起こりはじめた異変 4
ふわり、と鼻腔にやわらかな香りを感じてゆっくりと目を開けた。
「……? リンド……殿下? どうしてここに……?」
目の前に、心配そうにのぞき込むリンドの姿があった。
どうやらいつの間にか寝ていたらしい。ベッドにどうやってもぐり込んだのかはまったく覚えていないけれど。
ならば今は真夜中のはず。なのになぜここにリンドがいるのだろう。
ぼんやりとした頭でリンドに問いかければ、さっき感じた香りがふわりと漂ってきた。
「……スープ?」
リンドがスープの入った皿とスプーンを手に、なぜ自分のベッドの傍らに座っているのか。さっぱり意味がわからない。
するとリンドが安堵したように息をついた。
「目が覚めてよかった。話はすべて聞いたよ。トルクの話も……」
「……っ! そうだわっ。トルクはっ……⁉ トルクの容体は?」
寝ている場合ではなかった。トルクが今も苦しんでいるかもしれないのに、のんびりと寝ているわけにはいかない。
慌てて体を起こせば、リンドに止められた。
「落ち着くんだ、シェイラ! 君は倒れたんだ。魔物を倒すために、力を使い過ぎたんだろう」
「倒れた……?」
そう言えば、兵からの知らせを聞いたあとの記憶がおぼろげだ。
確かモンクル村の魔物も、他の地に現われた魔物も一掃できたとは聞いた覚えがあるけれど。
倒れてからずっと寝通しで、せめて少しでも栄養のあるものをとらせようとリンドが料理長に消化のいいスープを用意させたらしかった。
「……っ!」
リンド手ずからスープを一匙すくって、口元に差し出してくれた。けれどほんの一匙さえ、喉を通らなかった。
どうやら自分が思う以上に無理をしてしまったらしい。
「聖力を使い過ぎると、体力も精神力も相当に削るらしいんだ。ショックだってあっただろうしね……」
「はい……」
きっと侍女たちからトルクのことを聞いたのだろう。
リンドの顔に辛そうな表情が浮かんでいた。
「失われた力を癒やすには、十分な休息を取るしかない。だから今は頼むから、そのままで聞いてくれ」
あまりにもリンドの顔が苦しげで、黙ってうなずくしかなかった。
「はい……」
ようやくリンドはほっとしたように、口を開いた。
「あのあとモンクル村に使いをやったところ、トルクは目を覚ましたそうだ。重傷ではあるが命に別状はない」
「は……本当ですかっ? 本当にトルクは死なないんですねっ!?」
安堵からぽとり、と目から滴がこぼれ落ちた。
「あぁ。君が懸命に魔物たちを一掃してくれたおかげで、他にけが人もいない。被害も最小限に抑えることができた」
「……っ!」
聞けばトルクの他に目立ったけがをした者はおらず、作物や家々もそこまでひどい被害を被らずに済んだのだと言う。
「よく……頑張ってくれた。シェイラ。君の懸命な働きのおかげだ」
リンドの優しい声に、ガチガチに固くなっていた心と体がようやく解けていく。
「う……、ふっ……うぅっ!」
リンドの手が、ゆっくり頭をなでてくれた。まるで小さな子をなだめるようなその手つきに、涙が次々とこぼれ落ちる。
「うぇっ……! ふえぇぇっ……」
「怖かったよな……。そんな時にそばにいてやれなくて、すまなかった。よく頑張った」
見た目よりも大きなリンドの手が、繰り返し繰り返し頭をそっとなでていく。
その大きな安らぎに、ずっと心の奥に蓋をしていた思いが、つい溢れ出た。
「私……聖女なんて言われても、うまく魔物を退治できなくて……」
「……」
「ちっとも一掃できなくて……。昔の聖女様たちならとっくに退治できてるはずだって皆が言ってるのも知ってて……」
押し込めていた気持ちが、どんどん口から溢れ出す。
「ずっと焦ってて……。でもようやく最近いい調子かなって思ってたのに、まさかトルクが……」
このままいけば近々聖女としての務めを果たしきれるかもしれない。
そんな思いを、魔物たちが見透かしたのかもしれない。
そう思った。そのせいで、トルクは――。
「それは違う! 君のせいなんかじゃない。絶対に、君の慢心のせいなんかでは……!」
リンドは全力で否定してくれた。でもならなぜ急に魔物が倒れなくなったのか。以前は同じやり方で、ちゃんと倒せていたのに。
「それは……」
リンドがはっとしたように、口ごもった。
「私……、トルクが死んじゃったらって思ったら、怖くてたまらなくて……」
「……」
「トルクは、いつかお父さんの農場を継いでとびきりおいしい小麦を育てるんだっていつも笑ってて……!」
「うん……」
「時々すっごく生意気でかわいげないけど、まるでもうひとりの弟みたいな存在で……」
トルクの曇りのない明るい笑顔が次々と浮かんで、安堵と申し訳なさとがぐちゃぐちゃに入り混じった思いが涙となってあふれ出た。
「でもよかった……。トルクが死ななくて、本当によかった……! うぇっ……、ふわぁぁぁんっ!」
泣きじゃくる自分を、リンドはずっと頭をなでながら慰めてくれた。ひとりに何もかも抱えさせてすまなかった、ごめん、とあやまりながら。
気がついたら、泣き疲れて眠りについていた。
最後に覚えているのは、リンドの声。
「ごめん。シェイラ……。もっと早くに幻影の謎にたどり着いていたら、ここまで君を辛い思いをさせることには……」
リンドの言葉の意味は、よくわからなかった。
幻影って何だろう。謎にたどり着いていたら、って何のことなんだろう。
けれど意識はどんどん薄れていって、深い眠りの中に落ちていったのだった。




