6話 天使
ザジが去ってからもう一度布団にもぐりこんだが、眠ることはできなかった。
ザジとのやりとりを、フレディからのメッセージを頭の中で反芻する。
オレは手放すときめた。
そうだ。
今までのオレを変えるんだ。
オレは布団から起き上がり、カーテンを開き、窓を開ける。
朝日が目に飛び込んできた。
眩しさに目を閉じる。
瞼の裏側に残る丸い影。
朝の空気をゆっくりと胸の奥深くへ送り込む。
全身で朝を感じたのはいつぶりだろうか。
思い返せばオレは、昼間は眠り夜に活動する生活を続けてきた。
でもそれも今日で終わりだ。
オレは新たな決意を胸に部屋をでた。
下に降りて居間に入ると、家族が朝食をとっていた。
突然のオレの登場に、驚いた顔の三人。
「珍しく早いな、伊蔵。」
トーストをかじりながら声をかけてくる父。
「いま、伊蔵さん分の朝食も用意するから。」
あわててキッチンに向かう母。
「お兄ちゃん久しぶり。元気にしてた?」
笑顔をふりまく妹。
三者三様のリアクションに戸惑うオレ。
「母さん、オレ朝ごはんいいから。ちょっと出かけてくるわ。」
オレはそう言うと、居間を後にして玄関に向かう。
「お兄ちゃん待って。私もいく。」
食べかけの朝食をそのままに、オレの後を追いかけてくる妹。
「ちょっと待ちなさい!天音!」
呼び止める母の声が扉を閉める音に遮られる。
「ねぇお兄ちゃん、大丈夫?」
心配そうに声をかけてくる天音。
玄関を出た直後に一瞬めまいがしたが、何とか一歩を踏み出す。
まだ8時前だというのに、何だこの暑さは…
額から汗がふき出す。
「お兄ちゃん、これ使いなよ。」
天音がハンカチを手渡してきた。
「いや、いいわ。ほんと大丈夫だから…」
なんとか声にだしたが、全く説得力がない。
「ほんと強情なんだから。可愛い妹の好意は受け取っておくもんだよ。」
そう言いながら天音は、オレの後ろポケットにハンカチを入れてくる。
家から20メートルは歩いただろうか。
息が上がってきた...
「お兄ちゃん、わたし部活に行くからこっちの道いくね。外出るの久しぶりなんだから、無理しちゃだめだよ。」
天音はそう言うと、羽がはえているかのような軽やかさで駆け出していく。
まぶしい。
まぶしすぎる。
兄のオレが言うのもなんだが、妹は、天音は本当に可愛かった。
黒目がちな大きな目に、長いまつ毛。
小ぶりな鼻に、花びらのような唇。
“人形のような”という表現がぴったりな愛らしさ。
そして何より天音は優しかった。
今年中学生になったばかりの天音にとって、学校にもいかず引きこもっているオレの存在は疎ましかったはずだ。
にも関わらず、変わらない態度でオレに接し続けてくれている。
天音はオレにとっての“天使”だった。
オレはその“天使”の優しさに甘え続けてきた。
だからオレはこの“甘え”を手放すことに決めた。
オレと天音は幼いころ、近所では、あまりの可愛さに“二粒真珠”と呼ばれていた。
それが今や“豚と真珠”と呼ばれているらしい。
オレは必ず“真珠”の輝きを取り戻して見せる。
妹が、天音が誇れる兄になってみせる。
オレはそう決意すると、重くなった足をもう一歩踏み出した。