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夢幻紀行  作者: 瀬田 桂
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3日目 『そして僕は海へと堕ちてゆく』

 遙かに遠き水音が自分は一瞬のものであると強調するように、短く――とにかく短く遠く――世界のどこか上方で鳴ったと感じたときに僕はもう、周囲すべてを温い液体に包まれていた。

 視界はただただ澄み渡るばかりで、具体的に何々と名状できる確かな存在は目に入らない。海。大いなる海の体積は無限で、僕のようなちっぽけな子供には何一つ視ることすらできないのだと知る。


 重力。そちらが下なのだということを僕に教えてくれる唯一の手がかり。その力に引かれるまま、僕は堕ちてゆく。海へと堕ちてゆくのだった。

 上を見る。黒々とした光景に、大きな黄色い揺らめきが溶け込んでいる。月だった。水面に映る月が不定形となってただ妖しげに揺れ、その一部分が刻々と溶けていく。だんだん小さくなっていって、終いには消失してしまうんじゃないかと僕は心配になるが、どれほど時が経っても、月はそのままの不確実な形の大きさを留めていた。そこには変わり続ける不変があった。


 僕は堕ちてゆく――世界がどこか遠くへ行ってしまうような心細い感覚。少しでも抗おうと身体をばたつかせるが、どろどろと粘着質でさらさらと透き通った海は僕の抵抗をただ笑うように軽々と受け流した。否応なしに僕は堕ちてゆく。

 ある瞬間、身体がすうっと楽になるのに気づく。何かが僕の中から外へと流出していく。それは感情。絶望だったり、悲しみだったり、怒りだったり。あらゆる感情が海へと流れ、徐々に大量の水に薄まってゆき、どこか彼方へと消える。

 僕の中のすべてが海に消えてしまったとき、僕に何が残るんだろうか。それとも、そもそも僕という存在は最初から空っぽで、流れ出ていくのは無とか虚とかいうもので、実は喪失と感じているこの感覚は、空っぽの僕の体内が海で満ちていく過程なのではないか。この海以外のすべては、そもそも何もないのではないか。そんな思いがまだ残っているともしれない頭の中に浮かんで消える。


 堕ちてゆく、遠ざかる――。

 僕はもう、何かを考えることがひどくおっくうになってしまった。ただ薄らいでいくこの気怠さ、心地よさに身を委ねるだけしかできなかった。


 溶けてゆく、消えてゆく――。

 僕は重力に対して仰向けになっていた。遠ざかってゆくにも関わらず、月は相変わらず同じ大きさで揺らめいている。それは甘ったるい麻酔のようで、僕はそうと知らないままに沈んでゆき、海へと消えてしまうのだろうと思う。


 さようなら。まだしばらくこの海に漂っていたいと思ったけれど、僕はもう疲れ切ってしまっていた。

 ゆらゆらと揺らめく月の光を惜しみながら、僕は、ゆっくりと、目を閉じた。

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