残業、やだよね〜
「残業、やだよね〜」
それが彼女の口癖だった。
毎日18時になると、俺の席の横を通り過ぎながら、必ずそう言って帰っていく。声の主は経理部の安西さん。社内でも評判の、キビキビした優秀な女性社員だ。
そして、毎日21時まで働いている俺の心に、グサリと刺さる。
「……ほんと、やだよね……」
思わずつぶやき返して、キーボードに向かう指の力が少しだけ弱まる。なにが“改善提案書”だ。お前らが改善すべきはこの会社の業務フローだよ。
それでも俺は、今日も終電ギリギリまで働く。そうしないと、明日の会議資料が間に合わない。誰も頼んでいないのに、いつの間にか俺の役割になっている。
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「昨日も遅かったんでしょ?」
翌朝、オフィスの給湯室でコーヒーを入れていると、後ろから声がかかった。振り返ると、そこには当然のように安西さんが立っていた。
「まあ……23時くらいまで」
「えー、マジで? ブラックじゃん、それ」
彼女は眉をひそめたあと、ふふっと笑って紙コップを差し出してくる。「私の分もお願い」と言わんばかりに。
「……いや、自分でやれよ」
「うん。でも、やってくれるでしょ?」
こっちの反論を聞く前に、スッと給湯器の前から離れる安西さん。人使いが荒い。けど、なんだかんだ断れないのは、たぶん俺が彼女に気があるからだ。
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その日の夕方。
またしても俺の机の横を通りかかった彼女が、いつものように言った。
「残業、やだよね〜」
しかし今日は、続きがあった。
「……って言ったら、本当にやめられると思う?」
俺は、キーボードを打つ手を止めた。
「え? どういう意味?」
「いや、なんとなく聞いてみたくなって。みんなそう言うでしょ。“残業やだ”“給料上がんないかな”“転職しようかな”って。でも、実際に動く人ってほとんどいない」
彼女は笑顔を浮かべたまま、ちょっと寂しそうに言った。
「私ね、今日で辞めるんだ」
「……え?」
「もう決めてたの。3ヶ月前に。言うタイミングを探してたけど、今日がちょうどいいかなって」
「……マジで?」
「うん、ガチ。来月からは小さな事務所で働くよ。給料は下がるけど、18時で終われるから」
ぽかんとしている俺に、彼女は笑いながら手を振った。
「じゃあね、杉浦くん。お互い、残業とはおさらばしましょう」
言いたいことは山ほどあったけど、言葉にならなかった。
お疲れ様でしたも、頑張ってくださいも、好きでしたさえも。
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それから1ヶ月が経った。
相変わらず終電の時間に、オフィスの蛍光灯がまぶしい。
誰もいないフロアで、ふと、彼女の声が聞こえた気がした。
「残業、やだよね〜」
俺は立ち上がり、机の上のノートを閉じた。
そして、今度こそ声に出した。
「……ほんと、やだよな」
明日は有給を取る。
転職サイトのプロフィールも書きかけたままだし、履歴書の更新もしないといけない。
安西さんの選んだ未来が、どんなものだったかはわからない。けれど――
「俺も、動いてみるかな」
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エピローグ
二ヶ月後、俺はその事務所の面接を受けていた。
面接官として現れた彼女は、少し驚いた顔をして、それから静かに笑った。
「え、杉浦くん、ほんとに来たんだ?」
「うん。やっぱり、残業は、やだよね」
それが、俺の本当の口癖になった日だった。