その日、俺は過労死して、異世界に転職した
深夜0時。
パソコンの前でキーボードを叩く手を止め、俺はスマホに届いた通知をぼんやりと見つめた。
《お誕生日おめでとう。無理してない?たまには帰っておいでね。》
母からのメッセージだった。
……ああ、そうか。今日が誕生日か。
ディスプレイの右下、「0:03」。
また日付が変わる前に帰れなかった。
毎日こんな時間まで働いて、削れていくのは他人のための時間ばかり。
何のために生きてるんだろう。
「……あのパワハラ社長め。退職代行会社が退職代行を使って辞めたくなるって、笑えない冗談だ。今年こそ辞めてやる」
虚しく笑った瞬間、胸に鋭い痛みが走る。
体が崩れ落ち、床の冷たさが肌に刺さる。
これが……死、か。
意識が遠のく中、ふと頭に浮かんだのは、今朝、最後のクライアントが電話口で言った言葉だった。
『あの、私、もう限界なんです……。助けてください』
――せめて、あの子が無事に辞められますように。
祈るような気持ちを胸に、視界が静かに暗転する。
「――退職代行の力で、この世界の人々を救ってください」
誰かの声が、確かに聞こえた。
*
目を開けると、そこには石畳の路地、レンガ造りの家、尖塔の教会があった。
澄んだ空気、広い空。まるで観光パンフレットの中のヨーロッパだ。
「……まさか死んでから来るとはな。行ってみたかったヨーロッパ旅行、遅すぎだろ」
ぼそりと皮肉を吐きながら立ち上がる。だが、ここが観光地でないことはすぐに分かった。
ローブ姿の魔法使い風の人間、重厚な鎧を着た騎士――。
どうやら、ここは現代日本ではない。
「……異世界、ってやつか?」
異世界転生系アニメでよく見た光景。そのお約束をなぞってみたくなった。
「ステータス!」
数年ぶりに声を張る。だが、路地裏に虚しく反響するだけだった。
「……まぁ、そんな都合よくはいかないか」
そう嘆いていると、奥から声が聞こえた。
「やっ、やめてください!今治療しないと、この人は死んでしまいます!」
若い女性の叫び声だ。
その声には、どこか最後のクライアントに似た響きがあった。自然と足が向かう。
「そんな金にもならんクズに魔力と時間を割けるか!お得意様の坊ちゃんが捻挫したんだ。行くぞ!」
「彼は……このままだと……!」
路地裏の奥には、ローブ姿の少女と、成金趣味な装飾をつけた小太りの男がいた。
「命令に背いたら円満退職はできんぞ。次の職場はない、奴隷に身分を落としたいか!?」
「ですが……」
「黙ってついてこい!」
乾いた音が響く。
少女の頬を、男の手が打った。
「……異世界に来ても、パワハラはあるのかよ」
思わず苦笑が漏れる。
そうだ、俺はブラック企業で苦しむ人を減らしたくて、退職代行に転職したんだった。
皮肉なことに、そこもブラックだったが……。
でも、今――あの時の気持ちを思い出した。
「やめろ!」
思わず飛び出していた。
「なんだお前は。邪魔するな!」
小太りのおっさんが拳を振るう。見た目は貧相な体だが、右拳にはうっすらオーラのような光が見えた。
とっさに左腕でガードする。だが、骨が嫌な音を立て、壁に叩きつけられる。
「ハハハッ、魔力を込めた拳を素手で防ごうとは、愚か者め」
男の歪んだ笑みを最後に、再び意識が遠のく。
*
「……やっと起きた。よかった……」
目を覚ますと、薄暗い木造の部屋。
隣には少女――あの時の声の主がいた。
「私はフィリア・リュミエール。助けてくれて、ありがとうございました」
「志村 解人。トキトでいいよ」
「トキトさんですね。……本当に、ありがとうございました」
「いや、俺は殴られただけだし……。むしろ君の立場を悪くしたんじゃ」
「そんなことありません。あなたと院長の騒ぎを聞きつけて人が集まり、彼も無視できなくなった。結果的に患者を助けられました」
左腕には添え木と包帯。少し動かすだけで痛みが走る。
「す、すみません!本当なら回復魔法で治せるのですが、魔力がもうほとんど残ってなくて……」
彼女の手がそっと腕に触れる。柔らかな緑の光が灯った。
「……これが、治癒魔法?」
「え? 魔法、ご存知ないんですか?」
フィリアが不思議そうに首を傾げた。
「変わった名前と服装……まさか異国の方? 院長の魔力の拳を素手で受けるなんて、普通じゃありません」
この世界では魔法は常識らしい。
俺のスーツ姿は、さぞ異様だろう。正直に「異世界から来た」と言っても信じてもらえないだろうし……。
「……思い出せないんだ。自分の名前と君と頭を打つ直前のこと以外はまるで」
「記憶喪失……。頭の傷はすぐ治しましたが、記憶は回復魔法でも治せません。申し訳ありません……」
悲しそうに俯く彼女を見て、嘘をついたことに少し胸が痛んだ。
「この左手、治るまでどれくらいかかる?」
「勤務後に少しずつ治療する形になります。たぶん一週間はかかるかと……でも、絶対に治します!」
その疲れきった顔に浮かぶ笑みに、無理はさせたくなかった。
「無理しないで。他のヒーラーに頼むことはできる?」
「治癒魔法は高額です。無一文のあなたには……」
つまり、一週間はここに厄介になるしかないらしい。
まだ聞きたいことは山ほどあるけれど、痛みと共に睡魔が襲ってくる。
「フィリアさん、ありがとうございます。一週間、お世話になります……」
目を閉じながら、なんとか言葉を絞り出し、眠りに落ちた。
*
「おはようございます、トキトさん。ご飯はあちらに。私はこれから仕事に行ってきます。帰宅次第、治療しますね」
「おはよう。いってらっしゃい」
こんなに眠ったのは、いつぶりだろう。
部屋にある時計は7時を指していた。どうやら構造は俺の世界と同じようだ。
文字も言葉も通じているし、スキルはないけど、これも転生ボーナスってやつか。
左腕はまだ痛むが、昨日よりはマシだ。
「もう少し寝よう……」
*
ガチャ――。木の扉が開く音。
フィリアが戻ってきた。時刻は……23時。朝よりも疲れた顔をしている。
「ただいま戻りました。治療を始めましょう」
「……お願いします」
彼女による今日の治療が始まった。
こんな遅くまで、毎日……。
*治療開始から5日目
「フィリアさん。いつも帰りが遅いけど、ヒーラーの仕事ってそんなに忙しいんですか?」
左腕の治療が始まるのは、いつも夜遅く。さすがに5日も続くと、気になって仕方がなかった。
「全部がそうってわけじゃないんです。ただ、うちの医院が最近、訪問診療を始めてしまって。それでこの時間まで働かないといけなくなっちゃって……。前はもう少しマシだったんですけどね。でも、あと2年頑張れば転職できるんです。それまでは我慢するつもりです。」
「2年も? そんなに無理したら体も心も壊れる。もっと早く転職はできないんですか?」
この世界にも、ブラック企業ってやつがあるのか。
「トキトさんは記憶を失ってるんですよね。この国では、就職や転職に“推薦状”が必要なんです。これがないと、どれだけ能力があっても働けません。しかも、無職の期間が一定を超えると、身分が“奴隷”に落とされて、自由を失ってしまう。院長は、あと2年働けば推薦状を出すって言っていて……。だから、どれだけキツくても続けるしかないんです。」
「でも、あの院長は君に手を上げていた。それでも許されるのか!?」
退職代行で助けたクライアントたちの姿と重なり、怒りがこみ上げる。
「もちろん許されることじゃありません。でも、証拠がなければどうにもなりません。下手に告発して失敗したら、円満退職も推薦状もダメになって、仕事も失うかもしれない……」
フィリアの目から、静かに涙がこぼれた。
ローブの袖から覗いた腕には、青紫の痣が残っていた。
この世界にも、労働者を守る法律はあるのかもしれない。けれど、それは形ばかり。
日本なら退職代行で救える。でも、今の俺には――何もできない。
怒りと無力感が胸を締めつける。その時だった。
「――退職代行の力で、この世界の人々を救ってください。」
また、あの声が聞こえた。
……そうだ、今こそ。
「ステータス。」
前に試したときは何も出なかった。それが今回は違う。
目の前に、スキル獲得を示すウィンドウが現れる。
《退職代行スキルを獲得しました。》
た、退職代行スキル……!?