1日目 『幸せな世界』
柔らかな日差しが瞼を撫で、私はベッドの上で目を覚ました。
跳ね起きて、光を通して薄く輝く純白のカーテンを勢いよく引いた。
「わあ!」
あまりにも青く、あまりにも広い空が目に飛び込んできたので、思わず声を上げ見とれてしまう。バルコニーに出られる窓を開くと、涼しい風が私の髪を優しく梳かしてくれる。
思わず庭に出て歌って舞い踊りたくなったが、もし誰かに見られたら恥ずかしい。精々バルコニーに出て鼻歌交じりで景色を眺めるに留めておいた。
「そうだ」
ふと思い立ち、寝室を出て、一階から最上階に突き抜けた階段を挟んで向かい側の音楽部屋へと向かった。
何だか身体が軽やかな感じがする。まるで空気の一部になったかのよう。
音楽部屋にはピアノ、ギター、バイオリン、フルートなど様々な楽器が集められている。
とりあえず近くにあったバイオリンを手に取りバルコニーに戻る。
演奏するのは昔、母が最初に教えてくれた思い出の曲だ。あれは何年前のことだったろうか。
時が経っても腕に楽譜が刻み込まれている。特に意識しなくてもひとりでにバイオリンは音を奏で始める。風に乗ってどこまででも飛んで行くといいなあ。
その時だった。視界の奥のほう、外と内を区切る大きい門の前に人影が。
慌ててバイオリンを置いて目を凝らす。
どうやら影は二つのようだ。門との大きさの比率から考えると小学生ぐらいだろうか。こちらのほうを見つめている。
珍しい。お客さんだ。もしかして私の演奏に惹かれて来てくれたのかな。
なんて、我ながらお花畑だと苦笑する。
ともかく時間がない。最低でもしっかりお出迎えだけはしなければ。
翔ぶように階段を降りて洗面所へ行き、姿見に全身を映した。
母に褒められたストレートの金髪に、お気に入りの緑のワンピース。何も問題はない。
歯を出して、目を細めてみる。もう一人の私はいかにも楽しそうに笑みを浮かべていた。これなら、大丈夫かな?
すっぴんだが、今回は祖母の「若い内は化粧なんていらないよ」という言葉を信じよう。
コンコン、コンコン、と何かを叩く音がする。扉をノックしているんだ。
「はーい! 今行きます!」
あたふたと玄関に向かう。一体誰が来てくれたんだろう。一緒に遊んでくれたらいいな。 お客さんは既に中に入り扉の真ん前に立っていた。鍵は掛かっていないからね。
やっぱり子供だった。男の子と女の子のカップルだ。二人は真ん中で繋がっていた。
「こんにちは! 私の名前は……」
様子が変だった。小刻みに震えている?
「お」
女の子が私を指差して言った。だけどそれだけだった。男の子はただ黙って目を大きく見開いている。
よく見れば二人共、尋常じゃないほど顔が青ざめている。みるみるうちに震えは大きくなっていく。
「お」
「どうしたの……」
「お化け!」
「逃げよう! レナ!」
男の子がくるりと反転し、半ば引き摺るように女の子を連れて全速力で外へ逃げ出してしまった。二人は恐怖が滲み出たような悲鳴をあげていた。
悲鳴を、あげていた。悲鳴――。
そうだ。そうだったのだ。忘れていた。いや、忘れたかったんだ。私はとっくに……。
泣いていた。幸せだった。ほんの一瞬だったけれど。
洗面所に行って姿見を見る。そこには空白が写っていた。何よりも大きな証拠だった。見ていられずにまた寝室に戻り、開けっ放しだった窓の近くに寄る。
バルコニーの床は一面ひび割れて今にも底抜けてしまいそうになっている。
生温く重たい風がすぐ横を通り抜けた。雲は黒くて密度が濃く、私を押し潰そうとしているようだ。
ここまでも、幻想だったんだね。
私は何もかもが嫌になりベッドに飛び込んだ。埃の臭いが鼻孔の奥を強く突き上げる。
と同時に瞬間、脳裏をよぎる走馬灯。数えることもできない遥か昔の光景。それが私の物かさえあやふやな記憶。幸福な、記憶。
眠ろう。眠ってしまおう。深く深く眠って、また全て忘れてしまうのだ。たとえ無限の螺旋を描き続けるだけだったとしても。
そして私は祈る。
次目覚めた時は、今度こそ素敵な世界を見続けていられますように。