第八章「今日の始まりとあの日の始まり」
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エヴァーライフが屋敷の使用人になって数週間。
使用人になると決めた次の日から、エヴァーライフは疲れを感じる暇も無いくらいに屋敷中を走り回っていた。
元々慣れない仕事の所為か、一つ一つの仕事を終わらせるのにも一苦労。
掃除、洗濯、食事の用意に湯の用意、買出し、その他諸々の雑務の数々。よくもまぁ、アンジェはこれだけの事を一人で全て片付けていたものだと素直に感心する。
「エヴァーライフさん、今度はあっちの部屋と、こっちの部屋のお掃除をお願いしますね。」
朝、家主を送り出してからやることは、まず部屋の掃除。
アンジェが持ってきた二本の箒と二枚の雑巾の片方を受け取る。
アンジェは、当然ながら使用人としては先輩に当たる。
しかし、エヴァーライフに無理を強いる事も無く、やりやすい、取り掛かりやすい仕事を優先して回してくれた。
それはただ単にエヴァーライフがウルスラの恩人であるという事からというものではなく、純粋に先輩としての思いやりという面からだろう。
「分かった。」
エヴァーライフは短く答え、言われた通りに部屋の掃除に取り掛かる。
最初は自室の掃除と食事を作る時の補佐くらいしか任せられる事は無かったが、最近ではもっといろいろな事を任せてもらえるようになった。
死を望んでいた時よりも大変だが、ずっと充実した時を過ごせていると実感できる。家事全般を楽しいと思えるほどではないが、乾いた心が満たされていくような気がしていた。
ベッドのシーツを取り替え、奇麗に直し、花瓶を丁寧に拭いて花を取り替え、窓を拭き、床を箒で掃き…ゆっくりのんびりやっている訳でもないのに、そうこうしているうちに見る見る時が過ぎていく。言われた二部屋の掃除を完璧に終えたときには、既に午後を回っていた。
「エヴァーライフさん、終わりましたか?」
掃除の終えた部屋から出たとき、見計らったようにアンジェが笑いかけてきた。
やはり随分長い事この家に仕えている為か、アンジェの仕事をこなすスピードはエヴァーライフなんかよりも格段に速い。
エヴァーライフが二部屋の掃除を終える間に、他の部屋全ての掃除を終わらせてくるのだ。
まるで手品のような不思議さだったが、種も仕掛けも何も無い、かと言って手を抜いたり端折ったりしている部分も無いのだから、更に驚きだ。
「ああ、終わった。」
「それじゃ、そろそろお昼にしましょうか。」
そう言った彼女の手には、三人分の昼食が乗ったトレイが有った。流石にやることが早い。
エヴァーライフも既にお腹は空っぽだった。
そうだな、と短く答えて、アンジェの後ろから一緒にウルスラの部屋に向かった。
††2††
熱はもうすっかり下がり、体調も随分回復したものの、ウルスラは安静を親から命じられていた。
今日は晴れ。雪は降っていないが、街中に降りた銀は未だにキラキラと輝いている。
ベッドに寝ている必要は無い。揺り椅子に座って本を読みながら、目が疲れたら外の銀を眺めていた。
読んでいる本は、外の世界の地理や歴史、昔話や御伽噺の類が殆どだった。
世界は広い。しかし、少女は自分の身の回りの小さな世界しか知らない。だから本を見ながら、外の世界の様子や風景なんかを想像しているのだ。
きっと、南国はとても熱いのだろう。自分が今住んでいるこの街は年中寒いから想像し辛いけど、きっとこんな土地なのだろう…
想像は想像でしかなく、実物はもっと違うのかも知れない。しかし、ウルスラは自分の中で世界を想像し、創造して楽しむのだった。
エヴァーライフが屋敷に住み込むようになってからは、もっともっと想像が膨らんだ。
彼は長い人生の中で、様々な土地を実際に歩き、その土地に住む人々と出会ってきた。食事の時にそういった話を聴き、自分の知らない事を知り、楽しむ。
親の居ない昼食時が、ウルスラにとって最も楽しみな時間になっていた。
コンコン、とノックの音。
本から顔を上げ、「どうぞ」と答える。無意識に笑顔が出た。
「ウルスラ様、食事を持ってきましたよ。」
言われてアンジェが入ってくる。その後にエヴァーライフが続いた。
三人は昼間、ウルスラの部屋で昼食を取る。そして、エヴァーライフの話を聞く。それが日課になっていた。
エヴァーライフとウルスラが木製の小さな椅子に腰掛け、其々の食事を取る。ウルスラは揺り椅子に座ったままトレイを受け取った。
「エヴァーライフさん、今日はどんなお話を聞かせてくれますか?」
早く早くと急かすように、ウルスラが言う。その瞳は、期待と好奇心できらきらと輝いていた。
「そうだな…それじゃ、今日は騎士の国の話をしようか。」
ジャングルで覆われた南の国、戦争を続け、荒廃した帝国、水と自然に溢れた町…エヴァーライフは沢山の国や町の話を聞かせてきた。長い年月の中で随分と磨り減ってきているけど、覚えている範囲の事は全て話してきた。
しかし、今回の騎士の国の話は、数百年経った今でも鮮明に覚えている事ばかりである。
「この大陸から遠く西に、ハーフェンという国がある。そこは全部で十二の騎士団が作られていて、それら全てで町や関所なんかを守り、警備してた。」
「騎士団っていうと、戦争で戦ったり、悪い魔物と戦ったりするものではないのですか?」
アンジェの発言に、エヴァーライフが思わず吹き出した。
数週間も経てば随分と慣れてきて、笑顔も普通に見せるようになった。変に我慢したり、意地を張ったりはしない。
「確かに戦争が起これば、槍や盾を持って戦うだろうけど、悪い魔物は見たことがないな。そんなもの、この世界中捜したって何処にも居ないよ。」
言われて、苦笑いするアンジェ。ウルスラは、「アンジェったら」と小さく洩らして赤くなった。
「兎に角、戦争なんか無い、平和な国だったよ。住んでいる人たちは、みんな戒律を守っていて厳しい所も有るけど、優しい良い人たちばかりだった…」
法に守られ、法を守り、平和を続けているハーフェン騎士国家。勿論ウルスラは、書物で国のしきたりや法律なんかは知っている。戦となれば雄々しく戦う騎士団に守られた国だ、と。
しかし内情は、鳥篭の中の平和でしかない事。法と騎士団によって擁護された国であることを、エヴァーライフは語った。
騎士団は確かに国民を守る役割であるが、時には違法行為を行った国民を裁き、時と場合によっては止むを得ず、法の名のもとに異端者を粛清する事もあるという。
そうする事で危険因子を排除し、平和を勝ち取ってゆくのだ、と。
「何だか、怖い国なんですね。」
ここまで話を聞いて、ウルスラの眉がハの字になった。
「いや、国としては頭の良い方法だよ。法も何も無かったら、それだけ犯罪なんかが増え続けるだろ?」
「人を殺しても良い法律があるっていうのは、何だか悲しいですね。」
確かに、おかしな話である。矛盾した言い方になるが、自然のなかの不自然。他国の法律についてよく知らない者から見れば、何故「人を殺してはならない」という法を作った者が「死刑」というものを作ったのか、理解に苦しむ所があるだろう。
「でもまぁ、そんな大悪人なんてほんの一握りで、ほかは優しい人ばかりだったよ。その頃僕はまだ死にたいなんて考えず、生きることを考えてた―――…」
飢えと乾きに苦しんでいた所を何度も助けられた事、一晩の宿を借りた事、旅の共にとパンを分け与えてくれた人が居た事…厳しい国ではあったが、暖かい国だった。
しかし―――…
「でも、この国で起きた事をきっかけに、僕は死ぬことばかり考えるようになった。」
そう、騎士の国ハーフェンは、エヴァーライフの生き方を、生から死の方向に変えた国でもあるのだ。
あまり思い出したくない記憶だが、ウルスラには語っても良いと思った。
「…どうして、ですか?」
ウルスラが、ちょっと訊き難そうに言った。あまり深入りしてはならない、そんな話の予感。
エヴァーライフも、少しだけ話すのに躊躇した。
過去は過去。忘れる事は出来ても変える事は出来ない話。しかし、忘れようとしても記憶の中から消せない話。いつも心を抉り、削っていく話、記憶。
少し間を置いて、エヴァーライフはゆっくりと口を開いた。
「ハーフェンのとある町で、僕は一人の少女に出会ったんだ。銀色の奇麗な髪で、優しくて…ウルスラっていう名前の少女に。」
††3††
エヴァーライフは疾っていた。夜の帳が下りてこようという時間に、深い森の中を。
人間不信は以前からの事だったが、ちょっと油断した。優しい人々に触れ、気の緩みが出ていたようだ。それに、疲れていたのかも知れない、一人で居る事に寂しさを覚えていたのかも知れない。
彼は、逃げていた。
暗くなりつつある森の中を、警備騎士の連中から。
今日泊めて貰うはずだった家の者に翼の眼を見られ、化け物、悪魔と罵られ、警備騎士に通報され…やはり人は、己と違う者を異端視し、恐怖と嫌悪の眼で見るようだと改めて思っていた。
息が上がる。鼓動がせり上がる。
町の住宅街から広場へ抜け、町の門へと一気に走り、畦道を通ってここまで逃げてきた。長い事走り通しである。
騎士達は未だエヴァーライフを捕獲せんと、追い掛けて来ているようだ。森のあちこちから声が聞こえる。捕まえろ、化け物を逃すな、見つけたら即殺せ―――…耳を塞ぎたくなるような言葉が、風に乗って聞こえてくるのだ。
死んでたまるか、殺されてたまるかと、エヴァーライフは歯を食いしばって走り続けた。
彼はまだこの時、死を望んでは居なかった。
幾ら罵られようと、幾ら異端視されようとも、生きることを考えていた。
まだ、僕は何もしていない。記憶の中にぽっかりと開いた穴、十六歳以前の記憶をまだ確かめていない。そこにはきっと、僕の不老不死の謎があるはずだと信じていたから。
だから、死ねない。
飛び出した木の根に躓き転びそうになっても、枯れて舞い落ちた木の葉に足を取られても、ただひたすら走った。今にも千切れそうなくらいに疲労した四肢に叱咤激励しながら走った。
そして、すっかり夜が更けた頃、ようやく彼は騎士の追走から逃げ切る事が出来たのだった。
辺りに騎士の気配が無い事を慎重に確認すると、大きく息を吸ってその場に倒れた。肺と心臓はもう破裂寸前、手も足も動かない。
寒い森の中、大粒の汗を流しながら荒く呼吸をする。こんなに体を使ったのは久し振りだ。
それからしばらく経ち、息が整って全身の汗も引いた頃。
長い緊張と疾走の所為だろう、エヴァーライフの体にどっと疲れが押し寄せた。猛烈な眠気が襲ってくる。
久し振りの野宿だな、と、ぼんやりとする頭で考えていた。この国に来てからと言うもの、野宿はほとんどなかった。其れを考えると、何だか今回の事件が酷く悔しいものに思えてくる。
しかし睡魔は段々とエヴァーライフの眼を塞ぎ、意識をまどろみの中に落としていった…
―――――…
どのくらい眠っていたのか分からない。
目が覚めたときは、既に太陽が真上から差していた。木漏れ日の一つがエヴァーライフの片目を眩しく照らしている。…その眼が人外の物でなければ、皮肉とも思わなかっただろうが。
巻いていたはずの包帯は何処にも見当たらなかった。多分、逃げている最中に落ちてしまったのだろう。
いや、そんな事はどうでも良い。どうせこんな深い森の奥に来る人間など、まず居やしないだろうから。
そんな事よりも、どうやってこの森を脱出すべきかを考える方が先だと思った。何処をどう走ってここまで来たのか見当もつかない。深い森の中で迷って餓死、何てことも充分起こり得る訳だし、悠長にはしていられない。
とりあえず、エヴァーライフは歩き始めた。激しい筋肉痛で言う事を聞いてくれない四肢を引き摺るようにしながら。こっちだと決めた方向に向かって歩き続ければ、そのうち森を抜けられるだろうと思って。
しかし、歩けど歩けど一向に森を抜ける気配は無く、段々と深い所へ入り込んでいるようにすら思えた。
それだけでも充分な恐怖なのに、加えて渇きと空腹が彼を襲う。昨日は食料を用意する暇も無かった。少しだけだがお金は有るのに、食料は何も無いし、水筒も空っぽのままだ。
必要とあらばその辺りに生えている草や茸でも食べるが、食べても良い物なのか判断に困る。劇毒なんて持っていられては洒落にならない。
川か湖さえ見つけることが出来ればと祈る。神なんか信じちゃいないが、困った時だけは神頼みだ。空想上の神なんて、都合の良い時だけ取り出せるものなんだからと思っているから。
しかしそんな神頼みが通じるはずも無く、森は次第に薄暗くなり、視界は闇で塞がれていった。
喉はカラカラ、腹は空っぽ、視界が歪んで軽い眩暈もする。
「これは…本格的にヤバいかな…」
力無く呟き、歩く気力も尽きてその場に倒れ伏した。昨夜の疾走の疲れはまだ残っているし、加えて今日の徒歩で、四肢は動かすだけでも激痛が走る。
体が万全の状態に戻る事は無い、森も抜けられないかもしれない。
そう考えると、自分の置かれている状況が酷く絶望的なものと実感できて、希望すら消えてしまうような気がした。
そんなことを、ぼんやりと考えていた、その時だった。
「だ、大丈夫ですか!?」
聴いたことがない声が、耳に飛び込んできた。高い声、透き通るようなソプラノ、女性のものだった。
目だけ動かして、声の主を見やる。既に目は霞んで朧気にしか確認できなかったが、薄暗い森の中でも輝いて見えるほど奇麗な銀髪が映った。
「…良かった…」
誰にも聞こえないくらいか細い声で、エヴァーライフはそう言った。
助かったとか、そう思って出た言葉ではない。無意識のうちに口を突いて出たものだった。
―――良かった、こんな運命を背負う僕にも、天使が来てくれた。
安堵の為か、急激に意識が遠ざかっていく。
「ちょっと、しっかり…!」
少女の声は全て届かず、エヴァーライフはそのまま気を失った。
えっれぇ更新が長引いてしまいましたエヴァーライフですが…忘れてたわけじゃないんですよホント(汗) 八章の分け方がイマイチ微妙になってしまった感がありますが、スランプってことで許してください(都合の良い…)
や、アレですよ。未熟ですね、アハハ…(乾)
次回もめげずに頑張っていこうと思いますので、どうか見捨てないでやって下さい^^;