後編
彼女を家に送るために、夕暮れ眺めながら二人で並んで歩く。先ほど沈み始めた夕日は、すっかり街をオレンジ色に染め上げている。緑の木々も、白い壁の家も全てが橙色だ。
「――そういえば、初めてあなたに会った日もこんな夕日だったの。覚えてる?」
「僕が覚えていないわけないだろう?」
くすりとどこか懐かしむような顔で彼女は目を細めて笑って、僕を見上げた。彼女は僕よりも頭一つ分は小さいのだけれど、そのために彼女の可愛らしい旋毛が少し隠れてしまった。
僕はハーフエルフだから、普通のエルフよりも背は小さい。それを気にしていなかったと言えば嘘になるが、でもやっぱり彼女との身長差を考えればこれで良かった。あまり離れすぎると、彼女が遠くなってしまうから。
「気付いたら、公園で倒れてるんだもの。驚いたっけ。そういえばコスプレしてたよね?」
彼女は考えるような仕草で、ぽってりとした可愛い唇に人差し指を当てている。
「こすぷれ?」
時々、彼女はこうやって僕にはよく分からない言葉を話す。彼女は、いつも『これも和製英語?』なんて言いながら笑うのだけれど、僕にとってはその言葉すらピンとこない。
「うん。なんか分厚いマント?みたいなの着てたじゃない。夏なのに暑そうだな、と思ったから印象的だったの」
「ああ。そうだね、着てた」
「何かイベントでもあったの?ゲーム、好きだもんね」
彼女はそう言ってくすりと笑った。恐らく、彼女が言った『コスプレ』こちらの国とは違う服装のことを指しているのかもしれない。やはり彼女の言葉は僕には少し難しい。
あの日着ていた、彼女がマントと言ったローブは実際にはかなり涼しい。エルフが紡いだ糸から作ったもので、羽のように軽く身を守る。そこらにいる人間が浴びせる一太刀くらいであれば破けてしまうこともないだろう。そう断言できるのも、――なぜならば、僕はこの星に生まれた男ではないからだ。
僕が彼女――トーコに出会ったのは些細な偶然によるものだった。
偶然古い友人の一人を訪ねたら助力を頼まれて、そのまま人間の戦に力を貸していた。
人間の争いは醜い。限りあるものを奪い合い、強奪し、殺戮する。それでもエルフの中には極たまに戦に力を貸す者もいる。それはほとんどが彼ら自身の退屈しのぎのためだ。実際には不死でも不老でもないのだが、人間からしてみれば永遠に近い時を生きる僕らにとっては人の生など一瞬のこと。だが、その一瞬に関わることで僕らも生の実感を持てるのはまた変えられない事実だった。
ちなみに僕が興味もない人間の戦なんぞに力を貸したのは、友人の王国のためにである。今は立派に人間の王である彼がまだ少年であった頃、一緒に旅をして世界中をまわった事は今でも時折思い出すほど楽しい思い出だ。あの好奇心の固まりのような少年が王になっているなんて、やはり人間は面白い生き物だ。
僕は人間の男に比べると線が細く、あまり骨ばっていない身体はゆったりとした服を着れば女に見えるくらいらしい。それでも個人的には女よりはしっかりした身体であると思っているのだが、それは今は置いておこう。
ハーフエルフであるせいなのか、僕は魔法はあまり得意ではない。特に咄嗟に使うものほど精度が悪いので、戦闘の時には一切使わない。しかし人間はエルフ族を見ると、『いつ魔法を使うか』と勝手に思い込んで警戒しているようだ。そのせいで慎重さは出ているが、僕から見ると動きが止まっているようにしか見えない。
「――ッ!」
両手に双剣を持って、風の上を舞うように敵兵を刻む。人の間を縫って、敵将のみを叩く。そうすると、逃げ出す人間も多いし、何より相手方の士気が一気に下がる。
そうして逃げ出した人間を呆れた目で見ながら、周りに敵がいなくなったことを人よりも鋭い感覚で確認して、剣を腰に下げた鞘にしまう。
周りを見れば、どうやらかなり遠くまでやって来てしまっていたらしい。友人の元まで帰るのが何となく面倒で、普段であれば滅多に使わない転移の魔法でも使おうかと思いつく。
『ヴァンデプラーゼ』
その言葉と一緒にいつもならば自分の身体を包む風が、その日はどこかおかしかった。――風の中でぐらりと目が回って視界が暗転した。
「――大丈夫ですか?」
次の瞬間に頭の上から聞こえたのは、耳に心地よい女性の声。その声には恐れも畏怖も見当たらず、ただ心配しているような声色だった。
「立てます?救急車呼びましょうか?」
「キュウキュウシャ?――いや、大丈夫です」
まだぐるぐると回っている頭で、どうにか首を振って答える。そして声の主に視線をやると、そこには一人の人間の女性がいた。肩まである髪はユリスの森の木の幹の色、同じ色の瞳。思った通り、優しい目をしていた。
「あれ、外国の方?私の言葉は……通じてますね」
その時初めて、彼女は僕の顔を見たのだろう。一人で納得するような顔で頷いた。ここではエルフなんて見ることがないのか、単純に言葉の心配をしているようだ。
エルフ族を見て一瞬たりとも怯える顔を見せないとは、と考えたそこで自分もはっと我に返る。彼女の言葉が何故か分かる。人間の言葉は多種多様で、その文明と一緒に生じて消える。いくつかの人間の言葉をエルフの言葉と同じくらいに扱うことができるが、僕は彼女が話す言葉を『知らない』のだ。それなのに意味が分かる。しかし、それは僥倖であるとはっきり思った。
「、すみません。少し眩暈がしたみたいで」
「そうですか。立てます?」
そこで僕が地面に膝を付いている状態であることに気付いた。目の前に彼女の細い手が差し出されて、それと彼女の顔を交互に見てしまった。
「手、どうぞ」
彼女はふわりと笑った。その彼女の笑みを僕は一生忘れることができないだろう
彼女の手を借りて立ち上がった僕は、そこで初めてその場所が見覚えのない場所。全く知らない場所であることに気付いた。確かに、エルフにとっては少しの時間人間の国へ訪れないだけで、全く知らない風景になってしまっていることは、よくあることだ。だが、この風景は見覚えがないどころの話ではなかった。明らかに自分が知る文明よりも上の文明だ。木々は恐らく人間の美意識に基づいて整備され、道は何かで覆われていて土が見えない。まるでどこかの国の王宮に迷い込んでしまったのかと思ったほどだった。
「――これは?」
「水です。何だか顔色が悪いみたい」
僕をベンチに座らせると、彼女はどこかに歩いていったかと思うと薄く柔らかい瓶を僕に渡した。それの中には確かに水が入っているようだ。しかし、この瓶は一体何なのだ。それはハーフエルフとして長い時を生きる僕は今まで見たことがない代物だった。
「どうぞ。そこで買ったものなので、何も悪いものは入れてないですよ?」
まじまじとそれを見ていると、それを怪しんでいると思ったらしい。彼女は僕が持っていた瓶の蓋を開けると、安心させるように優しく微笑んで再び差し出した。
「ありがとう」
意を決してそれ口に含むと、自然の味は薄い。だが、暑い中での冷たい水は僕の心を癒すには十分だった。暑い気温の中で、この冷たさを保つには魔法を使えない人族であれば何かしらの技術がいることだろう。きっと高いはずだ。
「――今、代金を渡します」
「いえいえ。結構です。落ち着いたみたいなので私はもう行きますけど、お大事に」
彼女は僕が財布を触るより前に、そう言ってその場から居なくなってしまった。
残されたのは、まだ冷たさの残る柔らかい不思議な瓶と差し込む夕日だ。そして、先ほど知り合ったばかりだと言うのに喪失感のある心。彼女の笑顔をまた見たい、そう思った。
「……ここは、第五十六世界?なるほど。違う世界の同じ地点にいるのか。どうりで魔力が無くなるわけだ」
とりあえず、ここがどこなのか調べると、ここが僕が生きていた世界と違う世界の同じ座標を示す場所であることが分かった。どうやら僕は移動の魔法を使った際に、違う世界まで飛んで来てしまったらしい。
戦闘ではほとんど魔法を使わなかったので、かなり残っていたはずの魔力がその半分ほどに減っている。急激な魔力の低下による眩暈だったのかもしれない。そう納得すると、先ほどもらった水をまた一口含んだ。
「――よし、覚えた」
僕は小さく呟いて、頷いた。そして再び魔力を練ると移動の魔法を唱えた。ここの座標を覚えたので、ここにはまた訪れることができる。
人の生は短い。だから、行動は迅速に。そして怯えて逃げられないように丁寧に、だ。
きっとその時の僕の顔を友人が見たとするならば、まるで狩人のようだと言っただろう。にっと口角の上がった口元は、僕が唯一無二を見つけてしまった喜びを抑えることができなかった。
「あ。そうだ」
彼女の手を取り、彼女を自宅に送りながら歩いているとトーコがはっと声を上げた。
「何だい?」
「あなたの故郷に行くなら、何かお土産を準備しなきゃ。あなたが帰る時はどんなものを持って行っているの?」
トーコが何を言うかと思えば、至極真剣な顔でそう言い放った。
「お土産?いらないよ、気にしなくて大丈夫だから」
「でも。あなたの家族に少しでも印象を良くしてもらいたいんだもの」
トーコはそう言って小さく肩を落とした。お土産も持ってこないなんて、そんなことを気にするエルフは恐らくいないだろう。だが、トーコのその言葉がじんわりと僕の心に響く。
「……それじゃあ、君が焼いたくっきーがいいんじゃないかな」
「クッキー?でも、お店のクッキーの方が美味しいと思うけど……」
「いいんだよ。売っているものよりも君の心がこもっているから、きっと喜んでくれる」
ほっとする、あたたかい心を感じるお菓子だ。トーコが心を込めて作ってくれたと分かる。僕達エルフはその心を感じることができる。母はエルフではないけれど、きっとトーコのお菓子を気に入ってくれるはずだ。彼女を僕の屋敷に招いたら、きっと両親は旅行先から遊びに来てくれることだろう。
「あなたがそう言うなら……」
トーコは渋々と言った様子で首を傾げながら頷いた。そんな彼女にくすりと笑みを作って、彼女の髪を撫でた。
――何よりも、僕が彼女のクッキーを食べたいと思ったことは今は秘密にしておこう。