幻影よ、こんにちは 1
その日は、朝からどこか不穏な空気が漂っていた。
リンドから知らされた幻影と思しき魔物が、あちらこちらで出没していたのだ。けれどその数がせいぜい一匹か二匹といった程度だったから、兵たちの物理攻撃でどうにかしのげていたのだけれど――。
そろそろ昼食の時間が近づいてきた頃、それは起きた。
「にーっ……?」
「ふみゅう……?」
「うるーっ……?」
突然もっちーズたちが一斉に窓の外を見つめ、おかしな声を上げはじめた。
「んっ!? どうしたの? もっちーズちゃんたち!」
ただならぬその騒ぎように慌てて窓の外を見た。けれど、ぐるりと見渡してみた限りではこれといっておかしな様子はない。
「ね、何かを感じ取ってるの? まさか……また何か……?」
またモンクル村で起きた幻影による大きな騒動が起きたのか、とはっとした。
足元にいたもっちーズを抱き上げ顔をのぞき込んだ。どうにか思念を読み取ろうとするけれど、どうやらもっちーズちゃんたちもどんな異変かつかみかねているらしい。
「ふにゅ? ふにーっ!」
「にーっ? にーっ!」
「ぬーっ? ぐるーっ!」
いつもとは明らかに違う警戒ぶりに、嫌な予感がよぎる。もしや幻影の群れでもまたどこかの町や村を襲おうとしているのではないか。そんなことを考え、もう一度もっちーズを抱きかかえたまま窓の外をのぞき込んだ。
その時だった。
腕の中のもっちーズがじたばたと暴れ出した。
「ふにゅーっ!? にーっ! にーっ‼」
強く何かを訴えかけるように大きな声で叫びはじめたもっちーズを、慌てて抱きかかえた。けれど声は止まらない。そのうち他のもっちーズちゃんたちまでもが大きな声で叫びながら、必死に何かを訴えるように窓の外を指さし出した。
「やっぱり窓の外に何か……⁉ でも特に変わった様子は……。って、あれ……? この感じって……、まさか!」
必死に精神を集中してもう一度もっちーズたちの思念をたどってみれば――。
「どうなさったのですか!? シェイラ様」
侍女たちも衛兵たちが困惑した顔で、先ほどから様子のおかしい自分たちを見つめていた。
その皆をゆっくりと振り返り、震える声で告げた。
「それが……実は北の方角に大きな魔物が暴れ回ってるって、今もっちーズちゃんたちが……」
「えっ⁉ それはまことにございますかっ?」
「まさか……、また幻影っ!?」
侍女たちの問いかけに、こくりとうなずいた。
もっちーズたちの思念から伝わってきたもの、それは新たな幻影の出没だった。しかもこれまで見たこともないような大きな魔物が、北の方角に現われ人里に近づこうとしているらしいのだ。
「で……でも、そんなに大きな魔物なんて聞いたことがございませんが……。いくら幻影とは言え、そんなに大きなものがいるのですかっ?」
「小さなものならばわかりますけど、本物の魔物を超えるような大きさの幻影なんて……!?」
ざわめきたつ侍女たちが驚くのも無理はない。そもそもが、この国に現われるのはせいぜい獣程度の大きさの魔物だけなのだ。なんでも魔物の大きさは、その国に漂う瘴気の絶対量に比例して決まるらしい。よってこの国に存在する瘴気量を超える大きさの魔物が存在するはずはないのだ。
なのに、本物の魔物をもとに作り出した幻影がそれほどまでに大きいということは――。
「まさか……本物の魔物も、巨大化してるとか……? 嘘……でしょ⁉」
もしもそんなことになったら、これまで以上に魔物退治が大変になる。これまでのパンこねでは、到底足りない。もっともっと寝る間も惜しんでパンをこね続けなければ、そんな大きな魔物なんて倒せっこない。
しかもその上、似たサイズの幻影まで次々現れてしまったら――。
考えたくもない恐ろしい想像に、思わずぶるりと身を震わせた。
けれど今は恐れをなしている余裕はない。すぐにリンドにこのことを知らせて、兵たちを現地に向かわせてもらわなければ大変なことになる。
そしてはた、と気がついた。
(そもそも私、この目でまだ幻影魔物を見たこと、ないのよね……。もしかしたら直に見て戦えば、何か戦い方のヒントを得られる……かも?)
聖力がまったく効かないわけじゃないらしいし、聖力なら魔物に見つからないように影に隠れてパンをこねることはできる。
ならばこうしてはいられない、とすっくと立ち上がった。
「リンド殿下に急ぎ伝えてくださいっ! 北方のトラン地方の街道に兵たちを派遣してくださいって。それから私も現地に向かいますっ」
きっぱりと宣言すれば、侍女たちが一斉にざわめき立った。
「ええっ!? シェイラ様が直接魔物を倒しに行かれるとっ!?」
「いけませんっ! そんなことをしたら、シェイラ様の身が……」
「危険過ぎますわっ。それにパンをこねるのならここにいた方が……」
侍女たちの意見はもっともだ。けれどどうしてもこの目でその幻影とやらを見てみたかった。直にこの目で幻影を見たら、何かもっといい戦い方が見つかるかもしれない。
そんな気がしていた。
「でも私、これからの戦い方を知るためにも一度幻影をこの目で見て確かめたいの。そうすれば、何か打開策が見つかる気がするからっ」
今は議論している余裕はない。一刻も早く魔物の居場所を確かめ動きを止めないと、近くの町や村がまたしても被害を被る恐れがある。
リンドに知らせにいくのだろう。急ぎ駆け出した衛兵を見やり、大急ぎでパンこねに必要な道具を大きな袋に詰め込みはじめた。
そんなに大きな魔物とあれば、大量の小麦粉やら材料が必要になるはずだ。
「もっちーズちゃんたち! 重いけど、荷物をよろしくねっ」
もっちーズたちは見た目の小ささの割に、実はとても力持ちだ。驚くほど重いものもひょいひょいと持ち運ぶことができる。実に頼もしい限りだ。
「ぬんっ!」
「にーっ!」
「ふんっ!」
指示を出したと同時に、すべてのもっちーズたちが一斉に動きはじめた。その統率の取れたテキパキとした動きは、感服ものだ。
とたたたた、とぱたたたたっと軽快に走りまわりながら急ぎ準備をはじめたもっちーズたちのおかげで、あっという間に出発の準備は整った。
目の前に積まれた大量のパンこね道具一式を見やり、こくりとうなずいた。
「よしっ! じゃあ私は先に行ってるわね。じゃっ!」
「あっ! ちょっと待ってくださいませっ。シェイラ様ったら!」
「せめて兵たちと一緒においでくださいっ! 歩きではかえって時間が……!」
「お願いですからっ! せめて兵たちの出発をお待ちくださいっ! シェイラ様っ⁉」
侍女たちが口々に叫ぶのが聞こえた気がした。
確かに言われてみれば、自分だけ先に走っていくよりは馬車で移動した方がいいに決まっている。もっちーズたちは魔物の居所を察知できているとしたって、自分ははっきりとはわからないんだし。
徒歩移動よりは馬車移動の方がはるかに速いし、安全だ。
けれど気持ちが急くあまり、まともな思考が働いていなかったのだろう。
侍女たちの声に振り向くことなく、もっちーズたちを引きつれ勢いよく部屋を飛び出したのだった。




