過去と今、そして未来 1
城下は大変なにぎわいだった。皆忙しそうに、けれど楽しげに輝くような笑みを浮かべ日々の営みに追われていた。
大通りの店先には食欲をかき立てる香りを漂わせる串焼きや、いつかリンドと一緒に食べた白砂糖をたっぷりまぶし中にクリームをたっぷり詰めた揚げ菓子も並んでいる。
「なんだかいつもよりにぎやかだし、人通りも多いみたい!」
「さぁ! 時間がもったいない。せっかくのお忍びなんだからね! 行こうっ」
どうやらこの間の町歩きで味をしめたらしい。リンド自ら慣れた様子であちらこちらでおいしそうなものを買い求めては、ふたりで口元に砂糖やらソースやらをつけながら堪能して町を歩いてまわった。
とても王子だなんて思えないそんなリンドの姿を、目に焼き付けた。もうこんなふうに町を一緒に歩くことは二度とない。でもこんなに楽しい思い出があるのなら、きっとひとりで歩く町も楽しく思えるかもしれない。
そりゃあちょっぴりは胸が痛むかもしれないけれど。
時折隣を歩くきれいな横顔を盗み見ながら最後の町歩きを楽しんだあと、あの丘へと向かった。
またふたりで草の上に寝転ぼう、と約束したあの丘へ――。
「んー……っ! ふわぁぁぁぁ……」
遠くまで見渡せる丘の上で大きくひとつ伸びをして、草の上にゴロリと横になった。
そよそよ……、そよそよ……。
さわり、さわり……。
頬をやわらかな風が、誰の目も気にすることなく大地の上に転がるふたりの上をそっとなでていく。その感覚があまりに心地よくて、思わず大きな吐息がもらせば。
「あぁ、いい風だ……」
実に気持ちよさそうなリンドの声が、すぐ隣から聞こえた。
ふたりの間に流れるゆったりとした静かな時間が、なんとも心地よく少しだけこそばゆい。
「私……、この国の聖女になってよかったです」
頭上に広がる晴れ渡った空を眺めていたら、思わずぽろりと口から転び出た。
「……あんなに大変な思いをしたのに?」
不思議そうにたずねたリンドに、小さく笑った。
「確かに怖かったし不安もたくさんあったけど、でもやっぱりよかったと思ってます。聖女にならなかったら気づけなかったこと、たくさんあったから……」
自分にとってこの国がどんなに大切か。どれだけたくさんの大切なものや人にあふれているか。
新しい出会いだってたくさんあった。日々の暮らしを助けてくれた、心優しく頼りになる侍女たちや衛兵さんたち。リンドの補佐をしているカイルだって、ともに戦った兵たちだってそうだ。
「聖女にならなかったらもっちーズちゃんたちにも会えなかったし、よぼよぼ聖女にも会えず仕舞いだったろうし」
欲にかられて国に害をなそうとする悪い人たちだっていたけれど、大切な人たちとの出会いだってたくさんあった。
これも皆、聖女としての天命を受けたからだ。
もっともそのおかげで、パン屋の娘のくせにまともなパンひとつ作れないことが国中に周知されてしまったけれど。
(それに何より、こんなにすてきな恋ができたんだもの……)
もしかしたら、これは一生に一度の恋かもしれない。生まれて初めての恋の相手が、王子様だなんてそうそうあることじゃないし。
そんなとっておきの出会いを得られたのだ。きっと幸せだ。
たとえ一生胸の奥深くにしまい込んで、誰にも打ち明けることのない思いでも――。
「ふふっ! それにこんな家族が聞いたらびっくりするようなこともできたし」
ちらと隣を見れば、不思議そうな顔のリンドが見つめていた。
「未来の国王様と散々町で買い食いした上、この丘でふたり並んで寝転んだんだなんてうちの家族が聞いたら、きっと皆卒倒しちゃいます!」
いたずらっぽく笑ってみせれば、リンドの顔も綻んだ。
「ははっ! 確かに皆驚くだろうな。特に大臣たちなんて、もっと王族としての自覚を持てなんて説教をされそうだ」
「ふふっ!」
ふたりで軽やかに笑い合った。
するとしばしの間を置いて、リンドが告げた。
「……あの日出会った君が、聖女でよかった」
その言葉に何か引っかかりを感じて、思わず隣に寝転ぶリンドを見やった。
「あの日……って、謁見室ではじめて会った時……?」
けれど今の言い方はまるで、聖女として王宮に呼ばれる前に会ったことがあるようにも聞こえる。まさかそんなはずあるはずがない、と目を瞬けば。
「……実は君が王宮に聖女として呼ばれる前に、一度だけ君と私は会ったことがあるんだ。君は覚えていないみたいだけどね」
ぱちぱちと瞬きを繰り返し、おそるおそるリンドをもう一度見やった。
「え……?」
「昔まだ子どもだった頃のことだ。王宮を抜け出して町に出たことがあってね。その時に」
聞けば、リンドはその時お金もなく町のこともよく知らず、ひとり途方に暮れて偶然にこの丘にたどり着いたらしい。
「なんだか自分の境遇が、ひどく重たく感じられてね……。周囲から寄せられる期待に押し潰されて疲れていたんだ。それで、つい……」
喉も乾きお腹もすいてクタクタになった時、偶然にもこの辺りにたどり着いた。
「ほら、ちょうどあの辺りで君に声をかけられたんだ」
身を起こしたリンドが指差したのは、ちょうど丘の下にあるパン屋のそばだった。
「君は私の顔を見て、売れ残りのパンとカップに入ったミルクを差し出してくれた。落ち込んでいる時にはおいしいパンを食べると元気が出る、と言ってね」
ちょっぴり焼け焦げたそれは、なんとも香ばしく中はもっちりふわりとしてとてもおいしかったんだ、とリンドは微笑んだ。
「わ、私ったらまさか王子殿下とは知らず……そんなことを……。すみません……」
けれどリンドはにっこりと笑って首を横に振り、懐かしそうにつぶやいた。
「いや。君の言う通りだった。暗く荒んでいた心が軽くなった。私はあの日、君のくれたパンに救われたんだよ」
リンドの視線が真っ直ぐに注がれていた。そこににじむ穏やかな優しさとちらちらと揺れる熱に、思わず顔を赤くしてうつむいた。
「まさかそんなことがあったなんて……。私全然覚えてなくって……」
「まぁ、あの時と随分見た目も変わったからね。気づかないのは当然だよ」
けれどやっぱり残念に思えた。その時のことを覚えていたら、リンド殿下との大切な思い出がまたひとつ増えたのに。
だからつい本音が口からこぼれ落ちた。
「覚えてないのがすごく残念です……! リンド殿下だとわかっていたら、絶対に忘れたりしなかったのに」
こんなふうにリンドと過ごせるのも、あとわずか。それが寂しくてたまらない。
本当にもとの暮らしに戻れるのか、不安になるくらいに。
(もっと一緒にいたかったな。もっともっと色々なおしゃべりをして、色んなものを見て笑ったりしたかった……な)
じわりと視界がにじみ、心が寂しさで軋んだ。それをへらりと笑ってごまかした。
するとリンドは、一瞬ためらったのち何かを決意したように口を開いた。
「……実はあの日、心に誓ったことがあるんだ」
「誓った……こと?」
リンドの眼差しがあまりにもキリリと凛々しく見えて、ドキリと胸が高鳴る。
「あの日君と出会って、この国の王族として生きる道を見出したんだ。君がずっと幸せそうに笑っていてくれるような国を作ろうって」
「え……?」
リンドの口元に、さっき食べたクリームたっぶりの砂糖菓子よりも甘い笑みが浮かんだ。その甘さに、じわじわと顔に熱が上っていく。
リンドの手がすっとこちらに伸びて、髪に絡んでいた草をそっと除けた。そこから熱が伝わるようで、ますます胸が大きな音を立てる。
「ね、シェイラ。私は君にあの日ここで出会ってからずっと、いつか君に再会したいと思ってた。そしてあの日、私に未来へと進む理由を与えてくれた感謝を伝えたかったんだ」
「……」
「君が聖女として王宮に上がった時、運命だと思った。この機会を絶対に無駄にしたくないってね」
「運命……?」
風がぶわり、と耳元を通り過ぎていく。
その瞬間、リンドが耳元に口を寄せささやいた。
「……!」
リンドが耳元で告げたその言葉。それを聞いた瞬間、頭の中が熱でショートした。
「えっ⁉ あれっ、ちょっとシェイラ! どうしたんだっ。しっかりしてくれっ。シェイラ!」
遠くで、リンドの慌てふためく声が聞こえた気がした。




