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 その日、東京はいつもよりだいぶ冷えていた。

代官山の街を細身のパンツをブーツインして、品良く見える形のダウンコート、ラビットファーの帽子という防寒スタイルで闊歩する。

何か用事があったわけではない。ただ自分の中に何か突き動かされるような何か、そう本当に『何か』があって私は代官山の複合型書店を訪れた。外は凍えそうに寒かったが書店の中は暖かい。普段、というかもう少しいい季節にここを訪れるときは公園のような庭のような心地の良い空間に仕上げられた緑の中をしばし歩いてみるのだが、この日はそれをするにはとても無理があった。

外ですっかり冷え切った私の身体は内側から温める何かをひどく欲していた。この何かは私を突き動かす『何か』に似ているのではないだろうか。

 館内に併設された街中でよく見かけるコーヒーショップでは残念ながら所望していたココアは置いていなかった。仕方がないのでホットのチョコレートドリンクを頼むことにした。

「ふぅ。」

窓際にある小さなソファが向かい合った席に座り、窓の外の凍えながらも幸福そうな表情を浮かべた人々が通り過ぎるのをゆったりと、そしてぼんやりと眺めた。チョコレートドリンクは温かく、オレンジがさっぱりと香る美味しく甘く、爽やかな味で、姿を見せない『何か』への些細な不安や恐怖といった私の感覚を少し緩ませた。望んでいたはずのココアよりも私の中にある『何か』に近く働きかける作用をそれは担っていたようだ。

「今日は冷えますね。」

突然、低くて柔らかい声に話しかけられた。私は声のする方へゆっくりと視線を送ると、そこには見知らぬ青年が立っていた。質の良さそうな紺色のトレンチコートに普段使いらしいベージュのパンツ、靴はこげ茶色のオックスフォードシューズを履いている。手には私のものよりも大きなサイズのコーヒーのカップを持ち、その顔には爽やかな微笑を湛えている。瞳の美しい青年だった。ゆったりとした時間の流れるカフェの中では豊かな会話がきっと生まれるものなのだろう。

「ええ、本当に。」

私は抜群のスマイルで彼に対応した。彼は恐らくここの常連なのだろう。でなければ、土曜日の午前中にこの寒い中ここを訪れるとは思えない。なぜなら、この日は雪が降らないのが不思議なくらいに冷え切った日なのだから。

「ご一緒してもよろしいですか。」

「ええ。」

こうして何故か私はこの美しい瞳の青年と向かい合ってお茶をすることとなった。

 彼は私にお礼を述べると私の正面のソファに腰掛けた。その動作はゆったりとした余裕があり、その余裕が優雅さを生みだしていた。私は彼の身のこなしに見惚れそうになる自分自身に気付き、窓の外に視線を投げた。大型犬を散歩させるご婦人の姿が目に入った。

「大きな犬ですね。」

「え、ええ。そうですね。」

にこやかに話しかけてくる彼に私は何故か気圧されているような、言い知れぬ息苦しさを感じていた。

「すみません。突然ご一緒したいなんて言ったら驚かれますよね。」

彼は苦笑いを浮かべた。

「いえ、そんな。」

取り繕う私に彼はにこにこと笑いかける。

「ありがとうございます。」

お互いに微笑み合い、ドリンクに口を付けた。

「実は、僕の大切な人があなたにとても似ていたので、思わず声をかけてしまいました。」

「は、はぁ。・・・大切な方ですか。」

「ええ。」

きゅっと心臓をつねられたような痛みに私の息苦しさは増す。彼は輝く瞳に憂いの色を湛えて言葉を紡ぐ。

「初恋の人なんです。・・・といっても小学生の頃の話で、きっとあなたのような美しい女性になっているような気がして。」

「はぁ。」

気の抜けた私の相槌に彼は「すみません。」と詫びた。

「あの・・・その方とはもう会えないのでしょうか。」

思わず私は彼に尋ねていた。思い出の世界の扉を開きかけていた彼は首を横に振る。悲しそうな、それでいて感傷の甘さに浸った顔をしていた。

「今じゃもう綺麗な黒髪と名前くらいしか覚えていなくて。」

「それだけ・・・。」

彼は、はははと笑った。そして初恋の女の子のおかげで素敵な女性とお話出来て嬉しいと言った。

 そのあとはお茶を飲んで、本屋に併設されたカフェでの会話らしく好きな本や作家の話をした。気が付いたらもう昼をとうに過ぎていて、午後から約束があるという彼と一緒に店を出た。

「今日はありがとうございました。」

「こちらこそありがとうございます。楽しかったです。」

「そう言っていただけると光栄です。また、お見かけしたら声をかけてもいいですか。」

「ええ、喜んで。」

彼は駅の方へ、私は書店の中へ。踏み出して止まる。振り返る。

「あの」

「え。」

彼は振り向いた。思わず大きな声が出て自分自身驚いている私は彼をまっすぐに正面から見つめた。

「あの、その方の名前って・・・。」

「りか。」

「梨花・・・。」

「それじゃあまた!。」

彼は大きく手を振り、それから足早に駅への道を歩いていった。私はその場に縫いとめられたように動けない。

 チョコレートドリンクの入っていた容器はオレンジの豊潤な香りに満ちていた。



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