18
月が白く浮かんでいる。空は黒と藍と紺と緑の生地を丹念に練ったような色合いに染まり、ところどころに金糸や銀糸で作られたような小さな輝く星が見える。吐き出した息の薄いベールのような白が立ち上って細くて目に見えないものが世界中から集まり紡がれた糸で月を刺繍したようだ。
私は実際のところ裁縫や編み物はそこまで得意ではない。実家の母は冬になるとよく編んでいたけれど私はそこまで編み物を続けていたことはない。かぎ針で簡単なレースのコースターを作ったくらいで、中学校の同じクラスの女の子たちのように好きな男の子に毛糸のマフラーやセーターをなんてちっとも作らなかった。そもそも好きな男の子というのもいなかったことだし。
「もしもし。」
私のくだらない思考を止める耳慣れた声が聞こえる。私はゆっくりと声の主を振り返り、そしてしゃがみこんでいた体勢からまたゆっくりと時間をかけて立ちあがった。
「・・・・・。や、やぁ。」
ぎこちなく声をかける私に対して声の主は呆気にとられて応える。
「梨花ちゃん何してんの?」
「えーと・・・・。」
「もーいいよ、入って。風邪ひくじゃん。」
外気の遮断された部屋の中はほんわか暖かかった。コンビニへの買い物帰りだった様子の彼はぶつくさ文句を言いながらも私のことを気遣ってくれる。
「梨花ちゃんさぁ、来るなら言ってくれよ。なんか買ってきたのに。」
ほいっと手渡してくれるマグカップにはたっぷりのインスタントコーヒー。
「ごめん、望。」
「いや。悪いね。ウチの中で一番気の利いた飲み物コイツなんだわ、今。」
薄いインスタントコーヒーは微塵も美味しくなかったけれど、私のために淹れられた一杯の温かな飲み物に心からほっとした。望は私がゆっくりコーヒーを飲むのを見守り、自身も恐らく同じように薄いコーヒーを飲んだ。望の小さな部屋にエアコンの音がごおごお鳴っている。
「で、どしたの?珍しいじゃん、梨花ちゃんが俺んち来るなんて。」
「あー・・・うん。」
望が私の顔を覗いてくる。じっと目を見つめられると心の底まで全部見られてしまうような不安とそれを全て預けても大丈夫なんじゃないかという期待に襲われる。
「はー・・・梨花ちゃんおいで。」
望は大きく腕を開いて私を呼んだ。私はじっと望を見つめてみる。けれど私には彼の意図が理解出来るのに分からなかった。
「出血大サービス。」
そうふざけて言った望の声は柔らかくて温かかった。私のことを包んだ望の髪が首筋にあたってくすぐったいなと感じている。
「梨花ちゃん。大丈夫、だいじょーぶ。」
「ごめ・・・ぞむ。・・・ご・・・・め。」
望の手が私の背中をぽすぽす叩くと私の目からはぽろぽろ涙が流れた。
「何があったのかわかんないし、無理に聞かないけど、梨花ちゃんもっと弱くてもいいんだよ。」
耳元で話す望の声。温かな腕。私の中のどこかが開く感覚がする。ぽろぽろぽろぽろと涙がこぼれ、私はしゃくりあげて泣いていた。望はその間、一定のリズムで私の背中を優しく叩き泣かせ続けてくれた。
「一生懸命、お姉さんじゃなくていーの。だいたいねぇ梨花ちゃんは茉莉なんぞよりずうっと泣き虫でしょ。」
「そんな・・・泣いてない。」
少し落ち着いた私はぐちゃぐちゃの顔いっぱいに流れた涙を手渡されたティッシュで拭きながら反論する。
「ぷ。その顔さらして言いますか。」
望はそう言いつつも私の顔を見ずにぽんぽん頭をなでた。
「梨花ちゃん。なんつーか・・・うーん。無理に守ろうとしなくていいよ。変わることも留まることもおんなしくらい大事だし、俺も茉莉も梨花ちゃんに守られっぱなしな程には弱っちくもないんだろうし。意外と茉莉なんかタフだもん。それに比べて俺なんか可愛い子羊のよう。」
「子羊って・・・それはないわよぅ。」
「僕ちゃん繊細だから~。んまぁ冗談は置いといて、いつも強くなくていいしいつも弱くなくていいと思うんだよね。あ、俺はね。やっぱさ、友達って頼ったり頼られたりだと思うし・・・・けっこう弱い部分見せてくれるのって嬉しくない?茉莉とかよく泣きついてくるっしょ。あ、俺もか。」
「うん。」
小さく私が頷くと望は私の髪をぐしゃぐしゃにしながら頭を撫でた。
「俺も茉莉に泣きつかれてーなー。」
そんなことを照れ隠しに大声でぼやき、立ちあがって二杯目のコーヒーを淹れて、私の前に板チョコと一緒に差し出した。
「食え、そして飲め。チョコは幸せのもとなんだから!って、茉莉が豪語してた。」
にししと望は笑った。私はさっきと同じでやっぱり薄いコーヒーを啜り、板チョコの銀紙を破る。望は板チョコを縦横に入った筋に沿って折ろうとする私に
「そのまま齧ってみ?」
と言った。望に勧められるがまま板チョコをそのまま齧る。ぱりっと割れたチョコレートを口いっぱいに詰め込んで、ぱくぱくもぐもぐ頬張った。口の中をチョコの角がつんつんしてくる。口いっぱいのチョコは甘くて優しくて美味しくて、やっぱり高カロリーで、ちょっと卑怯だと私は思う。
「んまいっしょ。」
望は薄いコーヒーを啜っている。もごもごチョコを食べる私に笑いながら言う。
「それ逆バレンタインだから。来月なんか期待してんね。」
「ホワイトチョコ1キロね。」
「い、1キロ・・・・っおうぇぇ。」
私は望と一緒になって笑った。
不安なんてもうどこにもなかった。なんていったら大袈裟だけれど少なくとも今はもうどうでもよくなってしまった気がした。大切なものは思っているよりもずっとたくさん存在していて、その存在があって当たり前だと思いこむ程に見えなくなっていく。幸せなんだと意識している時ほど、心は弱く不幸により近い場所にあるのかもしれない。しかし、その場所に立つからこそ、立ったことがあるからこそ気が付けるものがある。
「ありがとう。」
「ったりまえだろ。」
ぷいと横を向いて素っ気なく装った望が愛おしい。この人が大切なの。私は今、すごく幸せだ。だって、彼は。
だって、彼は―




