第二章「翼の瞳と消えない命」
††1††
「ところで、あなたのお名前は何ですか?」
少年が四杯目のシチューをスプーンで掬っているところで、ウルスラは訊いてみた。
何故路地に倒れていたのか、何故包帯を巻いているのか、訊きたいことは他にも有ったが、いきなりそんなことを訊くのも失礼かなと思った。
「……名前――」
厳しい目でウルスラを見ながら、少年が呟いた。
少しだけ怖い。威圧するような目がじゃなくて、何だか、暗い深淵の様なその雰囲気が。
「名前……か。僕は……エヴァーライフ。」
「エヴァーライフさん……何だか変わったお名前ですね。」
言って、急いで口を塞いだ。
エヴァーライフと名乗った少年の目が、ウルスラを睨んでいた。
「えっと、そういう意味じゃなくて……んっと、この辺りじゃ聴かないお名前だなぁって……」
困ったようなウルスラ。少年はしばらく睨んでいたが、「ふん」と小さく鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい……」
ぺこぺこと何度も頭を下げる。
「……別にいいよ。」
頭を下げられてもいい気はしない。
むしろそっちの方が、エヴァーライフにとっては嫌だった。
「あ、私はウルスラ。さっきのメイドさんはアンジェっていうんです。」
名前を訊いた以上、こちらも名乗らないと失礼じゃないかという思いもあるが、何よりこの重苦しい雰囲気をどうにかしたかった。
アンジェは今、湯の準備をしに行っていた。
エヴァーライフは、お世辞にも清潔とは言えない格好だ。体と髪を洗って服や包帯を取り替えなければ、とても親が帰ってきたときに会わせられない。
「……ウルスラか。」
少年は、遠い目をして呟いた。その名に聞き覚えでも有るかのように。
「まぁ、名前なんてどうでもいい。僕は……」
「お風呂の準備が出来ましたよ。」
エヴァーライフの言葉はアンジェに止められた。
狙いすました様なタイミングに、まさか本当に入ってくるタイミングを狙ってるんじゃないだろうかと思ってしまう。
「さぁさぁ、早く。早くしないと、ご主人様が帰ってきてしまいます。」
シチューの皿を預かり、半ば強引に引っ張って部屋から連れ出す。
ウルスラはそれを、苦笑しながら見送った。
ウルスラ……懐かしい名だった。
昔、会ったことがある少女と同じ名だった。風呂で体を洗いつつ、自分の知る「ウルスラ」についての記憶を探る。
泡と湯が黒く染まった。長いこと入浴などしていない。汚れているのも無理はない。しかし、気にも止めなかった。頭の中は、「ウルスラ」の事でいっぱいだったのだ。
ウルスラ……自分のこの目を見ても何も言わず、自分の特殊な体質――いや、体質と言えるかどうか分からないが――兎に角、自分の事を全て話しても、気味悪く思わずにいてくれた少女だった。
浴槽に張られた水鏡に自分の顔を映してみる。
見慣れたはずの自分の顔が不気味に見えた。
包帯の下にある秘密。それを見、またその意味を知れば、きっとさっきの「ウルスラ」
は、自分を外に放り出すに違いない。
そう思えて、自分の顔に皮肉っぽい笑みを送ったのだった。
碧の瞳とは違うモノが、湯気の中で水面に揺れていた……
††2††
早々に入浴を終わらせ、用意されていた着替えを身に着ける。親の物であろうその服は、エヴァーライフには少し大きかった。
「まぁ、よくお似合いですよ!」
部屋に戻ると、ウルスラが嬉しそうに顔を輝かせながら迎えた。
「お父様の服だから少し大きいですけど、我慢してくださいね。」
「ああ。」
着心地は悪くない。
しかし……少年は、ここまで世話をやいてくれているこの少女に、多少なり不安と嫌気を感じていた。
親切にされるのは構わないし、むしろ嬉しいことではある。しかし、素性を知られた瞬間にどう裏返るか……考えれば嫌になった。
「包帯は、もう持ってきてますよ。あと、消毒薬とか……怪我をされているんですよね?」
「止めろッ!」
ウルスラが右目に触れようとする。しかし、エヴァーライフはその手を急いで払いのけた。
「あ……その……ご、ごめんなさい」
しゅんとなるウルスラ。エヴァーライフはその表情を見て嫌気がさした。
「親切のつもりだろうけど、僕のことは放っといてくれ。いい迷惑だ。」
暗い顔をされて嫌な思いをするのは自分なのに。分かっていながら遠ざけるような事を言った。
案の定、ウルスラは悲しそうな顔。
仕方ない。
僕は、人との関わりを断たなきゃいけないのだから。そう思い、耐えた。
「でも、そんな汚れた包帯じゃ、傷が……」
「いいんだ、気にしなくて。これは――」
言いかけて止めた。これは、傷なんかじゃない。ただ、隠しているだけなのだ。しかし、隠すなんて言葉を使えば、見たいと思うだろう。
強引に、もしくは狡猾に、包帯を取ろうとするかも知れない。
「兎に角、僕の事は放っといてくれれば良い。食事や着替えは感謝するけど。」
ドアノブに手を掛ける。これ以上、距離を近付けてはいけない。
「僕はもう出ていく。色々有り難う。」
「だ、駄目です、無理をしては!」
血相を変えて、ウルスラがエヴァーライフの腕を掴んだ。
「……僕を死なせてくれ。それが僕の望みだ。」
死という言葉に、少女はびくっと体を震わせた。
「そ、そんな!」
「うるさいな。」
手を力ずくで剥がれ、数歩下がる。
エヴァーライフの瞳が、ウルスラを暗く睨め付けている。
「僕を助たのは間違いだよ。あのまま死んでしまいたかった。」
それだけ言って、少年は部屋を出て静かにドアを閉めた。
残されたウルスラは、驚いたような、悲しいような、複雑な表情で呆然と立ち尽くしていた……
何故出された食事を素直に食べ、用意された湯で体を流し、その事に感謝したのだろう?
それなのに、死にたいとは…?
ウルスラは其ればかり考えていた。
そして。
答えが出る前に、彼女は走り出していた。
††3††
これで良かったのだ。
自分に関与する奴は遠ざけて、一人で静かに死ぬ事が最善なのだ。
雪の降りしきる外は、凍えるほど寒い。水たまりにもうっすらと氷が張ってきている。
さっきの路地には行かずに、街の門へと向かう。
外に出るだけの体力は回復しているし、町中で死ぬよりも街の外で死んだ方が、誰に見咎められることもなくて良い。
死んでもこの目だけは誰にも見せたくない。
ウルスラには悪いと思うし、アンジェにも悪いと思う。
しかし、少年を縛り付ける現実は、人との関わりを断つことを自ら宿命付けるのも当然と言えなくもない。
「待って下さい!」
不意に呼びかけられて足を止める。
雪に足を取られながらも走ってくる銀髪の姿が見えた。
「……どうして僕を追いかけてきた?」
ウルスラの姿に苛立ちを感じながらも訊いた。
「だって……死ぬなんて……言う人を……放って……おけないです……」
はぁはぁと息を切らせながら、そう言った。苛立ちが増す。
「偽善なら御免だよ。何で見ず知らずの僕にそこまで?」
「偽善とか……そういうのじゃ……人を助けるのは……やっぱり……当たり前じゃないですか……」
「人、か。それじゃあ、これを見てもそう言えるのか?」
エヴァーライフが包帯をゆっくりと外し始めた。
冷たい碧眼でウルスラを見下ろしながら、汚れた包帯を取る……
包帯が全部解けた時、きゃっという小さな声が上がった。
「それ……」
ウルスラが指さしたのは本来、対になっている筈の目があるべき場所。
そこには、白い羽根が詰まっていた。
まるで、目から小さな翼が生えている様な……
「僕の目は、怪我をしてる訳じゃない。それに、『人』でもないんだ、僕は。」
「……え?」
少しだけ、静寂が辺りを包んだ。
凍える寒さの中、二人を取り巻くこの重苦しい空気は更に重さを増しているように感じる。
「僕は死ねないんだ。命を断たない限り、永劫に生き続ける……もう、五百年は生きた。人の死を山ほど見てきた。醜い部分も、綺麗な部分も何もかも。それでも僕は人間と言えるか?生きるべきだと言うのか?」
思いもよらぬ少年の言葉にウルスラはただ呆然とするしかなかった。
やっぱりこいつもそうだったか、とエヴァーライフは諦めの溜め息を洩らした。
この翼の目と不老不死の性質を知った者は、一つの例外を除いて全て化け物呼ばわりしてきた。ウルスラも化け物と口に出したわけではないが、この表情を見れば一目瞭然だ。
未知なるものへの恐怖感や畏怖、そして生理的な憎悪と拒絶。少女の顔には、それがありありと浮かんでいる。
「そういうわけだ。これで分かったろう?僕が君を遠ざけた理由や、死を望む理由が。分かったなら放っといてくれ。」
きびすを返して、再び歩き始める。少し残酷な気もするが仕方ない。
死を目指すのに、周囲の偽善者やお人好しは無駄だし、不要だ。迷惑極まりない存在である。
「……駄目です!」
不意に、か細い声が聞こえた。
何かが服の袖に触れる。ウルスラの指だった。
「……まだ何か用?」
振り返らずに訊いた。
言いたいことは分かっている。希望は持てそうだ、と何処かで期待しているのに気付いたか。
「死んじゃ……駄目です……絶対……」
うるさい、と言おうとして、エヴァーライフは少女に振り返って……ぎょっとした。
袖を掴んだのが限界だったのか、ウルスラは雪の中に埋もれるように倒れてしまったのだ。
額に手を当てると、やはり熱い。体が弱いのに無理をしたせいか、かなり高い熱が出てしまったようである。
ちっ、と舌打ちして、少年は包帯を急いで巻き、少女を抱え上げた。
暗い話に見えるかもですが、今回の大きなテーマは明るいもの…の筈です。多分。