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その日、俺は過労死して、異世界に転職した

深夜0時。

パソコンの前でキーボードを叩く手を止め、俺はスマホに届いた通知をぼんやりと見つめた。


《お誕生日おめでとう。無理してない?たまには帰っておいでね。》


母からのメッセージだった。

……ああ、そうか。今日が誕生日か。


ディスプレイの右下、「0:03」。

また日付が変わる前に帰れなかった。

毎日こんな時間まで働いて、削れていくのは他人のための時間ばかり。

何のために生きてるんだろう。


「……あのパワハラ社長め。退職代行会社が退職代行を使って辞めたくなるって、笑えない冗談だ。今年こそ辞めてやる」


虚しく笑った瞬間、胸に鋭い痛みが走る。

体が崩れ落ち、床の冷たさが肌に刺さる。

これが……死、か。


意識が遠のく中、ふと頭に浮かんだのは、今朝、最後のクライアントが電話口で言った言葉だった。


『あの、私、もう限界なんです……。助けてください』


――せめて、あの子が無事に辞められますように。


祈るような気持ちを胸に、視界が静かに暗転する。


「――退職代行の力で、この世界の人々を救ってください」


誰かの声が、確かに聞こえた。



目を開けると、そこには石畳の路地、レンガ造りの家、尖塔の教会があった。

澄んだ空気、広い空。まるで観光パンフレットの中のヨーロッパだ。


「……まさか死んでから来るとはな。行ってみたかったヨーロッパ旅行、遅すぎだろ」


ぼそりと皮肉を吐きながら立ち上がる。だが、ここが観光地でないことはすぐに分かった。


ローブ姿の魔法使い風の人間、重厚な鎧を着た騎士――。

どうやら、ここは現代日本ではない。


「……異世界、ってやつか?」


異世界転生系アニメでよく見た光景。そのお約束をなぞってみたくなった。


「ステータス!」


数年ぶりに声を張る。だが、路地裏に虚しく反響するだけだった。


「……まぁ、そんな都合よくはいかないか」


そう嘆いていると、奥から声が聞こえた。


「やっ、やめてください!今治療しないと、この人は死んでしまいます!」


若い女性の叫び声だ。

その声には、どこか最後のクライアントに似た響きがあった。自然と足が向かう。


「そんな金にもならんクズに魔力と時間を割けるか!お得意様の坊ちゃんが捻挫したんだ。行くぞ!」


「彼は……このままだと……!」


路地裏の奥には、ローブ姿の少女と、成金趣味な装飾をつけた小太りの男がいた。


「命令に背いたら円満退職はできんぞ。次の職場はない、奴隷に身分を落としたいか!?」


「ですが……」


「黙ってついてこい!」


乾いた音が響く。

少女の頬を、男の手が打った。


「……異世界に来ても、パワハラはあるのかよ」


思わず苦笑が漏れる。

そうだ、俺はブラック企業で苦しむ人を減らしたくて、退職代行に転職したんだった。

皮肉なことに、そこもブラックだったが……。


でも、今――あの時の気持ちを思い出した。


「やめろ!」


思わず飛び出していた。


「なんだお前は。邪魔するな!」


小太りのおっさんが拳を振るう。見た目は貧相な体だが、右拳にはうっすらオーラのような光が見えた。


とっさに左腕でガードする。だが、骨が嫌な音を立て、壁に叩きつけられる。


「ハハハッ、魔力を込めた拳を素手で防ごうとは、愚か者め」


男の歪んだ笑みを最後に、再び意識が遠のく。



「……やっと起きた。よかった……」


目を覚ますと、薄暗い木造の部屋。

隣には少女――あの時の声の主がいた。


「私はフィリア・リュミエール。助けてくれて、ありがとうございました」


志村しむら 解人ときと。トキトでいいよ」


「トキトさんですね。……本当に、ありがとうございました」


「いや、俺は殴られただけだし……。むしろ君の立場を悪くしたんじゃ」


「そんなことありません。あなたと院長の騒ぎを聞きつけて人が集まり、彼も無視できなくなった。結果的に患者を助けられました」


左腕には添え木と包帯。少し動かすだけで痛みが走る。


「す、すみません!本当なら回復魔法で治せるのですが、魔力がもうほとんど残ってなくて……」


彼女の手がそっと腕に触れる。柔らかな緑の光が灯った。


「……これが、治癒魔法?」


「え? 魔法、ご存知ないんですか?」


フィリアが不思議そうに首を傾げた。


「変わった名前と服装……まさか異国の方? 院長の魔力の拳を素手で受けるなんて、普通じゃありません」


この世界では魔法は常識らしい。

俺のスーツ姿は、さぞ異様だろう。正直に「異世界から来た」と言っても信じてもらえないだろうし……。


「……思い出せないんだ。自分の名前と君と頭を打つ直前のこと以外はまるで」


「記憶喪失……。頭の傷はすぐ治しましたが、記憶は回復魔法でも治せません。申し訳ありません……」


悲しそうに俯く彼女を見て、嘘をついたことに少し胸が痛んだ。


「この左手、治るまでどれくらいかかる?」


「勤務後に少しずつ治療する形になります。たぶん一週間はかかるかと……でも、絶対に治します!」


その疲れきった顔に浮かぶ笑みに、無理はさせたくなかった。


「無理しないで。他のヒーラーに頼むことはできる?」


「治癒魔法は高額です。無一文のあなたには……」


つまり、一週間はここに厄介になるしかないらしい。

まだ聞きたいことは山ほどあるけれど、痛みと共に睡魔が襲ってくる。


「フィリアさん、ありがとうございます。一週間、お世話になります……」


目を閉じながら、なんとか言葉を絞り出し、眠りに落ちた。



「おはようございます、トキトさん。ご飯はあちらに。私はこれから仕事に行ってきます。帰宅次第、治療しますね」


「おはよう。いってらっしゃい」


こんなに眠ったのは、いつぶりだろう。

部屋にある時計は7時を指していた。どうやら構造は俺の世界と同じようだ。


文字も言葉も通じているし、スキルはないけど、これも転生ボーナスってやつか。


左腕はまだ痛むが、昨日よりはマシだ。


「もう少し寝よう……」



ガチャ――。木の扉が開く音。

フィリアが戻ってきた。時刻は……23時。朝よりも疲れた顔をしている。


「ただいま戻りました。治療を始めましょう」


「……お願いします」


彼女による今日の治療が始まった。

こんな遅くまで、毎日……。


*治療開始から5日目


「フィリアさん。いつも帰りが遅いけど、ヒーラーの仕事ってそんなに忙しいんですか?」


左腕の治療が始まるのは、いつも夜遅く。さすがに5日も続くと、気になって仕方がなかった。


「全部がそうってわけじゃないんです。ただ、うちの医院が最近、訪問診療を始めてしまって。それでこの時間まで働かないといけなくなっちゃって……。前はもう少しマシだったんですけどね。でも、あと2年頑張れば転職できるんです。それまでは我慢するつもりです。」


「2年も? そんなに無理したら体も心も壊れる。もっと早く転職はできないんですか?」


この世界にも、ブラック企業ってやつがあるのか。


「トキトさんは記憶を失ってるんですよね。この国では、就職や転職に“推薦状”が必要なんです。これがないと、どれだけ能力があっても働けません。しかも、無職の期間が一定を超えると、身分が“奴隷”に落とされて、自由を失ってしまう。院長は、あと2年働けば推薦状を出すって言っていて……。だから、どれだけキツくても続けるしかないんです。」


「でも、あの院長は君に手を上げていた。それでも許されるのか!?」


退職代行で助けたクライアントたちの姿と重なり、怒りがこみ上げる。


「もちろん許されることじゃありません。でも、証拠がなければどうにもなりません。下手に告発して失敗したら、円満退職も推薦状もダメになって、仕事も失うかもしれない……」


フィリアの目から、静かに涙がこぼれた。

ローブの袖から覗いた腕には、青紫の痣が残っていた。


この世界にも、労働者を守る法律はあるのかもしれない。けれど、それは形ばかり。

日本なら退職代行で救える。でも、今の俺には――何もできない。


怒りと無力感が胸を締めつける。その時だった。


「――退職代行の力で、この世界の人々を救ってください。」


また、あの声が聞こえた。


……そうだ、今こそ。


「ステータス。」


前に試したときは何も出なかった。それが今回は違う。

目の前に、スキル獲得を示すウィンドウが現れる。


《退職代行スキルを獲得しました。》


た、退職代行スキル……!?


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