朽ちた戸の前で、慇懃に頭を下げた。