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雨情夜

 静かな夜だった。

 ただ粛々と、雨が降っている。

 まるでこの世の全てを覆うように、柔らかな雨が夜の(とばり)を包み込んでいた。

 格子の隙間から、降りしきる雨を見つめる山南敬助の眼尻に、何とも柔らかな皺が浮かんでいる。


「なにか面白い事でもありましたか?」


 ぽつりと、愛想のない声が山南の意識を引き戻した。


「いえね。静かな夜だと思いまして」


 静寂とは、必ずしも無音が生み出すものではない。

 無音は時に饒舌に、己が静寂を生み出していることを主張しようとする。

 逆に、ただ粛々と天より零れ織りなす雨粒の調べの方が、世の静寂をしみじみと実感させることもある。

 山南が耳を傾けていたのは、そんな雨だった。

 夕刻から降り出したせいだろうか。

 すでに市中には人の姿も無く、店の中に居る客も数えるほどである。

 だがそれでも酔客がいるのである。それなりに話し声も有れば、盃を傾ける音もする。

 店の奥では主人が、客に供する肴を用意する音なども、当然耳に入ってくる。

 それでも、格子の向こうで奏でる雨の調べが、そんな人間の営みを全て包んでしまったかのように、静寂を感じさせた。


「――静かな夜ですね」


 僅かに口元を綻ばせ、斉藤一が徳利を差し出した。


「たまには良いものですね。こうして二人で酒を酌み交わすのも」


 盃を受けると、山南はそれを飲み干す。


「正月の伏見。あれ以来です」


 山南の返盃を、斉藤が飲み干した。

 今年の正月。二人は非番の際に伏見にて、ある事件に巻き込まれた。その時の事を斉藤は言ったのだ。

 二人の前には、茄子の漬物。それに、さよりと花菜の天ぷらが置かれている。

 山南は、抹茶と塩を合わせたものを天ぷらに振ると、口に運んだ。

 味の余韻の残っているうちに酒を呑む。

 すると、春の訪れを告げるかのように、爽やかな風味が口中を満たすのだ。

 そんな山南の姿を見て、斉藤が再び口元を綻ばせる。


『京都守護職御預 市中見回り 新撰組』


 文久二年。そもそもは、将軍・徳川家茂の上洛に際し、警備の目的で集められた浪士組に端を発する。それが幾つかの変遷を経て、京都守護職・松平容保により、不逞浪士の取り締まり及び市中警備を任される。

 翌、文久三年八月。“文久の政変”を期に、松平容保より直々に「新撰組」の名を拝領する。

 山南は新撰組の副長。斉藤は助勤と、共に新撰組の幹部を務めていた。

 そんな二人がこの店で顔を合わせたのは、全くの偶然だった。

 私用で出掛けていた山南は、鴨川を超えたあたりで急な雨に降られた。一刻の雨宿りにと入ったこの店で、偶然にも斉藤が酒を呑んでいたのだ。

 二人が雨宿りの手慰みとばかりに、酒を酌み交わし既に一刻――一向に雨のやむ気配は無かった。


「ところで、斉藤君の剣は一刀流だったかな?」


 斉藤一――新撰組でも三本指に入ろうかと言う剣の使い手である。

 天然理心流の宗家にして、新撰組局長である近藤勇を除けば、その弟子である“天才”沖田総司。神道無念流の達人である永倉新八に並ぶ、剣の達人である。

 山南とて、小野派一刀流や北辰一刀流を修めた剣士である。だがこの三人を前にしては、一歩引かざるを得ない。

 そうは言えども、山南とて剣の腕前は一級品である。

 だが、斉藤の振るう太刀筋は、山南知る一刀流の太刀筋とは少々、異彩を放っている様な気がしていた。

 平素より寡黙で、あまり会話を交わすことの無い斉藤に対し、いつか訊ねてみたいと思っていたのだ。


「以前、江戸にいた際、父の奉公先の方に」

「では溝口派というわけですか?」


 斉藤の父は、江戸で会津藩士の下で勤めていたと聞いたことが有る。

 会津藩には俗に『会津五流』と呼ばれる剣術流派が五つ存在する。その中で一刀流といわれて思いつくのは溝口派である。


「なにか?」

「いや。常々、斉藤君の剣の腕前には敬服しているのだが、その強さの要因はいったいどこに有るのだろうと思ってね」


 本心からでた言葉である。伏見の一件では、斉藤の剣によって危ういところを救われたのである。


「恐縮です」


 朴訥と答えると、酒を口に運んだ。


「一刀流でも、独特のクセが有るように感じるのは気のせいだろうか」


 屈託のない山南の言葉に一瞬、斉藤の動きが止まった。


「確か会津には太子流(たいしりゅう)とかいう剣術流派もあるとか。なんでも、かの聖徳太子が夢の中で伝えたとか――」


 山南が含むように微笑む。


「色々な道場を流れましたから。我流の(さま)が強く出てしまっているのでしょう」


 手にした盃を見つめたまま、斉藤が苦笑した。

 それより――と、斉藤が視線を上げた。


「山南さんこそ、変わった()をお使いになられる」


 今度は逆に、山南の心中を探るように、斉藤が問いかえす。


「単に剣術というには少々、勝手が違うようにお見受けしましたが」

「――さてさて」


 眼尻に深い皺を刻みながら、苦笑を浮かべた山南が小首を傾げる。

 伏見の一件で、呪に犯された巫女を救う際に、山南は護法童子を使役している。

 護法童子とは仏道や陰陽道でいうところの使役神である。それを斉藤に見られたのだ。


「北辰一刀流の奥義――北辰妙見菩薩の妙技といったところで?」

「あれは北辰一刀流の技では無い」


 言葉を選びながら山南が答えた。


「では?」

「元々、私の生まれは神職に近しい家系でして。そこで身に付けた手慰みといったところでしょうか」


 山南はどこか曖昧に嗤った。


「いらぬ詮索、失礼しました」


 その様子に何かを察したのか。

 表情も変えず、斉藤が静かに頭を下げた。


「いや、詮索を始めたのはこちらが先だ。すまなかった」


 気をとり直そう――と、山南の差し出すお銚子を、斉藤が受けた。

 それから他愛無い話を、四半刻みもした頃であろうか。

 (おもむろ)に斉藤が腰を浮かせた。


「どうかしたかな?」


 山南の問いに――


「人と会う約束が……」


 斉藤が珍しく口澱んだ。饒舌とは程遠くとも、その言には常に簡潔である。

 よくよく聞いてみれば、先約があったのだが急な雨に降られ、つい雨宿りを口実に酒を呑み始めてしまったと言う。

 斉藤の意外な一面を見た気がした。

 約束よりは遅くなってしまったが、行かぬわけにはいかぬと、斉藤が申し訳なさそうに説明した。


「いや、知らぬこととはいえ、無駄に足止めしてしまい申し訳ない」


 頭を下げる山南に対し、斉藤は言葉少なに非礼を詫びた。

 それから斉藤は、店の主人に傘を借りると、どこか重い足取りで、そぼ降る雨の中帰って行った。


「さて、良い女性(ひと)でもできましたかね」


 浮いた話のきかぬ斉藤である。山南は嬉しそうに微笑んだ。


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