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エレベーター

作者: 八木 仁

 『JJND』と呼ばれる、この世界最大規模の大企業に久島悠が採用されることが決まったのは、つい先月、つまり三月のことだった。当然、最大級の人数、質を誇る企業であるため、その選考にも極めて多くの時間を要することで学生の間では有名だった。採用試験は前年四月より始まり、十一か月かけ、三月に完了した。学生の大半は途中で落とされる者もあれば、他の企業で採用されそちらで妥協する者もあったが、悠は数十回にわたる筆記試験、面接試験に最後まで耐え抜いた数少ない合格者であった。悠は他にも採用試験を受けた企業はほぼすべて合格していたのだが、それほど優秀な人材であるだけに、JJNDへ勤めるのが順当ともいえる男だった。

 さて、その超大企業の入社式が今日とり行われるわけだが、悠も新品のスーツと鞄で身なりを整えて、社屋へと向かった。これほどの企業であれば、全国いたるところに支社がありそうなものだが、JJNDは中央集権的な体制で有名な企業で、なんと本社一つ以外には、何も建物を保有していないのだった。そのため、正確な社員数ははっきりしない――数十万とも、数百万ともいわれる――のだが、膨大な人数が一つの建物の中で日々の業務に追われているという、ある種異常な体制がとられている。悠が本社前にたどり着いたとき、もはや建物の幅は目視では確認しきれず、高さについても、上層の方は雲に隠れて見ることができなかった。入口は数か所では当然足りないため、数十から数百メートル間隔で点在し、そのいずれからも人がひっきりなしに出入りしている。出入りする人々は、老若男女問わず、恰好も会社員風の人々や、一般の来客のような私服姿の人々、さらには子連れの家族や怪しげな団体のような連中まで出入りしていた。悠は一体この中では何が行われているのだろうかと若干不安になったが、それもそのはずで、業務内容については一切知らなかったのだ。繰り返される採用面接で、業務内容について質問したこともあったが「ここではあらゆる仕事が行われている。実際に入ってみれば君にもわかるだろう」という漠然とした内容の答えしかなかったのだ。

 そんなことを思い出しながら、自動ドアの上にG―17と書かれた一つの入口の前で立ち往生していたが、あまり時間もないことを思い出し、中へと足を進めていった。広大なエントランスもとにかく混雑しており、通勤時間帯の大きな駅よりも混雑しているのではないかと思われるほどだったが、うまくすり抜けながら、入社式の会場を探し始めた。会場は二階の東二十一大会議室と会社からの通知文には書かれていたが、階段を探すのも一苦労だった。人混みで遠くがほとんど見えず、その広大さのため、部屋の端の方へ向かうのにも何かと時間が掛かってしまった。やっとのことで、階段まで辿りつき、二階へたどり着くと、こちらもさっきと同じような広大なエントランスが広がっており、人混みも一階と同様に凄まじかった。悠はそれを見て思わずため息をついてしまったが、それでも指定された今日の第五回入社式の時間までもう十五分ほどしかなかったため、受付で場所を教えてもらうことにした。しかし今度は、その数十人の女性が対応している受付に長い行列ができており、これに並ばなければならなかった。悠の番が来たときには、既に十分が経過していた。

「この階の二十一大会議室へすぐに行きたいのですが」

「東二十一大会議室ですね。こちらの南第三エントランス受付からですと、幸い近くになりまして、向かって左へ進んでいただき、東第六エントランスへ入りまして、入ってすぐ隣に東会議室ブロックがありますので、東二十一大会議室はその中の一つになります」

「わかりました。ありがとうございます」

 新入社員らしく、丁寧にお礼を言い、書き取ったメモを見ながら東エントランスへ向かった。東第六エントランスも同じような場所だった。すぐ隣の出入口を抜けると、廊下に沿って会議室の入口が無数に並んでいた。番号を確認しながら進み、ようやく東二十一大会議室と書かれた扉を見つけ、時間丁度と思い中へ入って行った。

 会議室の内部はこれまた広大で、会議室というよりはサッカーコートのような広さ、あるいはそれ以上とも思われるほどだった。無数のテーブルと座席、同じ新入社員と思われる人々も無数に座っていた。ここだけでも数千人はいるに違いない。今日も同じような入社式が何度も行われているのだから、一体どのくらいの新入社員がいるのか、想像もできなかった。ここにも八列で受付が対応しており、悠は自分の番が来るのを待つことになった。予定時刻は既に過ぎているが、こうなることを見越して時間を決めていたのだろう。悠は自分の番が来ると名前と九桁の職員番号を伝え、指定の座席へと向かった。座席を探すのにも手間がかかったが、ようやく席につき、置かれている資料に目を通した。資料といっても、薄い資料だけでなく、辞書のようなものが二冊あり、他に自分の名札も置かれていた。資料は非常に複雑な内容で、専門外の難解な学術書を読んでいるような気分にさせられてしまったため、読むのをやめ、隣に座っていた女に話しかけた。彼女はスーツ姿で無難に整えた髪型と顔つきだったが、表情には緊張している様子が窺えた。

「本当に大きい会社ですね」

「ええ、ここまで来るのもとても大変で、余裕を持ってきたはずがぎりぎりになってしまいました。なんだかとんでもないところに来てしまったみたいで……。今日から何をやるのかも知らないものですから」

「私も同じですよ。今日は朝から驚かされてばかりです。この資料だって辞典みたいで何が何だかわかりません」

 お互いに、このよくわからない状況の話をしていたため、その後も実りある会話とまではいかなかったが、入社式前に多少緊張を解く程度の効果はあった。悠は先ほどよりも落ち着いて式の開始を迎えることができた。

「間もなく、第五回入社式を始めさせていただきます」

 会場全体を包み込むようなアナウンスが流れ、一挙に会場は静まり返った。この広大な会議室に流れる沈黙はどこか不気味に感じられた。最初は社長あいさつとのことだったが、当然会場を訪れるというわけではなく、映像でのあいさつだった。その後は入社に伴う説明が延々と続き、例の辞書のような本を開きながら、話を聞いていたが、辞書の一冊になっている組織図からして複雑極まりなかった。大きいだけで樹形図の体裁を取っているならまだしも、各部署を引く線自体も縦横無尽に駆け巡り、電子回路のようだった。この説明を行っている人事第八課にしても、給与第八課、保険第一七課、東運動局、東第六備品管理部などと無数の線で連結されている。部署の名前も無数に出てくるわけで、こんなものを全部理解している人間がいるのかどうか疑わしくなってくる。重要なのは図を覚えることよりも、この図を使うことらしく、必要なところへ連絡をする際に使うことになるらしい。いわば巨大な連絡網のようなものだろうか。他にも社内規則をまとめたものが一冊の辞書になっている。こちらも調べながら使うことが主な用法らしく、休暇の取得や保険制度のようなことから、他社への接待の方法や契約規則などに至るまであらゆる事柄が厳密に規定されているようだった。悠は、要するに電話帳と法律辞典かという程度に考えていた。

 一通り辞書の説明が終わると、最後に薄い資料についての説明に入り、そこには各自の所属先が書かれているとのことであった。悠も紙をめくって探してみると、『第四総務局東連絡部総合文書第九課』という文字が目に入った。それが何を意味しているのかは理解できなかったが、とにかく所属はそこになるらしかった。場所は三階にあるらしい。ここも東会議室だったから、階段を登ればすぐなのだろうかと考えを巡らせていた。

「本日の第五回入社式は以上をもちまして閉会とさせていただきます。皆さまは資料に記載された所属部署へ向かっていただくようお願いいたします」

 それを聞くと数千、いや数万であったのかもしれない人々が一斉に動き始めた。悠の隣に座っていた女も足早に動いていった。名前を聞いていなかったことを思い出し、少し後悔したが、恐らくもう会うことはないのだろうと思い直し、悠も席を立った。しかし、いくら出入口が複数あるとはいえ、流石にこれだけの人数ではやはり混雑してしまう。退出までに十分ほど掛かってしまった。ここでは何もかも時間が掛かってしまうなと思いながら、三階へ向かって行った。今回は比較的スムーズに階段まで辿りつき、その後も受付の案内を通して総合文書課のスペースへ到着することができた。悠のイメージではせいぜい課の人数は数十人規模かと考えていたが、どうやら百人以上はいるらしい。ここだけでも一つの会社ができてしまいそうなくらいだった。

「今日からこちらでお世話になります、久島悠と申します――」

 簡単なあいさつであったが、この人数では同じあいさつを何度か繰り返さなければならなかった。一通り課の全体を回り終えると、副係長補佐の黒木――役職もまた非常に多く、順序さえ文字からは読み取れないものもあった――から、自分のデスクに座る間もなく、早速最初の仕事を与えられることになった。

「久島君、早速だがこの書類を最上階の上層建設局第三管理部契約第三課へ持って行ってもらいたい」

 そう言って、JJNDのロゴがついている封筒を悠へ手渡した。

「わかりました。最上階ですか。どうやって行けばいいのでしょうか?」

「中央ブロックのエレベーターを使っていくのがいいだろう。他のところは途中で行き止まりになってしまうことがあるが、あそこなら大丈夫なはずだ。エレベーターの場所は組織図に載っている地図を参考にするといい。それと、君は知らないと思うから、一応エレベーターでの最低限のマナーを教えておこう。第一に、先輩が乗り込んできたときは先輩の指定する方向を優先することだ。君が最上階に行ってから戻ってくるのでは時間が掛かりすぎるし、皆他のエレベーターを待っている時間もない。階級が上になればなるほど、時間に余裕がなくなるものだから、彼らを優先させなければならないんだ。第二に、絶対に途中で降りないことだ。社内は極めて複雑な構造をしており、上層へ行けば行くほど複雑性が増しているし、エレベーターのやってくる頻度も少なくなる。君のような新人が一度エレベーターから出てしまうと、そう簡単には戻ってこられなくなってしまう。第三に、エレベーターの中の設備を有効に使うことだ。ある意味ではこれが一番重要なことなのだが……」

「わかりました。では早速上へ向かいます」

「新人の君には極めて難しい仕事だとは思うが、とにかく最後まで責任を持って行ってくれ」

 悠は黒木の忠告を念のためメモに残し、例の辞書のような地図を参考に歩き始めた。中央ブロックへの道は地図で見ても数ページに及んでおり、実際にもかなりの距離があった。エントランスを抜けると奥が見えないほどの長い廊下が広がっており、そこを抜けると再び大広間や同じような廊下が広がっているという流れを幾度となく繰り返し、一時間ほど掛けて中央東ブロックの東エレベーターへ到着した。エレベーターは目の届く範囲で約二十台ほど設置されていた。扉の見た目は普通のエレベーターと同じであるが、階数表示と思われるものは電子表示で、低いもので数十、高いもので数百単位だった。エレベーターが開くのを待ちながら、数字の動きを眺めていると、一つの表示機で、千に到達した際に数字がリセットされ、再び一から数値が上昇し始めていた。これでは実際に何回にいるのかわかったものではないと思いながら待っていると、同じくエレベーターを待っている中年の社員と思われる小太りの男に話しかけられた。

「その様子を見ると、エレベーターを使うのは初めてだね?」

「はい。今日からここで働くことになったのです」

「うん、エレベーターを不安げに待つ様子は新人特有の姿だからね。私なんかはもう慣れっこだけれど、実際どれかの扉が開くまでの時間は運次第なんだ。酷いときなんか一か月以上待っていたこともあったよ。それでも、本当に大変なのはエレベーターに乗ってからだけどね。特に君のような新人の場合は」

「その話も上司から聞きました」

 男は悠が手に持っている封筒に気が付くと、所属を尋ねてきたため、悠はあやうく間違えそうになりながら、所属を伝えた。

「ふむ、では君はその文書をどこかに持っていくのだね」

「はい。最上階まで」

「最上階!」

 突然驚いたような声を出したため、悠も少し動揺してしまった。

「何かあるんでしょうか?」

「い、いや、実は最上階といえば私も行ったことがないんだ。そこまで行った人は社員でもそういないと思うよ。それに必要な時間を考えると……」

 そう話していると、注意を促すような電子音が鳴り、少しして一つのエレベーターの扉が開いた。

「おお、これは幸運だ。こんなに早く開くとは。では私は先に行かせてもらうよ。君と違って私は下に用があるからね。一緒に乗ったところで、年長者の私の方向が優先されるわけで、君は無駄に下へ行くことになってしまうだけだから、まだ待っていたほうがいいさ。まあ、一番強い意向が私のものというわけでもないのだがね」

「そうですね、私はもう少し待っていることにします」

 他にも何人か一緒に乗り込み、エレベーターは下へと向かい始めた。それにしてもここはたった三階であるから、地下でもあるのだろうかと思い、地図を開いてみると、余程地下深くまで作られているようで、地上のページ量に劣らぬくらい、地下に関するページが存在していた。流石にあまり地下では物理的な問題があるだろうから、横に広くなっている様子だった。

 その後はエレベーターがそうそう訪れることもなく、待つ作業も泊りがけになった。初日から泊りであることにも特別疑問を感じなかったが、そのことで自分がすでに会社の一因である証拠のように思われた。といっても、食堂や仮眠室、遊技場もすぐそばにあり、万一休息中にエレベーターが開いた際にも教えてもらえる仕組みになっていたため、待つこと自体はなんら苦痛でもなかった。むしろ初対面の社員と一緒に食事をとったり、ビリヤードをしたりするのも、一つの楽しみになっていった。その後も二回は下方向のエレベーターで、ここに到着して丁度二週間でやっと上方向のエレベーターに乗ることができたときには、ここでの生活が名残惜しいものにも思えた。しかし、ついに最上階を目指す旅が始まったのだと思うと、それもまた悪いものではなかった。

 悠がエレベーターに乗り込むと、エレベーター内部も面積は広く、百人以上は乗り込めるのではないかと思うような広さだった。それだけでなく、入口の丁度向かい側に、扉がついていた。これは手動のもので、同時に乗り込んだ一人がその扉を開け、中に入って行った。悠が周囲に尋ねると自由に出入りしてよいとのことであったため、早速その内部へ足を踏み入れた。室内はエレベーター前の仮眠室と似たような作りで、数十人が休息できるようになっていた。その奥には扉が二つあり、食料庫と食事スペース付きの給湯室と遊技場になっていた。どの部屋からも、現在の階数が確認できるようになっており、仮眠室には予定の階に到着したときに鳴るアラームも備えられてあった。食料庫にはインスタント食品から、野菜、さらには魚介類まで保管されており、調理器具も非常に充実しており、下手な自宅のキッチンよりもよい器具が揃っていた。食材も見る限りでは新鮮さは保たれているようだった。ただ、いずれの場所からも、外をのぞき見ることはできなかった。先ほど悠の前に仮眠室へ入って行った男は、早速ベッドに横になっていた。かなりの長期戦を覚悟しているのだろうか。

 エレベーター内部の全体を確認し、最初の出入口のある部屋に戻るころには、既にエレベーターは上へ向かって動き始めていた。悠は、しばらくは黙って待っていたが、それも無意味だと感じ始めると、丁度昼食を食べようとしたところでエレベーターが開いたことを思い出し、昼食を取ろうと思い立った。早速、給湯室にてインスタントのカレーを作り、あっさりと完食した。これだけ食材が揃っていたとしても、どうやら一人ではまともに料理はすることはなさそうだ。それにしても、エレベーターが停止する様子はなく、わざわざホール――エレベーターに入って最初の部屋だが、悠はとりあえずそう呼ぶことにした。後には他の社員もそう呼んでいることに気が付いたのだが――で待っている人々はなぜそこで待っているのかよくわからなかった。我こそは最初に降りようとでも考えているのだろうか。悠は黒木の忠告を思い出し、自分は途中で降りたり、上下関係を蔑ろにしたりはしないぞと改めて考えた。退屈しのぎのため、遊技場で見つけたトレーニングマシンで運動することにした。遊技場にはビリヤード台や卓球台だけでなく、ランニングマシンやウェイトトレーニング用の装置など、本格的運動器具が揃っていた。ここにただずっと数か月もいると考えると、健康に重大な影響を及ぼすほどの運動不足になってしまう可能性も否めないため、確かに必要な設備ではあるのだろう。

 ランニングマシンの上を走り始めると、ここ最近感じたことのない快活さが、悠の体に満ち溢れてきた。思えばこの建物へ足を踏み入れてから二週間になるが、まともに運動したことがなかった。エレベーター前の遊技場には運動器具は設置されていなかったため、ただ食事と睡眠を繰り返していただけだった。久しぶりに、自分の力を思う存分発揮しているように感じられた。ここでは人間に必要なものがすべて揃っているのかもしれない。

 この生活に悠が慣れ親しむのに、そう時間は掛からなかった。というのも、すでにエレベーター前での生活で、ひたすら待つ生活を十分体験しており、エレベーター内はさらに環境が快適になっていたため、ある意味では自然なことであった。悠が乗り込んでから、初めてエレベーターが開いたのは三日目のことだった。悠は仮眠室のベッドに座りながら休憩していたが、到着の音を聞いてすかさずホールへ移動した。そこでは一人の、五十代の上級社員と思われる男が最初に外へ降り、続いて数人がエレベーターを後にした。同じく、数人がエレベーターに乗り込んできた。そして、既にエレベーターに乗っていた、こちらも五十代と思われる男が下方向へ向かうボタンを押していた。誰もそれに抵抗する様子もなく、エレベーターは下へと向かい始めた。その後は、幾度となく上へ下へと移動を繰り返し、最上階などは望むべくもなかった。悠もそれについては不満があるというわけでもなく、エレベーター内のシステムを知るにつれてここでの生活をより一層充実させつつあったのだ。

 一か月が経つと、エレベーター内の様々なシステムをおおむね把握できるようになった。まず食料は定期的に補充されるようで、サブエレベーターを通して食料庫の中身を新しくするらしかった。そのため、野菜や魚介類も常に新鮮なものが揃っていたのだった。悠も一度、他の乗員と一緒に調理を行ったのがきっかけで、簡単なものであるが、自分でもインスタント食品以外の食事も作るようになっていた。また、遊技場の設備だけではどうしても退屈してしまうのだが、それを解消するためにか、サブエレベーターを通した図書館の利用もできるようになっていた。図書館といっても、書籍だけでなく映画なども楽しめるようになっていた。この図書館はどこにあるのか不明だったが、非常に充実しているようで、難解な学術書や海外の書籍、さらには週刊誌なども取り寄せることができた。方法はいたって簡単で、備え付けの電子機器で借りたいものを選択すれば、数十分後には手元にあるという具合だ。返却もサブエレベーターへ投函すればそれで終わりというわけで、一般の図書館よりも利便性が高かった。新聞も毎日読むことができ、ここにいる間に外の世界から取り残されないよう配慮されている。テレビも備え付けられており、どういう仕組かは不明だが、世界中のあらゆるチャンネルが見られるようになっていた。

 悠がたまたま居合わせた技術系の社員によると、サブエレベーターはそれぞれのエレベーターの間を縦横無尽に駆け巡ることができるようになっており、その数もメインエレベーターの比ではないらしい。その挙動も超高性能のコンピューターで制御されており、各エレベーターでの需要に応じて厳密に作動している。速度も自由自在で、その実力が図書館のシステムで活躍しているのだ。人間が乗ることも可能で、食材の補充や室内の清掃などはサブエレベーターを通して職員が現れ、行っているのだが、その人数も膨大な数になっているのだろう。そしてこれが重要なところだが、サブエレベーターには専門の社員以外は搭乗することができないのだ。というのも、そうなってしまえば皆がサブエレベーターを利用してしまい、今度はサブエレベーターのサブエレベーターが必要になってしまうのだ。しかし、サブエレベーターを統括するエレベーターもあるらしく、こちらは指揮エレベーターと呼ばれている。エレベーター管理系の中でも上位の社員が使用し、サブエレベーターよりもさらに機敏に移動することができる。悠は話を聞いていて、眩暈がするようだったが、その生き生きと説明していた社員は、このエレベーター技術は間違いなく世界一のものだと豪語していた。

 エレベーターは相も変わらず不毛な上下運動をひたすら繰り返していた。上へ向かうどころか地下にさえ到達したことが幾度となくあったが、悠は一度もエレベーターを降りることなく一年が過ぎた。長らくエレベーターに乗っていると、悠の他にも長期間乗り続けている人もおり、彼らとは自然と打ち解けるようになっていった。例えば、西山という若い女性社員がいた。彼女は悠とは逆に、ずっと地下の方へ用事があり、たまたま同じエレベーターに乗り合わせていたが、目的地へは到達できずにいた。西山は料理が得意で、自然と悠は料理を教わるようになり、今では主婦顔負けの食事を作るようになっていた。これは悠にとっては想定外の収穫だった。他には岩本という男がいた。彼は社員ではなく、来客として上層へ用があったそうだが、上層など到底見えてこない有様だった。上層に用があるだけに、貫録のある外見の岩本は、映画の愛好家で、毎日世界中の映画を鑑賞していた。ここでは映画はポータブルテレビとセットで輸送されてくるため、各自好きなものを見ることができた。悠も詳しくはないものの、ときどき映画を見ており、それが岩本の目に止まったようで、岩本おすすめの映画を紹介されるようになった。ずっと近くにいるため、悠は見ないのも申し訳ないような気分になり、その都度取り寄せて見ていたのだが、次第に岩本と映画の話題で盛り上がるようになっていた。他にも運動仲間などもでき、エレベーター内で一種の社会のようなものが形成されているかのようだった。とはいえ、別れは突然訪れるもので、目的の階層に着けば、そこで恐らくは永遠の別れを告げることになるのだった。

 エレベーター内での生活も五年目にさしかかると、ここにいることがごく自然で当然のことであるように感じられるようになった。というのも、悠が実家を離れたのが大学へ入学したときで、四年間の単身生活を経て、このエレベーターに乗り込んだため、実家を離れてからの半分以上の期間はここで過ごしているのだった。もはや自宅と大差のない場所、それどころか自宅そのものになっていた。そのような状態になっていたところに、悠へ人事第八課から封筒が送られてきた。サブエレベーターには郵便機能もついており、こちらから外部へ手紙などを送ることも可能だった。さっそく開封してみると、昇格の通知だった。どうやら『副主任』になったらしいが、この名前がどの程度の位なのかもよくわからなかった。給与もそれなりに上がるようだった。そもそも、何らかの業績が認められたのか、単なる年功序列制なのかも不明である。しかし、これほどの世界規模の会社であれば、実力が反映される傾向があるのではなかろうか。悠が通知を眺めながら考えていると、近くにいた中年の男が話しかけてきた。確か、最近ここへ来た男で、黒縁の眼鏡が印象的だった。

「おや、どうやら昇進したようだね」

「はい、どんな理由からなのかはわかりませんが」

「ここの人事の仕組みはとても複雑なんだよ。例えばその社員の業績を評価するにも、まずいくつもの評価機関が存在して、各機関で一次評価を行う。それから、各一次評価を総合して判断するための会議が開催されるんだ。この会議も慎重に行われ、全部で五回行われる。会議の内容までは私にもわからないがね。次にこの会議で決定された二次評価を複数の審査機関で精査したうえで正式に決定されることになる。厄介なのは、途中で問題がある場合はまた一からやり直しになってしまうことで、それもかなりの頻度で再評価を行うんだ。だから、ある年の評価が決定されるのが五年も後になってしまうことも珍しくない。私たちには単純な結果しか届かないから、実際に具体的にどういう処理を経てきたのかは全く分からないのだがね。今話した手続きの流れも人伝いに聞いていただけで、私ももちろん実際に関係したわけではないんだ。

 これが業績評価についてというわけで、他にも項目はたくさんある。健康状態も仕事では重大な問題だから、厳密に考慮される。定期健診――君はずっとここにいるから降りたときに何度も受けなければいけない――だけでなく、普段の挙動や会話の様子なども記録され、判定の対象になるんだ。身体の状態はともかく、精神状態は判断するのが難しいからね。私たちのここでの様子も恐らくはなんらかの仕方で記録されているんだよ。

 当然、年功序列制も一つの要素として関わってくる。ここの社員は膨大な数になるから、それぞれの年齢、勤続年数を記録したコンピューターによる計算で昇格の序列を算定するのだが、この計算にもかなりの時間がかかる。それに、日々採用、退職する人もたくさんいるから、毎日情報が更新されていく。この計算結果を常に、他の項目と連携させて、昇格者を決めていくことになるんだ。この数百万人はいるであろう会社のね。

 他にも項目は無数にあるのだけれど、これ以上は私にも説明することは難しい。でもまあ、君も大体わかっただろう。ここでの昇進は啓示のようなものだね」

 二十年が過ぎると、悠も中堅社員となり、順調に昇進を続けていたが、依然として同じエレベーター内にいた。姿も随分変わってしまった。周りを見渡しても、最初から一緒にいる者はもういなくなっていた。若手社員も、運よく途中で目的地へたどり着くことができ、やってきては去って行った。最上階を目指す自分だけがまだ目的地へたどり着く見込みもないままここへいた。もうここでの生活が人生の半分を占めるまでになった。外での生活などというものは想像もできないものになっていた。きっと外の世界は随分変わっているだろう。技術の進歩は日々新聞で把握しているが、実際に触れることはできなかった。逆に外の世界が恐ろしいように感じられた。悠も本来であれば、当初の人生設計であれば、結婚して子供もいるのが当然であったが、それもどうやら叶いそうになかった。これには後悔がないわけでもなかった。これまで、例の郵便機能によって、大学の同窓生からは結婚式の知らせが何度か来ていた。当然出席はできなかったが、かつての仲間の近況を知ると多少の嫉妬心があった。そういった感情は一時的なもので、最終的にはいつも仕事の方が大切だという結論に落ち着いた。

 この年になって一つの楽しみになっていたのが、かつての自分のように何も知らない若手社員にいろいろな情報を教えてやることだった。エレベーターの仕組みや昇進の仕組みなど、悠が教わってきたことを今度は自分が教えていることに満足を感じていた。きっとあの人たちも同じ気持ちだったのだろう。会社のことを話すのは、何か心地よいものがある。会社への愛であったのか、優越感であったのか、漠然とした不安であったのか、それはわからなかったが、様々な要素が交錯しているようだった。それでも、悠が知識を授けた若手社員たちも続々とエレベーターを降りて行った。これまでにエレベーターを降りて行った人に再開したことは一度もなかった。

 ついに定年退職の日を迎えた。書類上はどうやら管理職にもなっているようだが、未だ最上階へは至らない。入社したときは六十歳で退職だったが、今は六十五歳に延長されている。その容姿は老人と呼んで差支えないものだったが、健康的な生活をしてきただけに、体力は同年代の標準的な人よりも充実していた。とはいえ、退職するためには、現在の業務を終えてから手続きに入らなければならない。そのため、悠が正式に退職するにはまだ幾分かの時間があった。一応この期間中も給与は支給されるため、まったく悪いというわけでもなかったのだが、やはりそろそろ老後の穏やかな生活というものにも憧れはあった。もっとも、ここでの生活が一番穏やかなものであるという気がしないでもなかった。人生の大半を過ごした場所を出るには大きな不安もある。外のことなどほとんど関心もなくなってしまった。退職したらしたで、今度はその後のことが大きな重荷になるように思われた。

 悠と同じように、最後の業務に向かっている同乗者が何人かいた。当然ながら、彼らの行き先が優先されるため、自分の番が来るにはもうしばらく待たなければならない。流石に自分の死が先ではないだろうとは思っていたが、最上階まで辿りついたとして、そこから戻るにも膨大な時間が掛かることを考えると、若干の不安があった。幸い、エレベーター内で死を遂げた者はいなかったため、現実的な恐怖として感じることはなかった。退屈しのぎに若い社員に話しかけることも相変わらず生きがいになっていた。

「君はエレベーターに乗るのは初めてかな?」

「はい、僕は地下の方に行かなければならないのです」

「薄々わかっていると思うけれど、すぐに辿りつけると思ってはいけないよ。私はもうかれこれ四十年以上ここにいるんだ。若いころは数か月で辿りつけると思っていたんだがね、それが一年になり、五年になり、二十年になり、ついに定年になってからもここにいるというわけさ。早く目的地に行けるかどうかは運次第だが、とにかく落ち着いて待ち続けることだ。決して途中で降りてはいけないと、君の上司からも言われているだろう?」

「ええ、エレベーターにまつわる規則はしっかりと教わってきました。僕も今は何年も掛かることは覚悟しています。それに、ここでの生活もそう悪いものでもありませんからね」

「君を見ていると、自分が若かった頃を思い出すなあ。といっても、若かった頃もここにいたことに変わりはないのだがね」

 悠は毎度同じような話をしていたが、話を終えるときにはいつも笑顔を浮かべていた。その笑顔が何を意味していたかは自分でもよくわからなかったが、幸福の意識もひょっとすると混じっていたのかもしれない。とにかく、会社で四十年以上勤めあげたということが、今や唯一の自身になっていた。

 定年から三年が過ぎ、ついに悠がエレベーターの舵を握ることになった。最上階を指示したとき、他の乗員の間では動揺の声が上がっていた。当然ながら、この四十年以上の間に、このエレベーターが最上階を目指したことは一度もなかったのである。あるいは、最上階を目指したエレベーターなどかつて存在しなかったのかもしれない。その会社の歴史に残りさえするかもしれない一歩を、悠はようやく踏み出したのだった。しかし、他の乗員にはこのことに不満を持つ者も少なくなかったように思える。天にも届かんとするほどに巨大な建物であるだけに、最上階を目指すにはどれほどの時間が掛かるのか、誰にも想像ができなかった。それでも、エレベーターの規則はここでは絶対的なものになっているらしく、誰も露骨に不満を言ったり、策略を施して方向を変えようとする者、途中で乗り換えるために降りて行く者もいなかった。

 エレベーターは長いこと上昇を続けていた。悠がこれまで待っていた時間と比べれば、ごくわずかの時間であったのかもしれないが、この数年の重みは過去の四十年以上に価値のあるものだった。手元には、入社した日に渡されたあの封筒が、随分と色褪せた姿で置かれていた。悠はこれまで一度も疑問に思っていなかったが、そもそもこの中には何の書類が入っているのだろうか。流石に封筒を開ける気にはならなかったが、これだけの時間を経ても持っていく価値のあるものなのだろうか。しかし、会社からはこの業務を終えてから退職するよう指示されていたことを思うと、やはり重要なもののように見えてきた。この、何であるかわからないということが、不可思議な力を持って、悠を操っていたのかもしれない。しかしいずれにせよ、エレベーターの方向は一度指定すると目的地にたどり着くまで変更できないため、もはや進むしか道はなかったのだった。

 悠がエレベーターの主となったからさらに三年が経ち、七十歳を過ぎ、体力が急に衰えてきた頃であったが、ようやく最上階にたどり着いたようだった。ついにエレベーターが停止したとき、それぞれの部屋にいた乗員も一斉にホールへ集まり、目の前に広がる光景を目に焼き付けようとしていた。世界中のどんな光景も、これには劣るというほどの関心が注がれていた。扉が開くと、何らかの工事の作業かと思われるような轟音が、一同の耳に響き渡った。どこか修繕を行っているのだろうか。エレベーターのすぐ目の前に、立ち入り禁止の看板が置かれていた。

 ここは最上階ではなかったのだろうか。しかし、エレベーターの階数表示を見ると、具体的な数字ではなかったが、さらに上昇することはできない旨が表示されていた。予想外の光景に皆唖然としていたが、悠を除いては誰もエレベーターを降りようとはしなかった。ここでも例の規則に忠実に従っていたのか、単に立ち入り禁止の看板のためなのかはわからなかった。とはいえ、悠にとってはここで引き下がることもできないため、最上階と思われるフロアに足を踏み入れようとしたが、その瞬間に、作業員と思われる服装の男が現れ、エレベーターを降りようとする悠を制止した。

「これより先は工事中のため立ち入り禁止です」

 男はそれが当然であるかのように、機械的に語った。恐らくは、幾度となく同じことを話しているのだろう。

「私は最上階に書類を届けに来たんです」

「これより先は工事中のため立ち入り禁止です」

 同じことを繰り返されたが、悠もただ帰るわけにいかなかった。

「書類を届けに来ただけです。危険なところまでは行きません。私はただ上層建設局第三管理部契約第三課まで行くだけです」

 相手の男は困ったような表情を浮かべ、少し待つように悠へ話し、その場を離れた。代わりに、さっきの男の上司と思われる、こちらも作業着に身を包んだ男が現れた。現場監督といったところだろうか。悠の背後では、ここまでやってきた皆が不安げにその男を見つめていた。

「お話は伺いました。最上階に用があるということで」

「だから、書類を渡すことだけできれば」

「残念ながら、そもそもここは最上階などではないのですよ」

「ど、どういうことです?」

 悠は意表を突かれた形になったが、相手の男はいつものことと言わんばかりに淡々と語り始めた。

「ここは現在も増築工事を行っているのです。だから、仮にエレベーターで行くことができる限界だとしても、ここは最上階ではないのです。あなたのいう上層建設局第三管理部契約第三課もここにはありません」

「しかし、私はもう五十年近く、ここを目指してきたんですよ。間違いなく、最上階というのも聞きました。それが存在しないなんて……」

「恐らくそれは、当時の予定であなたが最上階に着く頃には、本当にこの建物が完成していると想定しての話だったのでしょう。予定は狂うのはよくあることです。それに変更がうまく下まで伝わらないこともあるのです。これだけ巨大な組織ですから、連絡が下へ行き着く前に次の変更が発生してしまうというのは日常茶飯事で、それがエレベーター内にまで正確に伝わる見込みはほとんどないことでしょう。

そもそも、この建物はもう会社が始まってから百年以上も工事を続けているわけで、完成する見込みなどないということは、上層の社員の間では暗黙の了解のようになっているのです。それが下層では理解されておらず、あたかも完成するかのように考えられていたりもするわけです。だから、あなたに依頼した上司も、その点は他の社員と一緒に勘違いしていたのでしょう。とにかく、最上階なんて、成立することは未来永劫ないと思われます。今建設中の階層が完成する頃には、また事業拡大のために、次の階層が必要になります。そういう流れが過去百年間ひっきりなしに続いているのですから。

それ以前に、あなたの持ってきた、その色あせた書類なんて、今更何の価値があるのでしょう。新入社員に持たせるような書類など、大抵はなくても構わないもの、ただ形式的に社内でやりとりするためのものに過ぎません。実際はその事業はすでに完了しているはずです。ひょっとしたら、その事業に関連した書類は既に保管期間を過ぎて廃棄されているのかもしれません。どう考えても、五十年も保存するに値するものとは思われませんから。恐らく、文書の移送を途中で止めるという選択肢もあったのでしょうが、結局この忙しい大企業で、他の業務に追われている社員達がそこまで考える余裕もなく、そのままになっていたのでしょう。いずれにせよ、これはここを訪れる数多くの人々に話したことなので、あまり気にしないでください。ここはこういう会社なのですから」

悠は全く信じられないような――あるいは多少は考えていたのかもしれない――答えを聞いて、その男から目を話すことさえままならなかった

「それじゃあ、私はどうすればよいのでしょうか……」

「それは私に質問されても困りますよ。私はただの委託された建設業者の現場監督に過ぎませんから。さっきの話も人伝いに聞いた話に過ぎないのですよ。もっとも、無数の人々から話を聞いているので、それなりの真実性は持っているつもりですが。

 いずれにせよ、私があなたに指示できるというものではありません。とはいえ、ここに足を踏み入れるつもりであれば、あなたを排除することは私の権限ということになります」

 そういうと彼は、エレベーターの外から、慣れた手つきで内部へ手を伸ばし、『閉』のボタンを押し、また手を外へ引き戻した。悠は待ってくれといいかけたが、それも虚しくエレベーターの扉は閉まり、下へと動き出した。意味もなく無秩序に動いているかのようだったが、今もエレベーターの行き先は悠が握っていた。


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