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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

伸びる女

作者: 朝戸あんり

ジェイソンフレディブギーマン系ノンストップスプラッターホラー直球作品です。たまにはこういうのも…

   ()びる女


 ビー玉くらいの大きさの雨粒が凶器と化し、窓の外で好き勝手に暴れていた。少なくともこの雨は、昇る太陽を三度ほど(さまた)げている。うんざりさせる雨だった。

 健康の増進、自主活動、特別な教育を施すためにうちの学校が企画した高原での集団生活。いわゆる林間学校での教育プログラム。学校側の思惑とは裏腹に、山の天気は察してくれない。初日から三日間、太陽は一度も顔を見せていない。

コテージの外で猛威をふるう雨は、山の地形を変えてしまうんじゃないかと、ワタシは気が気でなかった。帰れないのでは、という不安よりも、土砂災害への恐怖よりも、ただただ自然の持つチカラを目の当たりにして驚いていた。

 異性についての話題に(いち)段落ついたのか、クラスメイトのクノミがワタシの隣に並び立ち、ほとんど何も見えない外を眺めながら言った。

「今日も泊まりかしら。これじゃあ、途中でぜったい遭難しちゃうよね」

 ワタシは彼女に視線を移し、相槌(あいづち)をうった。

「無理ね。それとも、はぐれないように、みんなで手をつないで帰る?」「うげ! 気持ち悪いこと言わないでよ。でもまあ、トキくんとならそれでもいいかも」「(おおやけ)の場でそんなことしたらブチ先生に怒鳴られるわよ。受験を控えている身だと忘れるな! ってね」「いいもん、私は就職組だから」

 とそのとき、突然、窓の外が光った。その後の轟音。音はすぐ近くから聞こえたような気がした。

 窓に視線を戻し、「近かったね」とワタシは言った。返事がないのでまた隣を見る。

 すると彼女は、顔色を青くし、「すぐそこに、女性が立っていた」と聞き取れないほど小さな声で言った。

 そんなバカな、と思いながら、雨足の激しい外を見る。午後十二時を少しまわったくらいだというのに視界は最悪。絵画に水をぶっかけたようにすべてが溶けている。そして、当然というか、人の姿は見当たらなかった。

「本当に居たの?」「ウソじゃないわ」「誰だったの、先生?」「知らない人。傘をさしていなかったわ。遭難者かしら」「登山には向かない格好ね。あり得るわ。でも、きっと気のせいよ」

 そんなはずないんだけどなあ、というクノミの言葉を残し、お昼の用意が出来たようなのでワタシたちはその場を後にした。

 翌日、午前九時。あんなに荒れ狂っていた空がウソのように晴れ渡っていた。四日目の太陽、少し感動した。

 さあ今のうちに下山するぞ。山の天気は変わりやすい。急げ! という生徒指導のブチ先生の言葉でみんな荷物をまとめ行動を起こした。山を抜けるのに約五時間。午後には元の生活が訪れる。ひどい天気に見舞われほとんどを室内で過ごしたけど、森には、都会にない神聖さが満ちていて、ワタシはもう少し居たいな、と思った。

 ヤギやヒツジの群れのように、ワタシたちは黙々と歩いた。ブチ先生が先頭で何事かわめいているけど、後方にいるワタシには何を言っているのかよく聞こえない。だから、自然を堪能できた。二百人弱の足音がうるさかったけど、すてきな景色、香り、鳥たちのさえずりははっきりと感じられた。

 どれくらい歩いただろうか。時刻が気になったけど、バッグにしまった携帯電話を取り出すのもおっくうに感じられ、調べることはしなかった。額に浮かぶ汗をハンカチで拭い、キンキンに冷えている水筒に入った水をひとくち喉に流し入れたとき、背後からの声が耳に入った。

 あ! 雨。

 頭上を振り仰ぐ。ワタシはすぐにブチ先生の言葉を思い出した。思い出した瞬間、今ではもう見なれた破壊的な豪雨が降りそそいだ。幾重(いくえ)にもかさなる雨雲が、光と視界を一瞬にして消し去った。

「避難できる場所を探そう!」というブチの声が響き渡る。他の先生がそうしましょうとかなんとか言ったような気がする。前進を続け、そういえば途中で洞窟があったよね、とクラスメイトの誰かが言う。それを聞いてあったような気がする、とワタシは思い出した。あちらこちらから不平の声が聞こえてくる、うおお最高だよ~などと中には喜びの雄たけびを上げるバカな男子もいたけど、ひたすら前進。そして、ようやく洞窟が見つかった。

「みんな、いったんこの中に避難しろ!」と偉そうにブチが叫ぶ。お前がこんな状況に追い込んだんだろ、と誰かが静かにぐちる。それでも、力強い雨に打たれているよりはいい、と生徒たちは次々と洞窟の中に避難して行った。驚いたことに、二百人くらいの人数がすっぽりと収まった。そのせいでブチが勝ち誇ったような顔をしている。洞窟のおかげなのに。

 ワタシたちクラスは洞窟の入り口のほうに待機した。奥がどこまでつながっていてどのような形状をしているのか、興味があったけど、密集していて、とても入って行ける状況ではなかった。待機中、みんな黙ってはいなかった。大騒ぎしていた。変な虫がいる~とか奥に行ってみようぜとか、収拾(しゅうしゅう)がつかなくて、先生たちが怒るのをあきらめてから数十分後、雨の勢いが(おとろ)えた。

「おい! そろそろ出発するぞ」とブチが命令し、ぞろぞろとみんな出てくる。全員が出終わったころ、何処かのクラスの男子生徒が言った。

「あの~先生~、うちのクラスの生徒、ほとんど居ないんですけど~」

 彼が何を言っているのか意味がわからなかった。茫然としていると、彼の担任の動きがせわしなくなった。科学の先生だ。髪の毛を七三で分けた眼鏡の先生。続いて他の先生たちも騒ぎ出す。どうやら、あの生徒が言ったことは事実らしく、生徒がごっそりと消えているようだった。洞窟の奥に入り込んでいて、出発の号令が届かなかったのだろうか。

 数人の先生が洞窟の中へと引き返して行く。彼らの姿が消えたあと、ブチが分厚いくちびるをブルブルと震わせてまた叫ぶ。

「とにかく、ここにいるメンバーは出発だ。行くぞ!」

 その言葉に逆らう者はいなかった。ぞろぞろと行進が始まる。

 頭上を見上げると、木々の隙間から青空が見える。だけどそれが、いつまで続くのか、前例があるのでワタシは安心できなかった。

 地面はぬかるみ、湿度が上昇し、()(みょう)な出来事の発生で、みんな黙って歩いていた。何度か先生たちから(はげ)ましの言葉が届いたが、歩数が増えるたび、徐々に減って行った。

 不安と疲労がつのり、焦りの色がみんなの顔に浮かんできたとき、ふたりの先生が「様子を見てくる」と言って引き返して行った。そう、戻ってこないのだ、洞窟で消えた生徒たちと、それを調べに行った先生たちが。残されたのはブチと生物と音楽の先生の三人。ブチが先頭で生物の先生がしんがりを務めた。

「ねえねえ、いったい何があったのかな?」と、クノミが言った。

 もちろん、「さあ」としか返せなかった。

 それからまた沈黙。山のふもとまであと少しというところで黙々とした行進に変化が訪れた。

 はるか後方から響きわたる絶叫。声は……声の大きさは、徐々にワタシたちに迫ってくる。聞き覚えのある声も中に混ざっている。騒然となる中、それは、姿を現した。そう、《それ》としか形容しえなかった。

 赤い液体を垂れ流す頭部。真紅の衣類。ボゴボゴという足音。しかし《それ》は人間で、しかも、知っている人だった。七三の眼鏡先生だ。

 ブチが前方よりこちらへ駆けよって来て、いったい何があったんですか? と言った。

「伸びるんです」「……え?」「の~び~る~ん~で~す~」

 まさに、言葉通りの意味だった。

「せ、先生、その(あご)――」

「お~そ~わ~れ~た~ん~で~す~」

 言葉をなくした。絶句とは、このことだと、初めて認識した。

 科学の先生の顎が、へその位置まで、だら~~ん、と垂れ下がっていたのだ。

 下顎を、へそから上顎までの長い距離を持ち上げ、唇を閉じてまたはるか下まで落ちる。だから言葉が伸びているのだ。話すのに時間がかかるのだ。

 ここで、また雨が降り出した。瞬時にして数メートル先も見通せなくなった。

 雨の音にかき消され、よくは聞こえなかったけど、ブチの言葉は震えているようだった。

「先生、痛くないのですか?」

 痛がってないじゃないそんなことよりも! とワタシは思い、後方へ頭をめぐらせて、ブチに言った。

「ブチ先生、いったい、誰に襲われたんでしょうか?」

 これから俺が訊こうとしていたんだ、とでもいいたげに、ワタシを一瞥(いちべつ)して、また科学の先生のほうに向きなおった――が、その瞬間、あり得ないことが起こった。

 科学の先生の身体が少しだけふわりと浮上し、そのまま大粒の雨をかき分けて、すごい勢いで上昇し、すぐに小さくなって消えて行った。

 さすがにこの状況は、前方にいた生徒たちにも見えたようで、悲鳴などがわき起こっている。

「静かにしろ! きっと何かの見間違いだ。気のせいだ。さあ、進め進め。もたもたするな!」

 それが、ブチの最後のセリフとなった。

 全生徒の視線がブチに集まり、命令を耳にし、それから顔を前へ戻そうとしたその刹那(せつな)、ブチの身体が先ほどの科学の先生同様に、宙に浮き、森の奥へと飛んで行ったのだ。何かに腰を引っ張られるかのように、両手両足を前方に突き出し、身体をくの字に丸めて消えて行った。

 それからは、パニックだった。登山道を()れている者も多数見受けられた。みんなバラバラに走り出した。他人に注意を払う余裕はない。

 ふたりだけになった音楽と生物の先生が、大人の威厳を守るようにみんなを落ちつかせようと叫ぶが、もう誰の耳にも届かない。

 ワタシも必死に走った。全力で駆けだした。それというのも、ワタシは見たのだ。

 森の奥からにょきにょきと伸びてきた、白い腕を。

 華奢(きゃしゃ)な女性の腕だった、にもかかわらず、ブチの巨漢を軽々と持ち上げて、森の奥へと引きこんだのだ。それも片手で。おそらく、科学の先生も、ヤツに襲われたのだ。それから、ワタシたちが洞窟を出てからずっと姿を現さない、みんなも。

 駆けている途中、いたるところから雨音に混じって悲鳴が響いてくる。それでも、立ち止まることは出来ない。逃げなくてはならない。見てはならない。捕まってはならない。得体の知れない化け物から一刻も早く距離を取らなければならない、そう、ワタシの感が警告している。

 逃走中、地獄絵図が視界に入ってくる。抗うことはかなわず、そして、眼をそらすことも出来ない。眼を開けていなければ、決して、逃げられないからだ。

 崖の下に転落し、樹の(みき)にぶつかり首の骨を折っている者。他の生徒に踏みつぶされ、事切れている者。草の陰にぶるぶる震えながら隠れている者。右腕を変な方向にブラブラさせている者。ワタシに助けを求める者。ワタシの名を呼ぶ者。泣いている者。壊れている者。放心している者。笑っている者。

 誰一人、助けることなく走り続けた。そんな余裕はなかったのだ。雨のせいで視界が悪い。何度も何度もぬかるみに足を取られるが、態勢を立て直して、ワタシは走り続けた。

 背後から響いてくる悲鳴、絶叫、哀願(あいがん)、まさに、阿鼻叫喚(あびきょうかん)だった。リアルの絶叫、悲鳴は、映画などとは違い、なんとおぞましいのだろう。なんと、心の底を震え上がらせる力を持っているのだろう。

 助かりたい逃がしてください許してください。それだけを願いながら足を急がせた。

「こんなところに居たのね、やっと追いついた!」

 そう言いながら、隣に並んだのはクノミだった。息を切らせながら彼女は続けた。

「どんなヤツ、なんだろう。腕しか、見えなかったんだけど」

 しかしそれに対する答えは持っていなかった。

「そんなことはどうでもいい。とにかく振り向かずに、体力が続くかぎり、走るのよ」

 少しずつ、みんなの声が減っている。それが何を意味するのか、考えるのが怖かった。

 どれくらい走っただろうか。この視界この思考の中、確実に出口に向かっているという確信はなかった。もしかしたら、知らず知らず、森の奥へと引き返しているのかもしれない。吐く息に濁音(だくおん)が混じり、手足に酸素が行きわたっていないのがわかる。クノミもまた、口数が減っている。減っているといえば、気づいた、もう、背後から叫び声も、怒号も、罵声(ばせい)も、届いてこなかった。ただ、雨の音と、泥水に足を突っ込む音だけが、すべてだった。

 ついにというべきか、やはりというべきか、木の根に足を取られ、クノミが転倒した。

 今までワタシはさんざん仲間を見殺しにしてきた。助けたいとも思わなかった。なのに何故、クノミの場合は足が止まってしまったのだろうか。無意識だった。いや、もしかしたら、走り続けるのに限界が来ていたのかもしれない。身体が休息を欲していただけかもしれない。しかし止まったからには助けなくては、と開き直り、ワタシは手を伸ばした。

「早くつかまって!」

「ごめん、ありがとう」

 クノミの右腕を取る。

 残された力を振り絞り、彼女を持ち上げる。

 クノミが片足を上げてワタシの負担を減らそうとする。

 そのとき、ふと、異物(いぶつ)が視界に入った。

 それは森の奥から伸びてくる白い(くだ)。いや、管ではない。それから、腕でもない。

 ワタシは言葉を失い、動作もなくした。(とき)も、止まった。

 動こうとか、逃げようとか、叫ぼうとか、そういった感情はすべて消えていた。茫然と見守ることしか出来なかった。

 バグ。そう、バグ! とクノミの足首に張り付いたのは、顔だった。噛みついたのだ。

 スキンヘッドで色白の女性。眉もない。まつげもない。歯は生えている。真っ白な歯。眼は小さい。異様に小さい。普通の人の半分くらい。黒眼だけが、まるで穴ぼこのようにポツンとある。黒眼がワタシを見据えている。見つめている。次の獲物はワタシだというように。睨んでいる。無表情。表情はないのに喜んでいるように見える。嬉しそうに見える。首が長い。根元ははるか遠く。雨にかすんで見えない。胴が見えない。張りつめたロープのように長い首。少しもたるんでいない。まっすぐ伸びた首。血管が浮いている。血を勢いよく胴のあるほうへ送っている。その都度、どっくんどっくんと波うっている。眼と眼が合う。化け物はワタシを見ている。クノミの足首に食らいついたままワタシを見つめている。

 楽しそうだ……美味しそうだ。

 怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。

 化け物の口もとから血が滴り落ちる。雨に溶け、ピンク色だ。とめどなく、血が流れる。止まらない。雨に負けないくらい流れ落ちる。泥水が、赤みをおびる。赤に近い茶色から、黒に近い赤色に変わる。どこかから、ズルズルという音が聞こえる。雨の音に混じって聞こえてくる。音がすると流れている血が止まる。飲んでいる? ズルズルと血をすすっている!

「助けて!」

 クノミの叫び声で我に帰った。その刹那、彼女の身体が宙に浮く。足を引っ張られている。ワタシは彼女を連れて行かれないように踏ん張る。地面の中に足がめり込んでいく。ワタシの腕もピンとまっすぐ伸びる。ズズズズとワタシの身体ごと引きずられて行く。このままではクノミを持っていかれる。ワタシも、連れて行かれる。

 ワタシは足元を見た。

 大きな丸い岩を持ち上げ、化け物の頭部に振り下ろす。

 経験したことのない衝撃が岩から腕に伝わってきた。固いものを、固いもので破壊した感触。気持ち悪さのあまり、岩を落としてしまった。しかし、岩が地面に落ちたと同時に、化け物の頭部は口を離し、ワタシをじっと見つめたまま、森の奥へと消えて行った。


     ☆

 クラクションの音、歩行者信号の音、通行人の談笑、犬の鳴き声、どこかのお店からもれる音楽、それらに安堵するクノミだったけど、ワタシには何も入って来なかった。現実がただの空白になっていた。もしも隣にクノミが居なければ、現実に起こった出来事だとはとうてい思えなかっただろう。いや、彼女の足首についた、血にまみれた歯形を見なければ……。

 クノミがひとりになりたくないとすがりつき、ワタシも同じ思いだったので、彼女のマンションに行くことにした。オートロックの入口を通りエレベーターへ乗り込む。止まったのは七階。クノミの家は角部屋だった。

 両親は旅行に行っているらしい。こんな日に、孤独は耐えられないだろう。だからワタシは家に電話し、泊まることを告げた。五日も家を開けて、さらに友達の家に泊まるということに母親が激怒したが、適当に話しをでっちあげて電話を切った。

 ホッと胸をなでおろし、ワタシたちは並んでソファに腰掛け、無言のまま、意識を失うように眠った。

 疲れが抜けきらないまま眼を覚ました。電気をつけているので外はもう暗くなっているのだろう。

 クノミはどこに行ったのだろう、と重い腰を上げる。彼女はリビングに居た。椅子に腰かけ、ノートパソコンを立ち上げていた。ワタシが近づいて行くと、起きたのね、とつぶやき、パソコンのディスプレイを指差した。

「私が思うに、あいつはろくろ首という妖怪かも」「ろくろ首って、首が伸びる女の妖怪?」「そうよ」「でも、伸びるのは首でしょ? あの化け物は腕とかも伸びていたけど」「首が抜けて自由に飛び回るのもろくろ首。それなら、手が伸びるバージョンも居るのかも。だけどそんなことはどうでもいいのよ。ろくろ首って、江戸時代以降の文献に実話として登場しているの」「実話?」「そう実話」ワタシは開かれているウィキペディアの詳細を確認した。だけどよく見てみると、幻覚やら怪奇趣味、興味本位といったふうに書かれている。正直、信憑性(しんぴょうせい)にとぼしい。ここでクノミが声を荒げてワタシを見る。

「これだけならただのでっち上げよ。でもね、見たでしょ。実際に目撃したでしょ。それから、襲われたでしょ!」

 たしかに、間近で目撃して視線を交わした、脈打つ血管もはっきりと覚えている。それにクノミの傷はなまなましく残っている。ろくろ首とは言わないまでも、現実に、化け物は存在するのだ。

「とにかく」クノミは安心したように肩から力を抜いた。椅子がギシッと鳴る。「私たちは助かった。無事、逃げのびた。他のみんながどうなったのかは知らないけれど、警察に話して、あいつを捕まえてもらわないといけない。それが、私たちの使命だと思う。助かった、理由だと思う」

 かっこいいことを言う、と感心した。ちょっと見なおした。

「そうね。だから、ワタシたちは助かったのかもしれないわね」

「とりあえず行動開始は明日。起きたらすぐ警察に行こう。そうだ、お風呂つかっていいよ。着替えなら私のを貸してあげる」

 嬉しい言葉だった。泥にまみれ、疲れきり、恐怖に支配され、あの女の顔がまぶたから離れない。シャワーを浴び、一息いれたいと思っていたからだ。

「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうね」

「私は、ちょっと具合がよくないから、先に休んでいるね。冷蔵庫に入ってるの、自由に食べたり飲んだりしていいから」と言ったクノミは本当に顔色が悪かった。

 浴室へ移動しようとしたワタシを、クノミが呼び止めた。

「ねえ、トキくんは無事かな……電話しても出てくれないの」

「どうだろう……」

「実はね、高校を卒業したら、結婚するつもりだったの」

「ええ!」そんな話は聞いていなかった。「ちょっと早すぎない?」

「まあいいわ。くわしくは後でね。さっさとシャワーに行ってらっしゃい」

 呼び止めたのはそっちでしょ、と不平をもらした。

 シャワーのお湯は、ワタシの想像以上に癒しの効力を持っていた。疲れも恐怖も、それから現実も、奇麗に流して行った。心も身体もリセットされ、ゼロに戻ったとき、急に膝が震えだし、その場にへたり込んだ。(ほお)を伝うのが、涙なのか、水なのか、ワタシにはわからなかった。

 そのとき突然、お湯が止まった。止めてはいない。自然に、止まったのだ。

 不思議に思い、見上げる。

 ワタシは息を呑みこんだ。

 シャワーヘッドの穴という穴から、黒い糸のようなものがゾロゾロと伸びていたからだ。垂れ下がり、うねうねと動き、獲物を探すかのようにさまよっている。

 それを見てワタシは後ずさった。何故か、触れてはいけない、と感じたから。こんなの普通じゃない。森での惨劇が脳裏によみがえる。

 まだ、続いている?

 あいつが追いかけてきた?

 ワタシはドアを開けて裸のまま飛び出した。クノミの名を叫ぶ。すぐに見つかった。彼女はキッチンに居た。うつむいている。何をしているのか謎だった。吐いているのかと思ったけどそうじゃない。頭部を、排水溝に押しつけているのだ。

 何をしているの? と声をかけても返事はない。それどころか、何も見ていない何も聞いていない意識もない。変だ。異変が起こっている。何故ならば、クノミの髪の毛がすべて、排水溝の中に消えているのだから。眼は大きく開いている。口もだらしなく開いている。それから、舌が、デロリと吐き出されている。長い。二メートルくらい。とぐろを巻いている。あり得ない。再び化け物の姿が脳裏に浮かぶ。クノミは本当にクノミなのか。それは間違いない。足首の傷痕から鮮血が滴り落ちているから。

 肩をゆすろうと、一歩踏み出した足が、止まった。ふと気づいたからだ。

 シャワーから飛び出した黒い糸は、もしかして、クノミの髪の毛なのではないのか?

 彼女の姿を見てワタシはある事実に直面した。

 間違いない。

 感染。

 クノミは足首を噛まれた。そこから、何かが侵入したのだ。

 そのとき、ワタシの足首を何者かがつかんだ。おそるおそる、視線を下げる。

 細くて、黄土色の腕、長い長い小さな腕。その腕は、クノミの下腹部から飛び出していた。

「クノミ……あなた……」

 しかし答えたのはクノミではなかった。下のほうから――

 えぎゃあえぎゃあ!

 (きびす)を返し、用意していた服を急いで着る。その刹那。


 ドン!


 何かをたたくような音は、外から響いてきた。

 ドン! まただ。

 放っておいて、逃げればよかった。実際、そうしようと思っていた。それなのに、足が勝手に窓へ向かって歩き出していた。好奇心という誘惑は、ワタシの意志を凌駕(りょうが)していた。

 リビングを通り、窓の前へ。白いカーテンが引かれ、外の様子はうかがえない。震える腕をそっと上げ、いっきに、カーテンを開けた。

 雨が降っていた。土砂降りではない。昼間、屋外で必死になって働いていた人々を癒すような、優しい雨だった。

 空間に、ゆらゆらと揺れる妙な物体が、数十個、距離を取って浮かんでいた。闇夜に浮かぶそれらは、しっかりとした輪郭を持っておらず、おぼろげに、人の顔だと認識できた。

 地上から首を伸ばし、ひまわりやつくしのように、頭部をまっすぐ上空に持ち上げている。

 逃げることも、動くことも出来なかった。

 悪夢を思い起こさせるスキンヘッドの女性の頭部。他の顔もある。ロングヘアー、ショートカット、ボブカット、いくつもの頭部が、ぐにぐにと蠢いている。細い首に支えられ、ここ、七階の位置まで浮いている。

 彼女たちの眼が、いっせいにワタシを捉えた。唇を広げ、むき出しとなった白い歯をガチガチさせている。そのうち、スキンヘッドの頭が大きく後方にのけぞり、続いて、こちらへと突進してきた。

 ドン!

 頭が、窓にぶつかる。額が眼の前のガラスに接触する。またのけぞり、また、突進。

 ドン! また、ドン! また、ドン! ドン! また、ドン! ドンドンドンドンドン。

 笑顔だった。

 やがて、強固だったガラスが悲鳴を上げた。

 欠片(かけら)のすきまから、同時に襲ってくる無数の頭が見えた。他の者たちも、同じ行動を開始したのだ。

 笑顔だった。


     ☆

 何所をどうやって、どのようにして、家に帰ってきたのか、覚えていない。気がつくと、自分のベッドの上だった。ずきずきとうずく頭を押さえながら、リビングへと移動する。両親は仕事へと出かけたのだろう、誰もいない。冷蔵庫から牛乳を取り出し、テーブルへ腰かける。

 クノミはどうなってしまったのだろうか。

 経験したことは現実なのだろうか。

 のびる女は、実在したのだろうか。

 何もわからないし何も考えられない。

 テレビをつける。そこで判明したことは、林間学校へ参加した先生たち、生徒たち、みんな、行方不明ということだった。あの出来事は、真実だったのだ。

 でも、ワタシは無事に戻ってきた。無事に……。

 自分が体験した経験だとはとても思えなかった。まるで他人(ひと)ごとだった。繰り返される失踪事件のニュース。当事者なのに、遠い、夢の記憶だった。

 ギギギギヂヂ。

 番組が終わり、次の番組が始まる。そこでも林間学校の失踪事件が流された。

 グギギブヂ。

 懐かしい学校。グギブヂヂ。見たことのある後輩が女性レポーターからインタビューを受けている。ブヂヂヂヂ。好奇心旺盛な生徒たちがテレビクルーのまわりに集まっている。ググンヂヂ。レポーターが別の生徒へ声をかける。ヂヂンググウ。男子生徒ははしゃいだ様子で答える。ワタシは窓を開けた。コキ。気圧差で空気が流れ込んでくる。コオオオオ。心地よい。空気がこんなに美味しいとは気づかなかった。だけど、科学的な異臭が混じっている。許せない。自然を破壊する人間が許せない。コキコキコキ。

 風が強くなる。流れる、流れる――


 ワタシの学校を取材するレポーターや取材陣、ワタシの学校の男子生徒、女子生徒、それから先生たちが、上空を見上げた。


 そしてワタシと、眼が合った。



                                         了


続編、書いてみようかな、と考えている今日この頃。

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