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   28 夢の国の不在


 幼い頃は。

 世界というものはもう少しばかり都合がよく、不条理の少ない、いわば「よくできたもの」だと考えていた――誰しもがそうであるように。

 そんなことを、片瀬昴は雪のちらつく冬の日に、川沿いのベンチに腰掛けて半ば空を見上げながら、一輝に話した。

 無数の人間が墓の下瓦礫の下何処とも知れぬ冷たい土の下へと消えて、ついでにそんな犠牲者の数に負けじと無数の建物が倒壊・損傷し合わせて経済までもが傾いた震災から二年ほどたった頃のことだった。

 狭苦しい仮設住宅にとりあえず暮らしていた昴は、時折ふらりと外出し、大抵は街の端を流れる小さな川沿いで時間を潰していた。彼女の家族は一輝のそれと同じように町と共に半壊し、一輝にとっての同居家族が父だけになったのと対照的に、昴の場合は母だけを残して父と弟と父方の祖父母を失っていた。

 一部が欠けてバランスを狂わせ、居心地が悪くなる。天災のみならず、家族というものの一部が不幸に見舞われた際そうしたことはよくよく起こることではあった。

 昴の母は被災から二年経っても奇妙な虚脱が全く抜けておらず、彼女はそんな母と共に過ごす家に息苦しさを感じ、冬であれ夏であれ、用もなく出かけるというわけだった。

 そしてそんな状況は一輝もまた似たようなものだった。ふらりと姿を消した昴を捜して家を出て、というようなことが何度か続き、その内一輝は自然に昴と時を過ごすことが多くなった。


「つまり、夢と希望に満ちていて当然だと、そう思っていたってこと」


 手先に鋭い痛みを残し続ける寒気にあてられていつもより色を薄くした唇をほんの少しだけ尖らせて、昴は一輝にそう語った。その日も昴を追ってやってきた一輝は、そっと彼女の隣に腰掛け、澄んだ声音に耳を傾けていた。


「まだ小学校入ったばかりのころとかさ。大人たちってこう、なるべく社会や世界を輝かしいものみたいに語るでしょ。いろいろ問題もあるけど人類はちゃんといい方向に向かって進歩していて、これからもっと社会は豊かになって文明は進んでいって、あなたたち子供が大人になる頃にはよりよい社会ができます、みたいな。実際街で見る広告やCMには馬鹿みたいに明るくて綺麗な家庭やお店が映っててさ。遊園地は煌びやかに夢みたいな世界を演出してて。いかにも世界や社会っていうものが真っ当で綺麗なものみたいな語り方が、示し方が、されてるんだよね」


 柔らかく暖かく、輝かしく美しく、確固とした希望に向かって進んでいける場所。そんなもののように思えてしまう。

 白い息を細く吐きながら、昴は薄い灰色に覆われた空から緩やかに落下してくる小粒の雪を偶に視線で追っていた。


「上手く言えないけれど……ううん、私、話し下手だな」


 途中まで言いかけて、昴は僅かに身を震わせて言葉を詰まらせた。

 一輝は薄く微笑みつつ「いや、分かるかも」と返しながら、横目に彼女をちらちらと見ていた。話の内容を頭に入れつつも、昴が容赦のない冬の寒さで風でもひかないかと、そんなことを意識の片隅で考え続けていた。


「要は、誰もがいずれ……成長する中で味わう、失意みたいなもののことだよね」


 素晴らしき先進国の大多数の人間は煌びやかに装飾された社会の中で自己実現や社会的成果の実現という虚飾によって、実際のところ倫理も正義も犯し続けなければならない、ただただ凄惨で何処までも空虚な経済活動に勤しみ、そうした人生が何に繋がるかといえばたった数パーセントの富裕層が寝ながらにして億万長者であり続けるためだけに役立てられていて、一方で数秒に一人のペースで後進国のやせ細り骨の浮き出た少年だか少女だかが餓死していく。

 『夢の国』などまさに夢でしかなく、夜闇にイルミネーションを輝かせる遊園地もまた血みどろの経済戦争と、多数の奴隷たちの自己欺瞞と犠牲によって成り立っている。

 いくらかの人間は、いずれそういったあれこれを理解する。中学や高校で。遅ければ大学生になってようやく――。


「そう……けどそれだけじゃない。社会のあれこれもだけれど、それ以前の――ある種根本的な論理構造からして、この世は、なんともひっかかりが多い、みたいな」

「ひっかかり?」


 頬に張り付いた雪を指先で掻くように落として、一輝は訊いた。


「そう……そもそも、条理が条理として通るためには、必ず不条理がセットになってしまう、みたいな。あらゆる価値は失われ得るし、意思や選択というものが概念として存在するにもかかわらず、その行為は万能からは程遠い……人は世界に対して無力でも万能でもなく、価値と非価値の狭間にしかいられない」


 ――なんか、腹立つって思わない?


 軽く笑い声を零して、昴はそう付け加え、ベンチから立ち上がった。

 長く伸ばした髪に付着し、少しも溶けていなかった雪の欠片が重力に引かれて舞い落ちる。それなりに長い間座っていたため、彼女はコートにも髪にも、雪があちこちに引っかかっていた。

 一輝が自分も立ち上がり腕を伸ばしてそれらを軽く払ってやると、昴は普段あまり見せない、きょとんとした表情を作ってみせてから、目を細めて笑った。


「ありがとう」


 そう言って、一輝がやったのと同じように、腕を伸ばし、一輝の髪や首元に触れた。


「……偶にさ。もしかしたら、何もかもが思い通りには行かない、この真っ当な現実こそ、どこかインチキめいたものだって、そう思うことがあるんだ」


 一輝に触れながら。昴は、一輝とともに、一度崩れた街の風景を眼の中に映し込んで言った。


「――一輝は、どう思う?」


 訊かれて、すぐには言葉を返せず、「僕は……」と言い差したまま、一輝は立ち尽くした。いつの間にか頬に当てられた昴の手の平の冷たさと、その奥に隠れた体温に意識を吸い寄せられながら、降り落ちる雪の中で、ただただ言葉を取り落として黙していた。

 その後、何を答えたのか。

 何かを答えることが出来たのか。

 その答えに昴がなんと返したのか。

 いずれも――不思議なほどに記憶の中でどこか深いところに埋没し、思い出すことは出来ない。

 一輝は、どう思う?

 声を繰り返し頭の中で思い起こして、一輝はその度に、その日の寒さと昴の指先や手の平の感触を肌に幻として感じていた。

 細く整った指。小さな手の平。薄い皮膚と、無駄のない筋と、華奢な骨。

 一輝。呼ぶ声。何度も聞こえる声。

 頬。指。手。体温。声。

 記憶からの想起。幻としての実感――



「一輝さん!」



 一際強い声に意識の芯を揺さぶられ、一輝は瞼を震わせた。

 ゆっくりと眼を開き、にじむ視界に少女のぼんやりとした影を見て、思わず唇が動いた。


「昴?」


 小さな呟きに、少女は――記憶の中の昴とは、髪の長さも歳も顔つきも異なる少女は、ほんの一時の間、寂しそうな微笑を浮かべた。


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