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春が近づいてくるということは、日が延びること、陽射しが温かくなること、空が青いこと、梅が咲くこと、春物のパステルカラーの服を身につけたくなることだ。ついでにメイクもクリスマスコフレから春の新作、限定カラ―を使いたくなることでもある。
週末の私は久しぶりに黒タイツの代わりにストッキング、薄ピンクの桜の花びらのようなパステルカラーのスカートでのんびりと街を歩いている。今日の行き先は六本木にある新国立美術館。
独特なカーブを描く外観、全面ガラス張りでたくさんの陽射しが入り、吹き抜けになって開放的な館内に明るい光が満ちる。美術館の館内は甘い光と指先をふっと吹いたような冷たい空気に満ちている。かすかな緊張感と静かな高揚感はまるで今年初めてのいちごを口にする時のよう。期待と不安が私の心を混ぜていく。
チケットを手に展示室に足を踏み入れると、人、人、人。とにかく人だらけだった。飾られている絵は海外の美術館から借りてきた数々の名画。相変わらず私は絵に詳しくはなく、自分の好みか否かというぼんやりとした観点で絵を眺める。
知識を入れることは大切なことだ。
しかし、私がここでしたいことは感性を研ぎ澄ますこと。作家や描かれた時代背景、描きこまれた細かな意味合い、もちろん横に添えられた解説に目を通してはいるが、何を感じどう思うのかという自分の内側との対話を私は重視している。それは何故か。自分自身のことが見えないからだ。
文化水準が自分自身あまり高くないというのはあるし、知識を得る勉強を怠けているように思えるかもしれない。ただ思うのは、そこにある描かれた世界と私の世界が一瞬、触れ合う。その一瞬において知識や凝視が必要かというとそうではないのだ。一瞬だから取り込めるものがある、感じたものが今、今の私が受け取れるものだ。受け取ったもの、感じたこと、それは表面的には自分自身でも感じられない何かを心の中に小さな一輪の花や葉、小石に宝石、ときには塵芥として見えるように置いていってくれる。私は感じる。受け取る。そして、想う。
恋う。
展示をゆっくりと一巡した後、混雑の状況を見てということにはなるが、最初に戻って気に入った絵を少し遠くから眺めに行くことにしている。なるべく大きく歩幅をとってゆったりと歩く。立ち止まり、眺める。それに満足するとまたゆっくり歩いて次の絵へ。そこまで多くはない展示室をふわふわと歩く。
今回の展示の目玉であるフェルメールの『天文学者』。立ち止まって鑑賞するための少し離れた囲いの中からじっくり眺め、より近くを歩きざまに鑑賞する内側の通路を落とした歩調で歩き、横目で鑑賞した。以前、どこかの展示を見ている時に見ず知らぬ誰かが言っていた「絵は三秒見ればわかるから、こんなにじっくり見なくていいの。」という言葉をなんとなく思い出した。
地球儀と天球を並べて指でなぞるように容易く、どこか遠くへ逃げてしまいたい。どこまでも自分という存在からは逃れられないのに私は自分の足で自分から逃げてしまいたいと思う。決して自分が嫌いというわけではない。ただ、ただこの空回りを正常の巡りに戻したい。そう願った。しかし、正常というのが一体どういう回り方なのかが私にはわからない。地球儀を右に回転させて四周したら左に三〇センチ、右に左にぐるぐると、そしてもしも動くのならば縦に横に、くるりくるり。
カフェオレを飲もう。私はそう思って美術館をあとにした。場所は六本木。お洒落なカフェが探さなくてもこんにちはと顔を見せるような場所である。それなのに私は何故かよくあるコーヒーショップへ足を向けている。何故かは分からない。
石畳に舗装された歩道をとんとん歩いた。左右には赤、青、黄色、ピンク、オレンジと色とりどりの花が規則的に植えられている。ヒールは静かに地面を押し、私は前進する。私を迎え入れるように自動ドアが音もなく開く。お洒落な調度で統一的に飾り気なく飾られている空間にはコーヒーの香りが満ちている。その豊潤な香りを春の外気にふうわりと流し込むと入口はまたそっと閉じる。
「カフェオレのホットをトールサイズで。」
「かしこまりました。」
正面のレジでカフェオレを一杯注文した。春先の外気で冷えた指先を手で擦って温める。いつも笑顔で対応してくれる緑色のエプロンを着けた店員たちがゆったりとした落ち着いた動作で手際よくコーヒーや軽食、私のカフェオレの用意をしてくれる。
オレンジ色のランプの下で手渡されるカフェオレの紙カップには可愛いにこちゃんマークと小さなハートが描かれている。このイラストと手の中をじんわりと温めるカフェオレの温さが私を温める。窓際のカウンター席に腰かけて一口。身体が軽くなるような温かさに包まれる。
飲み物の不思議である。子どもの頃に読んだ絵本に出てくるあったかいりんごジュースみたい。あったかいりんごジュースはいつだって魔法みたいに子どもたちを守ってくれる。森の動物の子どもたちが優しいお母さんから風邪をひいたとき、元気のない時に飲ませてもらえる特別なりんごジュース。飛行機の機内で飲むリンゴジュースのような爽やかな冷たさがあってはいけない。魔法はいつだってあったかくないといけないのだから。
「今日はあたたかいですね。」
どこかで聞いたことのあるような声、低くて柔らかな・・・・。嗚呼、オレンジが香った気がする。その声の主を見てから感じたのか、その声に感じたのかは分からなかった。ただスローモーションで動く一瞬の内に私はその人を見て、聞いて、感じた。一瞬じゃないのかもしれない。
たっぷり三秒。
「ええ、あたたかいですね。」
「前は、代官山でお会いした時はとても寒かった。」
「ええ、とっても寒かったですね、あの日は。」
「あの。お隣、よろしいですか。」
「はい、どうぞ。」
じゃ失礼します、と彼は言い私の隣の席に腰かけた。コーヒーの蓋をあけるとブラウンシュガーを袋の半分ほど入れ、薄い木のマドラーでくるくると円を描く。こぼれ出る香りが私の鼻をくすぐる。私は彼の手の動きをじっと眺めていた。
「なにか・・・あ、僕、実は甘いの好きなんですよ。」
じっと見つめる私の視線に気が付いた彼は照れながら、言い訳するみたいにこう言った。
「ああ、そうなんですね。」
「いやぁ・・・ブラックが似合うのに意外ってよく言われます。」
「ふふ。でも、ギャップがあっていいと思いますよ。」
「そうかな。うん、そうだと嬉しいですね。」
彼は薄く微笑んでコーヒーを一口。口に含むとあちっと呟いた。私は飲みごろの温度になったカフェオレをこくんと飲んだ。喉がふわりとあたたかくなった。この日の彼はグレーのコート、鮮やかなトルコブルーのストールを肩にかけている。白のケーブルニットから淡い黄色の襟が覗いている。まるで春を迎えてほころんだ菜の花の黄色。
「あの、・・・・再会、できましたか。」
お互いにコーヒーとカフェオレを飲んでいた。その静寂も心地良いものだと私は感じていたが、どうしても彼に尋ねてみたくなった。私と似ている私と同じ名前の、この名前も知らない人の大切な初恋の女性とのことを。
「再会、しました。」
「それは良かったですね。」
「ええ。貴女と再会できました。」
「え、あ、まぁ再会です、ね。あの・・・私と似ているっておっしゃっていた初恋の方と再会されたんですよね?」
「あぁ・・・、いや。確かに彼女は貴女のように綺麗になっているだろうと思いますよ。でも、彼女と再会するより貴女と会えて僕は、その・・・・嬉しいなって思います。」
「へ。あ、ありがとうございます。」
顔が赤くなっていくのが分かった。どんな色かも私がどんな顔をしているのかも分かった。あまりにも恥ずかしくて、彼から目を逸らし、正面のガラス越しに、きっ、と睨むように外へ視線を送った。
「ねぇ、梨花さん。」
「え?」
呼びかけてくる甘い音に目を見張り、身体ごと彼に向き直る。窓の外では春の陽の中をゆったりのんびり、たまにせかせかと人が行き過ぎる。画一的で落ち着いた店内に漂うコーヒーの香りを感じる。
彼は、今、今、私のことを名前で呼んだ、のだろうか。
「驚かせてすみません。」
彼は申し訳なさそうな顔をして私に謝罪している。突然、名前を呼ばれたことに驚き、きょとんとしている私の顔が、きっとこの春の限定色である桜をモチーフにしたピンク色のチークの効果をもってしても可愛さより間抜けさが前面に押し出されてしまっているであろうことに思い至り、そのため更に愕然として彼を見つめた。
「あ、あの、名前。どうして。」
「実は僕と梨花さん、あ・・・・名前でお呼びしてもいいのかな。」
「どうぞ。」
「じゃあ、梨花さん。僕達、同級生なんですよ。」
「はい?」
「同級生。」
私と彼が同級生とはどういうことだろう。学生時代の同級生達を思い浮かべてみても彼らしき片鱗を覗かせる人物はどうにも見当たらない。
「ふふ・・・思い出せそうですか。たぶん、ちょっと難しいですよ。」
「え、難しいんですか。」
失礼のないように素早く思い出そうとフル稼働させていた頭の回転が一瞬緩む。
「ええ。だって小六の一年間だけ。しかも別のクラスでしたから。」
「えっ!あー・・・あの、ごめんなさい。」
「やっぱり覚えてないですよね。はは、すみません。でも、お会いできて嬉しいですよ。僕にとっては初恋の梨花ちゃん、ですから。」
「へ。」
にっこりと彼は微笑み、甘いコーヒーを飲んだ。私はただ呆然と彼の動作を眺めていた。彼の指先は綺麗だと思った。自身の頬に朱がさしていくのを感じる。
彼の話によると小学六年生の一年間、私達は同じ小学校に通う同級生であったらしい。しかし、四クラスある内の一クラスだけ教室が別の階にあり、特にそのクラスに入った転校生の彼と私に接点などは生まれようもなく、そのまま卒業した。彼は、たまたますれ違った私に目を留め、一言も話さぬまま、淡い初恋の甘酸っぱい恋心を募らせていたらしい。そんなまさかと思うのだが、真剣に照れながら教えてくれたところをみるとどうやら本当のようである。
「だから、貴女が初恋の梨花ちゃんだったんですよ。ああ、素面でこんな話するもんじゃないですね。恥ずかしい。」
照れた彼はそう言って人のよさそうな笑みを浮かべた。
私達は連絡先を交換し、素面ではない状態でじっくり楽しく語り合うことを約束し、その日は別れた。




