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   37 どらあぁっくぬふんだらぁああ

 

「ひゃあ!?」


 と、どこか間の抜けたスピカの悲鳴(?)が夜の空気を振るわせた。

 薄い部屋着を纏っただけの彼女は、いつもに増して、細く繊細な体の線が目立っていた。その彼女の胸元を、思い切り一輝の左の手の平は触っていた。というか、半ば掴んでいた。むんずと。なんの誤魔化しも容赦もなく。

 一瞬時間が止まったかのように一輝とスピカ、両者の動きが止まった。目を見開いて自身の胸元を見下ろすスピカに、一瞬で冷や汗を浮かべた一輝は咄嗟に言葉をつむごうと唇を蠢かせた。


「いや待ってこれはあれだそのいわゆる一種のそれでも僕はどうのこうの的な――」


 支離滅裂に言いかけた一輝はしかし、途中で言葉を途切れさせて後ろに跳び退った。

 ぎりぎりのところで、スピカが放った指による突き――顔面をねらったものだ――をかわして、それでも彼女に触れようと伸びる左腕を、逆の手で押さえつける。


「あ、す、すみませんごめんなさい一輝さん! つい咄嗟に眼球を狙った必殺正当防衛奥義の一つ・『脳髄抉り掻き出し突き』が!」

「割と理解できる反応だしこっちこそ謝るけど普段マリーチャ・クラスがどんな訓練してるのかについてはちょっと心配になってきた!」


 声を上げつつ、一輝は二人のやり取りを不気味にじぃっと見つめている痩せた刃物女へと向き直った。


「身体支配……毒、いや、チートだからそもそも尋常な物質でもないだろうけれど――」


 女が手にもつ刃物に注目する。銀に輝く刀身は、よくみれば女の手首から垂れている透明な液体によって薄っすら濡れていた。


「体内に入ることで神経や筋組織を乗っ取る……スピカ、注意を」


 相手のチートを一瞥して見破り、伝える。今だ胸元を恥ずかしげにそわそわと手で押さえつつも、スピカはその言葉に小さく頷いて見せた。


「一発で見抜かれたのは……初めてですよお、ほほほうふふへへ」


 珍妙な声で笑い、刃物女は空いたほうの手をさっと白衣のような着衣の中に差し込んですぐに出した。手品のように一瞬で、その手先には投げつけたのと同じ刃物が握られている。

 にたぁ、と満面の笑みを浮かべる女に、一輝とスピカは身構えた。だが女は二人が構えたのを見計らって、くるりと背を向けて突如全力ダッシュで後退した。


「ひゃーほほほほ」


 哄笑しながらとてつもない速度で遠ざかる。


「くそ!」


 一輝は自らのミスに毒づいた。今だ左腕は自身の制御から外れたまま、好き勝手に動こうとしている。


(肩より胴体側までは侵食されてない……けど、どの程度続くか分からない支配だ。チート使用者本人に逃げられれば、厄介なことにしかならない!)


 理解する。手で弾いた刃物に縫ってあったのが例えば激烈な猛毒なら、単純なダメージはそちらのほうが高い。

 だが身体の一部を乗っ取られれば、被害は最悪他者に及ぶ。スピカのように。

 それに、距離を開けても操作が可能なら、確実に被支配者の身体を攻撃することもできる。


「ぐ……!」


 呻き、一輝は左手を右手で抱え込むようにして押さえ込んだ。関節の限界を超えて外側に曲がろうとする――つまりは折れようとする――左肘を無理矢理右手で支える。


「一輝さん!」

「今の敵を――いや、アリーシャに加勢してまずはここの突破を」


 駆け寄るスピカに、一輝は顔だけ向けて短く言い放とうとするが、その言葉の最中、大きく視界が揺れる。

 側頭を蹴りつけられたのだと理解したのは、地面を転がり痛みを存分に味わってからだった。


「なぁんだ? ミトラのおぼっちゃんは、今のもかわせねェのかよ」


 巨大な岩塊を転がすような、太く逞しい声音が降ってくる。

 続く打撃を予測して痛みにくらくらとしつつも急いで起き上がる。だが、新たに現われたそいつ――全身ががっちりと発達した筋で覆われた禿頭の男だ――は、口元に皮肉めいた笑みを浮かべて一輝が起き上がるのを待っていた。


「学園に来たのは最近でね……こちとら日本育ちのもやしっ子なんだよ」


 相手には分からないであろう皮肉を返して、一輝は痛む頭をさすることもできずに顔を上げた。


「そうかい。なら外れだな。あーくそ、他の奴らはもう取られちまったしなぁ」


 言いつつ、苛ついているのか頭をがりがりと掻く。


「まあいいや、お前――」


 一輝に何かを言おうとして。男は、素早く背後を振り返った。

 音を立てずに移動していたスピカがそのときには既に、鋭く踏み出しながら一撃を放っていた。拳を固め、素早くコンパクトに打ち出している。

 男の筋肉塗れ巨体に対して、スピカの攻撃は鋭くはあったが力不足な感が否めない。だが彼女は自前のチートを使っていた。通常人間が望むべくもない精密な知覚が、彼女に最適な打撃を可能たら占めている。敵の最も脆い急所、最適な弱点を、最適な動きで最も効果的に打つ。自身と敵の身体を精密に観察・解析し、予測し、操作する。

 十分に効果的な一打だった。相手にはかわす余裕もない。

 だが、彼女の拳は空を切った。


「どらあぁっくぬふんだらぁああ!」


 無茶苦茶な叫びを上げながら、男は高く宙を舞っていた。少し遅れて、振動が一輝の耳を叩く。


「跳んだ……」


 見上げて、スピカが呟く。男は、スピカの計算と予測すら裏切る瞬発力と筋力で――単純に、跳び上がっていた。碌に体勢も変えず、爪先の跳ねだけで、軽々と五メートルほども。


「おっでやああああんぐわあああ!」


 恐竜のような咆哮とでも言えばいいのか、とにかく間違いなく人間でも哺乳類でもなさそうな奇天烈な大声を上げて、男は落下しつつ拳を地面に叩きつけた。

 間一髪、跳び退って逃れたスピカを、盛大に巻き上げられた砂利や砂が襲う。一瞬でそれらの軌道を見切りスピカは上手く腕を振るい転がるようにして更に下がり、なんとかかわしきる。


「身体強化……それも、無茶苦茶出鱈目だ。一部の組織の強化で現われた無理を更なる強化で誤魔化して全身を多重に強化の波で変質させ続けてる」


 そして全身が硬直化してしまいそうなほどに強化が成された瞬間に拳を叩きつけた。

 一輝の声に、起き上がったスピカが敵を見据えつつ口を開く。


「毒デスマッスル巨大トカゲとどっちが強そうですか?」


 真顔で訊かれて、一輝はやや顔を引きつらせながらも、


「正直それ見たこと無いんで分からないけれど……」


 答える。意識の及ばぬ挙動を続けようとする腕を押さえながら。

 マリーチャとフェーリスは狙撃の敵に向かっている。アリーシャは時間飛ばしの男と応戦中で、気味の悪い操り女は今もダッシュで遠ざかりつつある。そして、この筋肉男だ。


「まずい、かもしれないな」


 呟きが、胃の中の緊張と怖れと共に、そう漏れ出ていた。

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