前編
「――そこでだよ。大きな欅の木に似た、直径数メートルはある太古からの巨木の上から矢を放ったんだ」
「直径数メートル?そんなに大きいんじゃ、枝張りも多くて下なんて見えないんじゃない?」
「それは、僕がハーフエルフだから。数里先で誰かが歩いていようとも聞こえる耳があるし、遠くまで見渡せる良い目を持っているから問題ないんだよ」
あたしが不思議に思って聞けば、彼はそう言って濡れ烏色のまつ毛を瞬かせて得意げに笑う。目の前にあるアイスコーヒーの氷はほとんど解けて、コーヒーの味はすっかり薄くなってしまっている。コーヒーが自慢の喫茶店なのに彼はコーヒーにはあまり興味がないようだ。
得意げに自分がプレイし終わったゲームの話をしているのは、あたしが付き合っている彼氏。男にしては長めの髪は艶があって美しく、あたしの枝毛交じりの細い髪とは大違いだ。そして日本人ではありえないくらいの整いすぎた綺麗な顔は、自分が女であることに自身が持てなくなるほどで美しいのである。聞けば出身は日本ではない、遠くの国の出身らしい。何度か聞いたけれど、発音が難しくてあたしには上手く言えない国名だった。雪のように白い肌から考えるに、彼の生まれ故郷は北方にあるのかもしれないとぼんやりと思う。
そんな彼はゲームが大好きなようで、デートで会う度にプレイし終わったゲームの話をしてくる。まるで自分が体験したかのように話すことから、きっと今流行りの体感型ゲームっていうヤツなのだろうと見当をつけている。正直あまりゲームには興味はないけれど、彼があまりにも生き生きと楽しそうに話すのであたしはついつい彼の話を聞いてしまうのだ。
「ハーフエルフね。その設定好きだよね。今度は何のゲームだったの?」
「今度のは何て名前になるのかな、まだ分からないや。次に会う時には答えられると思うけど」
ハーフエルフ、それは彼がゲーム中でよく使う人種の設定だ。その名の通り、純粋なエルフではない。エルフとその他の種族――彼の場合は人間――が結婚したことによって生まれた人の事なのだと言う。
あたしが珍しくゲームの名前を尋ねると、彼は難しい顔で少しの間考えて、そして小さく首を傾げた。そんな些細な仕草でさえも、女であるあたしよりもそれらしい。
自分がしていたゲームの名前を知らないなんて変な話、そう思いながらはっと思いつく。
「新作ゲームのテストプレイでもしてたの?」
「テストプレイ?」
「そういう仕事じゃないの?」
「ああ。そういうこと?うん、人に頼まれて働いていたんだ」
彼は遠くを見るように視線をやって、呟くように言った。その表情は何かを懐かしむような、そんな表情であたしは思わず息を止めた。
「何か特別な人の頼みだったの?」
彼はゲームの話はよくしているけれど、仕事の話はあまりしない。ということは、何か特別な事情でもあったのだろうか。そもそも、テストプレイなんてそうそうやる機会はなさそうだ。
「古い友人、かな。彼の最後の頼みでね」
「最後のって……」
それは何気ない質問だった。けれど、あたしはすぐにその浅慮な質問に後悔することとなる。彼の悲しげな声にあたしはまさかと恐る恐る彼の顔を仰ぎ見た。
「遠い所に行ってしまった」
「そう、なの。辛いことを聞いてごめんなさい」
「いいや。いいんだよ。僕こそ君をそんな顔にするつもりじゃなかったんだ。気にしないで。彼の死は名誉あるものだったから」
「そう……」
ゲームのテストプレイの話がこんなことになると思わなかった。彼の古い友人であるという人が魂を込めて作ったゲームなのだろう。きっと、彼の友人も彼に最後の頼みを叶えてもらえて嬉しいはずだ。
久しぶりの彼との逢瀬で楽しいはずなのに、何だかしんみりとした空気になってしまった。何を話そうかなと考えているとカラン、と氷が溶けてコーヒーに沈んだ。それを見ていたあたしは彼がテーブルの上で組みなおした手に視線を遣った。
「あれ?こんなところに傷なんてあった?」
「ん?ああ、これかい?」
左手の小指に走る切り傷の痕。彼の手を取って、よく見てみればそれは左手の人差し指から小指までを一本で繋いでいた。ほとんど治りかけにも見えるそれは、傷の上を他の場所とは違う色の新しい皮膚が覆っていた。
「どうしたの?痛くない?」
「この間ちょっと失敗しちゃってね。相手の剣を手で受け止めるなんて、ちょっと僕にはまだ早かったみたいだ。咄嗟の魔法が上手く使いこなせなくてね。せめてエルフだったら、魔法に失敗することもないんだろうけど。それとも、ハイエルフならこんな傷を負うこともないかな」
あたしの手が彼の指を早く治るようにと労しげに撫でるのを見つめながらそう言って、瑠璃色の瞳で誤魔化すように笑った。
「もう!こんな時までふざけて。あなたがエルフでも、ハイエルフでもなくていいから、ただ心配なのよ。あなた見る度に違うところに新しい傷を作っているもの」
「……本当に?本当にそう思う?」
「ええ。思うわ」
まるで捨てられた子犬のような瞳だった。だからあたしはうんと安心させるように微笑んで頷いてみせる。彼がこうやって空想めいた話をし続けるのも、きっと不安だからに違いない。こうやって夢物語を話してあたしの気を引こうとしている、そんな風にも思うのだ。
彼はあたしが微笑んだのを見て、嬉しそうに笑う。そして彼の指を撫でていたあたしの手がぎゅっと握った。
『……セルエニークオルモンド』
「セル?え?」
彼はまるで眩しいものを見るかのように目を細めて、あたしを見つめて蕩けそうな笑みを作った。それと同時に何か言葉を話していたけれど、何だか透き通った響きのするあたしには聞き取れない言葉だった。
「――ううん。何でもないよ。あ、それよりも。次はいつ会える?」
彼はあたしの問いにゆるゆると首を振って、話を変えた。少し気になりはしたけれど、彼の話題の方があたしには大事なことだったのですぐに飛びついた。
「次?あなたは忙しくないの?最近ずっと忙しかったみたいだけど」
「それなら大丈夫。仕事?が終わったから、少し時間ができたんだ」
そう、近頃の彼はあたしが連絡しても『しばらく君に会う時間を作れない。君に会いたくて仕方ないよ』とメッセージを寄越したっきりで連絡も取れない始末。寂しさと苛立ち半分、優しい彼がそう言うくらいだから、よっぽど切羽詰まった状態なのだろうと諦めていたのだ。でも、先ほど友人の話を聞いて仕方の無いことだったのだろうとようやく気持ちにけりが付いて満面の笑みで彼を見た。
「そうなの!それならあたしもしばらくはいつでも大丈夫」
「あれ?君、学校は?」
「大抵の日本の大学生は春休みで来月から二ヶ月ほど休みよ」
彼は日本出身ではない。きっと国ごとに学校の休み事情は異なるだろうからと考えて、彼に自分の春休みの予定を告げた。いつもは学校をサボろうとすることを決して良しとしない彼もきっと喜んでくれるはずだ。学校がある時期は彼のその考えのおかげで、彼の予定との都合もあって短い時間しか会うことができないのだが、休みであれば彼と好きなだけ一緒にいることができる。
「へぇ。一ヶ月が三十夜くらいだからその倍か……。それは良いね!」
彼はぶつぶつと彼の自国の数えをして、それからにっこりと笑みを浮かべた。
「何しようか?そういえば、あなたはいつも休みは何してるの?」
「休み、か。ゆっくり本を読んだり、馬で遠乗りをしたりかな」
何気ない質問をしたつもりだが、彼はあたしのって『普通』の休日の過ごし方ではないことを話した。これも異文化というやつなのかもしれない。都会で生まれ育ったとは言わないけれど、馬という生き物は牧場や動物園、もしくは競馬場にいる動物というイメージで、あたしの中では休日に共に過ごす相手ではない。でも、子供の頃から動物は好きだった。むくむくと自分の中に好奇心という言葉が湧き出るのを感じた。
「馬で遠乗り?あたし馬に乗ったことないんだけど、あたしでも乗れる?」
「もちろん。僕の馬はとても優しくて賢い紳士なんだ。きっと君にも優しく接してくれるはずさ」
「え?あなたの馬に乗せてくれるの?」
彼の馬のことをまるで一人の身内を紹介するかのように話す。それはきっと彼と彼の馬の信頼関係を表すのだろうと思って、微笑ましくも少しだけ羨ましく思った。自分のことも彼がそんな風に誰かに紹介してくれたらとっても嬉しいだろうと想像して。
「もちろん!よければ、今度の休みに僕の故郷に招待させてくれないかな?」
「嬉しい、けど……」
「けど?」
彼の言葉はとても嬉しい。その言葉に嘘偽りはない。だが――。
「遠いんじゃない?あたしは学生でお金もないし……」
あたしの言葉は尻すぼみして小さくなった。言葉の通り、学業中心の生活であるあたしは海外に行くようなお金は持ち合わせていない。それに彼の生まれ故郷は名の知れたような国ではなく、彼の国へ行くためには所謂観光でよく訪れるような国へ行くよりもお金がかかることが簡単に予想できた。
「大丈夫。招待させてと言っただろう?君は着の身着のまま来てくれれば良いよ」
「そんな」
「いいから。大人に甘えて?」
そう言って彼は優しく笑った。普段ファンタジーな話しかしない彼はあたしとそう変わらない年のように見えて、時々驚くほど大人の顔をする。白雪のように真っ白な肌にはシミどころかそばかす一つ見つけられず、小皺だってない羨ましいくらいの子供のような艶のある肌だ。まるで同年代かあたしよりも年下であると憚らない容姿なのに、もしかして彼は自分が思っているよりも大分年上なのかもしれないと思う時がある。
「……じゃあ、出世払いってことにさせて?」
「出世払い?」
「いつか、あたしが出世……働いてお金ができたら返すっていうこと」
これもまた日本独自の言い回しというヤツなのだろう。あたしは少し考えて言葉を噛み砕いて彼に説明した。
「別にそんなのいいのに。でも、君がそれで納得できるならそういうことにしておくよ」
「その時はちゃんと受け取ってくれないと嫌だよ」
彼は肩をすくめて、あたしの頑なな意思に苦笑を漏らす。スタンドカラーの紺色のシャツにグレーのパンツ、一見シンプルに見えるそれも質の良さが伺える。しがない学生であるあたしには服の良し悪しは分からないけれど、漂う高級感だけは分かる、質の良いものだろうと。きっと彼はその服に見合った財産を持っているのだろうけれど、たかだか少し付き合っているだけの自分にそれを使わせるのは忍びない。……いや、金銭的に甘えることで彼と同等でなくなってしまうのが怖いのかもしれないと思う。
「そんな顔しないで?僕が君に僕の故郷を見て欲しいだけなんだから。だからこれは、僕からのおねだりなんだ。君がそういう顔をして欲しいわけじゃない」
そう言って彼はあたしの左頬に右手を伸ばして、その頬を親指で撫でた。
「……私あなたの故郷を見るの、楽しみなの。でも、あなたに子供だと思われるのが嫌だった。――この考えこそが子供じみているのに」
「君は子供なんかじゃないよ。僕が年を取りすぎているだけさ」
「取りすぎているだけって、本当は何才なの?」
「うーん。まだ秘密、かな。故郷に来てくれたら教えるよ」
「いじわる!」
そう言って拗ねたように言うあたしを、彼はにこにこと笑って見ていた。
「――おっと。もうこんな時間だ。レディは暗くなる前に家に帰らないと」
「もう少し平気よ」
窓から外を見れば、すっかり夕日が街を照らしていた。それは彼とのひと時の別れの合図でもある。久しぶりに会えた彼と別れるのが名残惜しくて、もう少しとねだれば彼は予想通り眉を寄せて首を振った。
「だめ。心配だから、お願いだよ」
「……分かった。また連絡くれる?」
懇願するかのような彼の声色にあたしはいつも通り白旗を揚げて、彼に代わりの約束をねだる。
「もちろん。僕の鳥が君の部屋の窓をノックしたら入れてあげて」
「……それはいいよ。あの子可愛いし。でも、そろそろ携帯電話くらい持ったら?あると便利だと思うけど」
「あー。うーん、考えておくよ」
「嘘。絶対考えてない顔をしてるもの!」
少し怒った顔で言ってみても、彼は何てこと無い顔で楽しげに笑い声を上げるだけ。それは絶対に考えていない顔である。
そんな彼があたしに寄越す連絡手段は白い鳩くんが運ぶ短い手紙だ。彼のファンタジー好きには目を見張るものがある。いつの時代だと思ったが、すっかり慣れてしまった自分も驚きだ。だが、そんな自分も嫌ではないのだから不思議なものである。