7 昴
「ねえ、一輝。もし、何もかもが戻ってくるとしたら……そう考えたこと、ある?」
中学校の卒業式の日、帰り道でふとそんな言葉を一輝に向かって口ずさんだのは、よく冷えたガラスから削りだしたような雰囲気を持った少女だった。ぱっと見ではお嬢様然とした容貌――手入れの行き届いたつややかな長い黒髪とほつれのない衣服、白く澄んだ肌――を持つ彼女は、しかし近づいてよく見てみれば、ただお嬢様というには少しばかり躊躇わせるような何かがあった。
「それは――ないわけじゃないよ、昴」
彼女は――片瀬昴は、大抵のことでは僅かに歪みもしない瞳を真っ直ぐに一輝に向けていた。一輝と話すとき、彼女は特にその、強く鋭く、どこまでも澄んだ視線を真っ直ぐに彼に向けた。
「でもまあ、今はそう頻繁には考えないかな。もうあれから結構経ったし、それに、昴もいるしさ」
「私?」
「今が決定的に足りてないわけじゃないってこと」
その言葉に、昴は微笑んで見せた。彼女が微笑むなどということは年に数回、それも極親しい人間の前でのみあるかないかだったので、その時の一輝は少しばかり嬉しさを感じていた。
片瀬昴は、一輝にとっては家族以外で最も古い知り合いだった。家が近所で、小学校に上がるころからの友人だった。より古い友人もかつては存在したが、一輝が九歳の時、あらかた消えてしまった。
いつか起こると常に警告され続けてきた震災が、一輝から母と姉、そして多数の友人知人をいっそ鮮やかといっていいほどの手並みで奪い去った。昴もまた、境遇は似たようなものだった。
生き残り、ゴミ山と化した街を彷徨い、幼さなど少しも関係なく誰彼構わず牙をむく巨大な喪失感に耐え、避難所で暮らし、仮設住宅で暮らし、再開された学校に通い始め――それらの間、昴は常に一輝と共にいた。
父だけになってしまった家族のことも、不幸にも半数以上が亡くなったかつてのクラスメイトのことも、一輝は忘れはいなかった。忘れる日などなかった。根本的な生の不条理に対しかつて抱いていた恨みつらみも消えたわけではない。
が、だからといって生きていけないほどではない。それは、言葉にした通り、昴がいるからだと考えていた。
多く失った中で残った、輝かしい価値。大事な友人。
「恥ずかしいこと言うね、一輝は」
貴重な笑みをみせながら、昴はそっと一輝の背に腕をまわした。
空気の温度と香りが変化し、一輝の肌をくすぐった。それは決して、不快なものではなかった。
「きっと、一輝は、ずっと――ちゃんと生きていけると思う」
軽く爪先立ちして、昴は一輝の耳元で小さく告げた。
「喪失も、不条理も受け入れて、支配するでもなくされるでもなく、拮抗して生きていける」
「昴?」
「私も、同じ。一輝がいたから、やってこれた。でも多分、私のほうが多く助けられてる。一輝のほうが強いから、かも」
そんなことはないだろ――と言う前に、彼女は一輝を放し、手を振った。
「じゃあね、一輝」
「ああ――うん、じゃあ、また」
その日はそれで別れた。突然のことに戸惑いながらも、一輝はそのまま帰宅した。それから一月もせずに、昴と同じ高校に進学することになっていた。焦ることはないと感じていた。穏やかに進行させていくのだと。自分の人生も、彼女の人生も。それからもしかすれば、彼女と――実質的にも法的にも、一緒に歩む人生をも。
だが結局のところ。
その日の会話が、一輝が昴と交わした最後の会話となった。
ぬかるんだ一年があった。
昴が消えて、そこからの一年だった。中学時代、それなり以上に楽しめていたはずの学校生活は信じがたいほどに味気ないものに変化していた。友人を作るのもクラスで上手くやっていくのも、さして難しくはなかった。難しいのは、昴が抜け落ちた生活というものを楽しむことであり、飲み下すことだった。
昴は卒業式の日に一輝と別れ、そのまま失踪した。家族が警察に相談し、捜索が始まり、一輝もまた警官と何度か話をすることになった。
彼女の行方は不可思議なくらいに分からなかった。足取りの一つもつかめない。何処にもいない。何も分からない。一つも手がかりのないままに一月、二月と時間は過ぎ、結局一輝は一年間、空虚さと失意の中で生きることとなった。
(俺は、昴を探していた)
ずっと、常に、いつも。
視界の端に、路地の片隅に、木々の陰や寂れたバス停――意識は常にそこにいない彼女を追っていた。どこにもいないものを追っていた。
(どこか、別の場所――それはずっと意識し続けてきたんだ)
昴のいる場所。それを、求めていた。
チート転生者は、生前の願いによって転生するという。
チート転移者、アルドは、転生者を否定する願いを抱き、その願いを召喚機によって検索され、ラストリエールに呼ばれるという。
(俺は……望んでいたのか? どこか別の場所へ、それこそ異世界であっても……スバルのいない場所ではない、どこかを)
彼女の行き先を。現実に見つからないならば、異世界さえ見据え、探し出そうと考えてたのか?
もし、常識的な、世界の枠組みや法則や構造を歪めてでも何かが思い通りになるとしたら。
『神々』が与えるチートがそれを可能とするなら。
足りてないわけじゃない。ちゃんと生きていける。
かつての言葉が揺らぐような気がして、一輝はひどい寒気を覚えた。
刺すような寒気は、空虚さは、失意は、一度意識してしまえば膨れ上がるばかりだった。一年間目を背けてきた、恐ろしい何かが膨張し、自らを押し潰す――そんな想念に捉われて、一輝はその意識の内側で、叫びを上げた。
*
覚醒と同時に、死んだほうがましだと感じていた。混乱した頭の中で、強い拒否感が渦巻き、一輝にそう感じさせていた。
が、それはすぐに、幻のように収まって消えていった。
誰かが、手を握っていた。その単純な温かみが、膨れた混乱を、洗い立てのタオルでそっと頬に伝う雨粒でも吸い取るかのようにして、一輝から恐慌を奪い去っていった。
「ごめんなさい」
一輝に手を重ねた相手――スピカが、呟いた。
「もう、終わりましたから。一輝さんが何も害意なんて持ってないって、ミトラにも証明できますから……」
申し訳なさそうに、それからひどく悲しそうに、彼女は一輝の顔を見ながら一言一言ゆっくり話してみせた。
「ありがとう」
と、自然に、一輝の口からそんな言葉がこぼれた。
昴はそれを聞いて、ひどく驚いたような顔をした。まるで生まれてこのかたそんなことを言われたのははじめてだといったような表情だった。
それから一輝は、深い疲労感に導かれて、再び眠りに落ちていった。
精神探査による気絶ではない、ただの眠りの中には、喪失感も失意も、狂乱した意識もなかった。
ただ、手の平の仄かな温かさの残滓だけがあった。




