穴のはなし
道に穴があいていた。
穴があいているもんだから、よく人がそこに落っこちたり、落っこちはしなくとも、つっかかって蹴躓いたりしていた。
穴に気づく人もいれば気づかない人もいたが、穴はずっとあいたままだった。
そこへあの子がやってきた。その子は穴を見つけて、しばらく思案しているようだった。
そしてそのままそこでじいっとして、様子を伺っていた。
最初に蹴躓いた人の姿を見た時にはもう、その子の手にはシャベルがあった。
その子はおもむろに穴に近づくと、シャベルで周辺の土を均し、穴を綺麗にふさいでしまった。あまりに自然で、初めから終わりまで流れるように美しかったから、何をしたのかわからぬほどだった。
実際ほとんどの人は気づいてもいなかった。
そうしてみんなは、よもやそこに穴があいていたなど1mmも思うことなく、当たり前のようにその上を歩いていた。蹴躓くことなく。おしゃべりしたり、よそ見をしたりしながら。
穴はあちらこちらに気づくとできていた。その度にその子は、様子を見つつ、誰かが蹴躓こうものならすっと近づき、ささっと穴をふさぐのだった。
あまりに造作なくやってのけるものだから、私はそれがどんなものかと興味を持った。
実を言うと、その子を観察しているうちに、始めは目の前に出現してやっと見えていた穴が、私にもなんとなく俯瞰して見えるようになってきていたのだ。
それでも私はといえば、気づいたところでせいぜい誰も落ちませんように! と祈るくらいで、その子のように労力を使ってまで穴をどうこうしようとはしなかった。
ある日ほんの興味本位で、私も穴をふさいでみようとして、大きく後悔することになる。穴の周りの地面はこれでもかと硬く、軽々と、少なくともそう見えたあの子がしてのけたように平らに均すなど、とてもじゃないができなかったのだ。
私の手のひらの皮はやぶけて血が滲んだ。無理に力を入れたもんだから変に筋肉を痛めて、しばらく腕があがらなくなった。
あまりに身の程知らずで浅はかであった。恥ずかしさのあまりシャベル片手に俯く私の隣にやって来たあの子は、怒っているようで泣いているようで、それでいて温かかった。
もっと威張ってもいいはずだった。誰にとっても有益なことを無償で提供しているのだ、ありがたがられて崇め立てられ、表彰されてもいいくらいだった。
それなのにあの子は執拗にそれを避けた。むしろ何でもないことかのように振る舞った。事実、何でもないことだったのだろう。その子にとっては。
穴があって落ちて怪我をする人がいるなら穴を塞ぐまで、ただそれだけのことだったのだろう。
偽善だとかいい人ぶってるとか言い出す人もいた。こそこそするのが気に食わないと、何の権限があるのか怒り出す人さえいた。
自分にも穴くらい埋めることができると自負する一部の人はその子をマウント合戦の土壌に引っ張り下ろそうと躍起になっていた。
別に正義でも善行でもない、心地よくいるためにその子にとってはごく当たり前に感じてることをしているだけなのにその感覚がわからない人にはどうしても鼻につくらしかった。
私は一瞬で捻り潰してしまえばいいのに、と過激なことを考えたり、放っておけばいいのに、と歯痒く感じたりしながらも、醜いものが大嫌いなので視界に入れないよう努めていた。
いつまでも続いた。いつもその子が道を譲って終焉を迎えるようだった。当然道はまた穴ぼこだらけになった。
初めは私もわからなかった。何のループを見せられてるのかと思っていた。気づくとまたあの子は穴を埋めに戻ってくるのだ。
ただ不十分を十分に、不安を平和に、不協和音を完全5度の協和音に。
ただそれだけなのだろう。
目の前の穴を穴のまま、おいておくことができないだけなのだろう、人が蹴躓く限りは。
そしてどれだけ無理解により理不尽にはけ口にされようとも、甘んじてされるがままになる、どころかサンドバッグとしてその身を差し出す始末なのは、その子が知っているからなのだと気づいた時、私はこの世で最も崇高で最も美しく、最も気高い強さを見たのだ。
あの子は穴を埋める人をこきおろす人の心にあいた穴をこそ放っておけないのだ。
人に当たりたいほど辛い、その大変さがわかるから。
道にあいた穴と同様、それはごく当たり前にただケアする対象というだけなのだろう。
徒労に帰す他道ないエネルギーの使いどころに意見したくないと言えば嘘になるが、なぜならそれどころではないのだ、ほとんど世界の損失レベルにまで私は責任を感じているのだ、それでも私は他人のことにかまけている場合ではない、と肝に銘じて鏡を見る。
私はというと相変わらず穴を埋めることなどできないのだ。
ただ、シャベルの代わりに拡声器片手に危険を知らせてまわることはできるかもしれないし、穴の前に看板を立てることはできるかもしれない。
そうやってできる道を探しては歩みを止めない努力を続けている。
穴で怪我する人がいなければ嬉しいのはもちろんだが、私は少しでも近づきたいのだ。
立ち止まると置いてかれる、後ろを振り向く暇もない、穴はあの子が埋めてくれる、万一落ちても助けてくれる、助けられなくとも私は這いつくばってでもよじ登ろう、そして進む。
知らないままでは定めることのできなかった目的の方向へ向かって。
尊敬に値するあの子の横を歩くに相応しい存在になるべく。
道の穴がひとつでもなくなればいいなと祈りながら。