パンまず聖女、町へ出る 1
その日シェイラは町へ繰り出した。
落ち込むシェイラを見かねて、侍女が気分転換に町へ行ってはどうかと提案してくれたのだ。
聖女として王宮に上がってから、一度も家に帰っていない。生まれてこの方一度も家族と離れた日などなかったシェイラにとって、寂しくないはずはない。
けれどこれも聖女の責務を果たすまでの辛抱、と自分を鼓舞し日々を送っていた。
とは言え、久しぶりに町を歩くくらいはいいだろう。里心がつかないように家族には会わないつもりだけれど、久しぶりに町のにぎわいに触れれば落ち込んだ気持ちも晴れるかもしれない。
(さて、とどこに行こうかな。まずは久々に屋台で甘いものでも買って、食べ歩きしながらあちこち見て歩くのもいいかな)
心の中はウキウキである。けれどその外見からは、その浮かれ気分はまったくうかがえなかった。
全身をすっぽりと覆い隠すような、シェイラの体には少々大きすぎる鼠色の外套。顔がまるっと隠れるくらいに大きなフードで覆ったそのいで立ちは、実に異様だった。
そのせいで先ほどから町ゆく人々がぎょっとした顔で振り返っていくのだが、シェイラ自身はそれに気づかず小さく鼻歌なんぞを口ずさんでいたのだけれど。
ともかくも、久しぶりの外出に少しは軽やかな気分で歩き出したその時だった。
前方に何やら人だかりができているのに気づき、ふと足を止めた。
(なんだかすごい騒ぎだけど、何かしら……?)
人々の視線の先を辿ってみれば、そこには自分のパンをどう処理すべきかについて広く意見を求める、という国王直々のお触れの立て板が掲げられていた。
思わず息をのみ、後ずさった。
「広く意見をって言ったってなぁ。家畜の餌にすらならないもんをどうしようってんだ?」
「なんで聖女様のパンはああもマズいんだろうなぁ。うちのかみさんがたまに失敗した焦げたパンの方がまだおいしいぞ?」
「発酵もちゃんとしているし、食感としては何の問題もないのになぁ。なんつうか、えぐ味っていうかなんていうか……」
「薬と思って食べればなんとかいけるか、と思ったんだが次の日になってもどうも腹の調子が……」
聞くまいと思っても、人々の辛辣な声が耳に勝手に飛び込んでくる。
(ううっ! ま、まさかこんなにも私のパンのまずさが皆を苦しめていたなんて……。胃が痛い……)
恥ずかしさと申し訳なさで、どんどん体が地面に沈み込んでいく。
両親にだってとても顔向けできない。自分のせいで家業のパン屋の売り上げががくんと落ちたら、どうすればいいのだ。
(きっと聖女の務めをさぼってこんなところでふらふらしてる罰が下ったんだわ……。さっさと帰ろう……。帰ってさっさとパンをこねよう……)
シェイラは目深にかぶったフードをさらに深く被り直し、踵を返した。けれど次の瞬間、いつの間にか隣に立っていた人物にぶつかりそうになって慌てて頭を下げた。
「あっ……すみません。ごめんなさ……い?」
ちらと相手を見上げ、思わず悲鳴を上げそうになった。
(な……なんでこの人こんな陽気なのに、こんな格好を!?)
暗雲が立ち込めたような暗い気分にさせる鼠色の外套にすっぽりと全身を包んだその姿に、思わずのけぞった。
(でもあれ……? よく見ると私と同じ格好……!?)
ようやく自分自身も実に人目を引く格好をしていることに気がつき、愕然とする。これではまるでおそろいのようではないか。
すると深く被ったフードの中から、聞き覚えのある声が聞こえた。
「ひとりでこんなところにいては危ないよ。シェイラ」
「へっ……!? その声は……!」
思わずあんぐりと口を開いた。
「リンド王子殿下……!? なんでこんなところに?」
その口を、リンドが慌ててバシンッと押さえつけた。あまりの勢いに目がチカチカする。
「むぐっ! い……痛い!」
「あぁ、すまない。だが、お忍びで町に出ているのがバレたら困るんだ。静かにしてくれ」
コクコクと小刻みにうなずけば、リンドの手がようやく口から離れた。
驚きを隠しきれず、フードの中に隠れた顔をそっとのぞき込んだ。
(やっぱり本物のリンド殿下……! なんでこんなところに!? しかもなんでこんな目立つ格好をしてるの?)
自分のことは棚に上げて、ついついそんなことを思うシェイラである。
「王子がこんなところにいるなんてバレたら大事ですよ? どうしてこんなところにいらっしゃるんです!?」
声を潜めコソコソと問いかければ、リンドは小さく肩をすくめた。
「まぁ、なんていうか……ちょっとした息抜きだ」
「王子が……町で息抜き……? そんな恰好で……?」
自分のことは棚に上げて、ひどい言い草である。けれどどこからどう見ても、王子らしからぬいで立ちだった。
でもまぁ確かに王子という立場は気苦労が絶えないだろうし、たまには公務から解放されて町でのんびり羽を伸ばしたいのかもしれない。
けれど身分ゆえ誰に狙われるかわからないのだし、何もそんな恰好でお忍びに出なくても、なんて思ってしまうけど。
「ちゃんと護衛はつけてあるから問題ない。それに一応、自分の身くらいは守れるくらいの鍛錬は積んでいる」
「はぁ……」
ちらと周囲を見渡せば、確かに護衛らしき青年がこちらをうかがっているのが見えた。
「あれ? もしかして……カイルさん?」
なぜ聖女付きの護衛をしてくれている衛兵のカイルが、王子の護衛を務めているのか。
口をぽかんと開けてカイルを見やれば、カイルがいつものように人懐っこい笑みを浮かべ小さく手を振ってくれた。実に愛想のいい護衛である。
「もしかしてカイルさんって、聖女付きの衛兵兼、殿下の護衛もしてらっしゃるんですか?」
するとリンドが小さく苦笑して首を横に振った。
「カイルの本業は、私の補佐だよ。今だけ特別に君のそばに護衛として張り付かせてあるだけなんだ」
「……へ!?」
ということはつまり、カイルは衛兵よりもずっとずっと偉い人ということになる。
そんなすごい人をわざわざ自分のためにそばに置いてくれていたのか、と驚きと感激の顔でリンドを見やった。
「でもまさかそんな偉い人だったなんて知らなかった……。あんまり話しかけやすい雰囲気だから、つい私もいつもの調子で……」
カイルの気安さにつられていつも気軽に口を聞いてしまっていたけれど、今度からは身をわきまえた態度を取った方がいいかもしれない。
そんなことを考えていると、カイルがにやりと笑った。
「ふふっ! シェイラちゃん、今度からは気軽に声をかけるのはやめておこうなんて考えなくていいからね? いつもの調子で全然いいからさ」
「なんで考えていることがわかったんですか!?」
「そりゃ、毎日一緒にいるからね! 勘? とにかくこれまで通り仲良くしてくださったら嬉しいな。ね、シェイラちゃん!」
いつも通りのノリに思わずほっとしてうなずき返そうとしたら、なぜかリンドがカイルの腹を肘で小突いた。
「痛っ! 何するんですか、殿下」
リンドをちらとにらみつけ、カイルが叫んだ。
「うるさい。お前は馴れ馴れし過ぎだ。しかもちゃん付けなど……」
「ははぁー……。もしかしてそれって、やきも……」
言いかけたカイルの腹を、リンドがもう一度小突いた。
どうやらふたりは上下関係を超えた、気心の知れた間柄であるらしい。
くぐもった悲鳴を上げて黙り込んだカイルをにらみつけ、リンドが告げた。
「実は今日は君が町に出ると聞いて、追いかけてきたんだ。今日は私が君をエスコートするよ」
「ええっ⁉ 王子が私をエスコート!? そんなの……、むぎゅっ!」
またしてもリンドの手が口を覆った。
「しーっ! だから大きな声で王子とか言わないっ!」
先ほどと同じようにこくこくと小刻みにうなずけば、手が離れた。
「で、でも……実はもう帰ってパンでもこねようかと……。こんなに皆を苦しめてるなんて思わなかったから……」
ちらと立て札を見上げ、嘆息した。けれどリンドは引き下がらなかった。
「なら、私の気分転換に付き合ってくれないか? そうだな……。君のお気に入りの場所に私を連れていってほしい」
「私の……、お気に入りの、場所?」
きょとんと目を瞬き問い直せば、リンドはにっこり微笑んでうなずいたのだった。




